「ソロレート婚」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
Hakuryu5jp (会話 | 投稿記録) |
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
8行目: | 8行目: | ||
以下の例がみられる。 |
以下の例がみられる。 |
||
=== 日本 === |
=== 日本 === |
||
*[[藤原師輔]] - 妻[[勤子内親王]]、[[雅子内親王]]、[[康子内親王]]がともに[[醍醐天皇]]の皇女(他に何人か妻がいる) |
|||
*[[島津忠義]]([[薩摩藩]]主・公爵) - 先妻暐子、後妻寧子とも先代藩主(養父)[[島津斉彬]]の娘 |
*[[島津忠義]]([[薩摩藩]]主・公爵) - 先妻暐子、後妻寧子とも先代藩主(養父)[[島津斉彬]]の娘 |
||
*[[浅野綱晟]]([[広島藩]]主) - 正室逸姫、継室八代姫とも[[九条道房]]の娘 |
*[[浅野綱晟]]([[広島藩]]主) - 正室逸姫、継室八代姫とも[[九条道房]]の娘 |
2017年8月14日 (月) 01:20時点における版
ソロレート婚(ソロレートこん)またはソロラト婚(ソロラトこん)は、世界中で広くみられる二次婚のひとつ。妻が死んだ後、夫が妻の姉妹と結婚する制度で、結婚によって培われた家族の資産が崩壊するのを防ぐためのもの。日本語では順縁婚(じゅんえんこん)ともいう。なお、夫が死んだ後に妻が夫の兄弟と結婚する制度のことはレビラト婚または逆縁婚という。ソロレート婚とレビラト婚を総称して日本ではもらい婚ともいう。
中世ヨーロッパではレビラト婚とともに教会法で禁じられていたものの、王侯の間で行われた例はある。また、正式な婚姻は交わしていなかったが、婚約していた相手が急死したため、その姉妹と婚約し、結婚したという事例もある。例えば、ナポリ王フェルディナンド4世は、当初、マリア・ヨーゼファと婚約していたが、ヨーゼファが急死したため、ヨーゼファの妹マリア・カロリーナと結婚した。
日本では武家に嫌われていた逆縁婚以上に寛容に扱われ、明治初年に地方自治体で要許可制にしたところもあったとされるが、基本的に申請を行えば大部分は許可されていたという[1]。
歴史上の人物による例
以下の例がみられる。
日本
- 藤原師輔 - 妻勤子内親王、雅子内親王、康子内親王がともに醍醐天皇の皇女(他に何人か妻がいる)
- 島津忠義(薩摩藩主・公爵) - 先妻暐子、後妻寧子とも先代藩主(養父)島津斉彬の娘
- 浅野綱晟(広島藩主) - 正室逸姫、継室八代姫とも九条道房の娘
- 織田信武(宇陀松山藩主) - 正室智姫、継室清姫とも尾張藩主徳川光友の娘
- 溝口直諒(新発田藩主) - 正室(歌姫)、継室とも広島藩主浅野斉賢の娘
- 板倉勝興(庭瀬藩主) - 正室、継室とも高取藩主植村家敬の娘
- 松平直静(糸魚川藩主) - 正室釣、継室安屋とも先々代藩主松平直春の娘
- 松平直泰(明石藩主) - 正室利恵姫、継室喜姫とも二本松藩主丹羽高庸の娘
- 松平勝善(伊予松山藩主) - 正室鏈、継室猶とも庄内藩主酒井忠器の娘
- 松平輝高(高崎藩主) - 正室兼、継室幸とも大名松平信祝の娘
- 吉良義冬(旗本) - 正室・継室とも酒井忠吉の娘
- 畠山義宣(高家旗本) - 米沢藩主上杉治広の四女祇子、五女増子(以後も何人もの妻を迎えている)
- 戸川安聡(旗本) - 正室、継室とも大名松平忠周の娘
- 種子島久基(薩摩藩士) - 正室千代松、継室袈裟千代とも藩主島津光久の娘
- 楫取素彦(長州藩士・男爵) - 最初の妻久子(吉田松陰の妹)の死後にその妹美和子(久坂玄瑞未亡人)と再婚した。
- 箕作秋坪(蘭学者・漢学者) - 箕作阮甫の三女つねと結婚して婿養子となり、つねの死後に阮甫の四女しん(箕作省吾未亡人)と再婚した。
- 大山綱昌(官僚、貴族院議員) - 最初の妻栄の死後にその妹徳と再婚した(それぞれ建築家山下啓次郎の姉と妹)。
- 大沼保吉(政治家・造り酒屋) - 最初の妻ウンと結婚して大沼家の婿養子となり、ウンの死後にその妹セイと再婚した。
- 大沼貞蔵(医師) - 大沼保吉の長女センと結婚して婿養子となり、センの死後に保吉の次女クラと再婚した。
中国
後妻が元は先妻と同時期に側妻になっていた例を含む。
- 蜀の後主劉禅 - 敬哀皇后、張皇后
- 後燕の成武帝慕容垂 - 即位前の正室段氏(成昭皇后、段夫人)
- 後周の世宗柴栄 - 宣懿皇后(大符皇后)、宣慈皇后(小符皇后、周太后)
- 南唐の後主李煜 - 大周后、小周后
- 金山(俳優) - 3番目の妻孫維世の死後、その妹の孫新世と再婚した。
朝鮮
西アジア
- 第3代正統カリフ・ウスマーン - イスラーム入信に際してそれまでの妻2人と離婚し、ムハンマドの娘ルカイヤと結婚した。ルカイヤの死後、その妹ウンム・クルスームと再婚した。
- エリエゼル・ベン・イェフダー - 制度的に行ったわけではないが、妻デボラの死後、デボラの妹ヘムダと再婚した。
ヨーロッパ
- ポルトガル王マヌエル1世 - 王妃イザベル、マリア(3番目の王妃レオノールはイザベルとマリアの姪である)
- パルマ公ラヌッチョ2世・ファルネーゼ - 公妃イザベッラ、マリア
- ポーランド王ジグムント2世 - 王太子時代の妃エリーザベト、最後の王妃カタリーナ(2人の間に別の妃が1人いる)
- ポーランド王(兼スウェーデン王)ジグムント3世 - 王妃アンナ、コンスタンツェ
- メクレンブルク=シュトレーリッツ大公カール2世 - 世子時代の妃フリーデリケ、シャルロッテ
- スペイン王子・モリナ伯カルロス - ポルトガル王女マリア・フランシスカ(姪)の死後、その姉マリア・テレザ(スペインおよびポルトガル王子ペドロ・カルロスの未亡人)と再婚した。
- ジョン・コリア(イギリスの画家) - トマス・ハクスリーの娘マリアンと結婚し、死別後にその妹エセルと再婚した。亡妻の姉妹との結婚はイギリスでは1907年まで認められておらず、2度目の結婚式はノルウェーで挙げた。
出典
- ^ 福島 正夫 (1973年11月1日). “青年小野梓の家族制度論” (PDF). 早稲田法学 (早稲田大学) 49 (1): 55-106. ISSN 0389-0546. NAID 120000788991 2011年8月9日閲覧。.