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「古墳時代」の版間の差分

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2004年8月25日 (水) 08:11時点における版

古墳時代こふんじだい)とは、日本3世紀後半ないし4世紀初め頃から7世紀頃の時代を指す。約300年間ぐらい前方後円墳が造り続けられたとする長い時代である。前方後円墳の世紀ともいわれている。また、王権を得るためには手段を選ばず、有力候補が自分の兄弟や異母兄弟であろうとも、奸計・策略をめぐらして倒すなどの激しい王権争奪戦が繰り返された時代でもある。

古墳時代の時期区分

3世紀後半ないし4世紀初め頃から古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、6世紀初めから7世紀の半ばごろまでを古墳時代後期としている。しかし、実際の古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀前半ごろ、関東では8世紀のはじめごろ、東北地方では8世紀の末ごろでほぼ終わる。時代名称はこの時期、古墳の築造が盛んに行われたことに由来する。

古墳時代前期

3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れる。それから少し経ち、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳の建設が集中した。埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られる。この頃、円筒埴輪が盛行し、土師器が畿内でつくられ、各地に普及し、その後、器財埴輪・家形埴輪が現れた。

古墳時代中期

5世紀の初頭、大王陵クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から大坂平野に移り、さらに巨大化し、人物埴輪が現れた。5世紀半ばになり、畿内の大型古墳の竪穴式石室が狭長なものから幅広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。各地に巨大古墳が出現するようになり、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなった。

5世紀後半には、北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が採用されるものが増えてきた。北部九州の大型古墳には、石人・石馬が建てられるものもあった。またこの頃大阪南部で、須恵器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れた。

5世紀の終わりには、畿内の一部に先進的な群集墳が現れ、大型古墳に家型石棺が取り入れられるようになった。南東九州地方や北部九州に地下式横穴墓がつくられ始め、また、装飾古墳が出現しだした。

古墳時代後期

6世紀の前半には、西日本の古墳に横穴式石室が盛んに造られるようになった。関東地方にも横穴石室を持つ古墳が現れ、北部九州では石人・石馬が急速に衰退した。

6世紀後半になり、北部九州で装飾古墳が盛行し、埴輪が畿内で衰退し、関東で盛行するようになった。西日本で群集墳が盛んに造られた。

古墳時代終末期

7世紀の初め、関東・東北で横穴式石室を持つ古墳が盛んに造られた。少したって、畿内では前方後円墳が造られなくなり、天皇陵を含む大型古墳も方墳となり、関東では群集墳が盛んに造られた。

古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀後半頃、関東では8世紀はじめ頃、東北地方では8世紀末頃ほぼ終わる。

地域国家から古代国家へ

初期ヤマト政権

奈良盆地の東南部に三輪王朝とか初瀬王朝とか呼ばれるヤマト政治勢力が出来上がっていた。一方北部九州にも伊都国や奴国を中心とする政治勢力ができていた。初期ヤマト政権の誕生にはヤマト王朝と北部九州地方国家が関わっていたのである。これらの二大勢力がどのようになって統一国家を形成していったのかが問題となる。いわゆる「神武東征」があったのか、ヤマト勢力が他を圧倒して統一政治勢力を打ち建てたのか。今後の考古学上の最大の課題である。それによって「邪馬台国」がどこにあったのかもおよその見当がつけられる。
領土争いが続き、ムラの統廃合が進んで国となり、大和王権が最終的にその支配を確実にした。各地で前方後円墳と呼ばれる大規模な古墳が作られたのもこの頃であり、仏教もこの時代に伝来した。

倭の五王の時代

中国の史書に266年から倭国の関係記事が見えなかったが、約1世紀半もたって、5世紀の初めの413年東晋・義熙9)に中国の史書『晋書』安帝紀に、倭国が貢ぎ物を献じたことが記されている。421年・永初2年)に中国の史書『宋書』倭国伝に「倭王の讃」の記事が見える。これ以後、珍・済・興・武とつづく。いわゆる「倭の五王」である。このうち、有名な上表文を送った武を雄略天皇に比定している。上表文には、先祖代々から苦労して日本国土を統一した事績が書かれている。埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣銘や熊本県玉名市江田船山古墳から出土した大刀銘から雄略天皇の治世の一端が分かる。「杖刀人(じょうとうじん)」「典曹人(てんそうじん)」とあることから、まだ「部(べ)」の制度が5世紀末には成立していなかった。島根県松江市岡田山古墳から出土の鉄刀銘「額田部臣(ぬかたべのおみ)」からは、6世紀の中頃には「部民(べみん)」制度の施行を知ることが出来る。また、大臣・大連の制度ができ、大臣には平群(へぐり)氏、大連には大伴氏・物部氏が選ばれた。氏姓(うじかばね)制度も成立していたことが窺える。527年、筑紫国造・磐井の反乱が起こった。

初期国家の成立

安閑(531年-535年)・宣化(535-539年)・欽明(539-571年)の各王朝を通じて、地域国家から脱して初期国家を形成していった。王権のもとには、ウジを持つ物部氏蘇我氏大伴氏平群氏葛城氏などがいて、臣・連・国造・郡司などの職掌があった。地方は、豪族が部をつくり、勢力をはっていた。

宣化朝に蘇我氏が大臣になり勢いを増し、崇峻朝(587年-592年)では蘇我氏が大臣一人で政権の中枢を握った。稲目(いなめ)・馬子(うまこ)・蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)と蘇我氏の専横の時代が645年皇極天皇4年)の乙巳(いつし)の変までの約半世紀間続くのである。

欽明朝では、戸籍が造られ、国造・郡司の前身的な国家機構が整備された。また、この欽明朝で忘れてはならない仏教の伝来があった。538年に百済から伝来した。『日本書紀』は、552年に伝わったと書いているが、他の史料から編者の改変である事がわかっている。仏教伝来については、蘇我氏と物部氏とが争い、蘇我氏の勝利に終わる。


できごと

関連項目


弥生時代 - 古墳時代 - 飛鳥時代