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2017年7月28日 (金) 04:08時点における版
金 易二郎(こん やすじろう、1890年10月10日 - 1980年6月23日)は、大正時代から昭和時代初期に活動した将棋棋士。名誉九段。棋士番号1。秋田県羽後町出身。従五位勲四等瑞宝章。
金(こん)は東北地方、特に旧羽後国に古くから伝わる名字である。
経歴
明治41年(1908年)、関根金次郎(後の十三世名人)に入門する[1]。当初は井上義雄門下となり、師の一字をとって名を金易雄と改めていた時期もあったという。
大正6年(1917年)の時点では既に六段になっており、同年のうちに七段に昇段をし、八段の昇段を関根に抑えられていた兄弟子の土居市太郎と段位が並ぶことになった。まもなく八段昇段などをめぐって土居と対立した関根は将棋同盟社を出て東京将棋倶楽部を結成することになる。この時に金は誘いを断って関根に従い、東京将棋倶楽部の設立に尽力したという。
大正8年(1919年)3月1日、新たに関根門下になった木村義雄二段と飛車落ちで対戦している記録がある(木村勝ち)。
大正9年(1920年)、四段に昇段した木村と左香落ちで対戦した記録がある(木村勝ち)。
のちに木村は自伝で、金と花田長太郎が最初の目標であったと語っている。
大正13年(1924年)、棋界統一に功績があり、大崎熊雄や木見金治郎と共に八段に昇進する。昭和3年(1927年)の日本将棋連盟の結成に参加。昭和9年(1934年)から昭和11年(1935年)まで日本将棋連盟会長[1]。
昭和10年(1935年)から開始された実力制名人戦に参加する。神田事件による棋界の再分裂が収束すると、新たに発足した将棋大成会の会長を昭和11年(1936年)まで務める。実力制の名人戦実施に尽力する一方、昭和12年(1937年)には阪田三吉(坂田三吉)からの要望を容れて、木村・花田との対戦を実現させた。
戦中戦後の混乱期も将棋大成会のために奔走する。順位戦に1期だけ参加したが、昭和22年(1947年)に引退。
昭和29年(1954年)、引退し、名誉九段を贈呈される[2]。
昭和45年(1970年)秋、従五位勲四等瑞宝章を授与される[1]。将棋界での瑞宝章受章は三年前の土居に次いで二人目であった。祝賀会は寛永寺のお堂でファンを招いて将棋会を催したという。
弟子に山本武雄、高柳敏夫がいる。高柳は金の娘婿でもある[3]。高柳門下からは十六世名人の中原誠が出ている[3]。
人物・逸話
関東の棋士とあまり交友がなかった阪田三吉が唯一心を許した人物だと言われている。また弟弟子の木村を高く評価し、木村をさん付け呼ぶほどであったという。一方で、一時期袂を分かったこともあって兄弟子の土居とはあまりソリが合わなかったともいわれ、対局ではお互いに闘志をむき出しにして争ったという。
長考派の受け将棋で、同じ棋風の西の重鎮木見金治郎と並び称されたこともある。兄弟子の土居は早見えの天才肌の将棋であり、この点でも対照的であった。持ち時間制が導入された直後の対局で中盤で時間切れになってしまった逸話も伝わる。
「泣き銀の一局」の証言
阪田三吉が「銀が泣いている」とつぶやいて有名になった一局について、大正2年(1913年)の関根戦とする説と、大正4年(1914年)の井上戦であるとする説があるが、後者の説は金が観戦記者の桑島鈍聴子から聞いて、弟子の山本に手紙で伝えた話が根拠となっている。
棋士番号1
棋士番号制度が始まった昭和52年(1977年)4月1日時点で存命していた将棋棋士(引退棋士も含む)の中で、金が最もプロ入りが早かったことから、棋士番号1が付与されている。
家族
参考文献
- 木村義雄『勝負の世界 将棋随想』(恒文社、1995年(六興出版社から1951年に出版された同名の書の復刊))
- 五十嵐豊一『日本将棋大系 第13巻 関根金次郎・土居市太郎』(筑摩書房、1980年)
- 山本亨介「人とその時代十三(関根金次郎・土居市太郎)」(同書251頁所収)
- 加藤一二三『日本将棋大系 第14巻 坂田三吉・神田辰之助』(筑摩書房、1979年)
- 山本亨介「人とその時代十四(坂田三吉・神田辰之助)」(同書245頁所収)
- 大山康晴『日本将棋大系 第15巻 木村義雄』(筑摩書房、1980年)
- 山本亨介「人とその時代十五(木村義雄)」(同書243頁所収)
- 天狗太郎(山本亨介)『勝負師の門 新・名棋士名勝負』(光風社書店、1973年)
- 天狗太郎(山本亨介)『将棋金言集』(時事通信社、1992年)
- NHK取材班編『ライバル日本史1 宿敵』(角川文庫、1996年)271頁
- 東公平『近代将棋のあけぼの』(河出書房新社、1998年)
- 棋士系統図(日本将棋連盟『将棋ガイドブック』96-99頁