「小渕恵三」の版間の差分
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== 概要(出生 - 自民党議員) == |
== 概要(出生 - 自民党議員) == |
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=== 出生-早稲田大学時代 === |
=== 出生-早稲田大学時代 === |
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*1937年、[[群馬県]][[吾妻郡]][[中之条町]]に製糸業を営む[[小渕光平]](衆議院議員・群馬県トラック協会会長)・[[小渕ちよ]]([[光山社]]役員)夫妻の次男として生まれる。[[中之条町立中之条中学校]]1年の時、衆議院議員に当選したものの、小学校しか出ていなかったため強烈な学歴コンプレックスを抱えてしまった[[小渕光平]]の強い意向により[[学習院]]中等部に編入。以後は東京都北区王子に移住。中等部卒業後学習院高等部へは進学せず、都立北高校に進学。在学中は文学を耽読。[[太宰治]]に傾倒する。また、学内の読書サークルに加入し、プラトンなどの輪読を行った。司馬遼太郎に喚起され[[東京外国語大学]]外国語学部モンゴル語学科に進学を希望するも失敗。浪人生活に入る。浪人中は予備校にも通わず太宰研究に没頭。二浪の末、結局外語大をあきらめ[[早稲田大学]]第一文学部英文学科に進学。これが結果的に内閣総理大臣への道につながることになる。当初は[[文学]]を耽読する生活を送っていたが、[[小渕光平]]が[[衆議院]]議員在職中に[[脳梗塞]]で志半ばで無念の死を遂げると、父に投票してくれた有権者への責任を感じ、政治家になることを決意する。そこで一念発起し、人格改造に着手。政治家になるためのスキル獲得のため、サークル活動に積極的に取り組んだ。[[早稲田大学雄弁会]](弁論術を学ぶため)、富木流合気道(日本合気道協会)の[[合気道]]部(乱闘国会を目の当たりにして。小渕は合気道四段)、[[詩吟]]の会(声をよくするため)、[[書道]]部([[政治家]]になれば揮毫を求められると思ったから)、観光学会([[堤義明]]主宰)(選挙区の群馬3区は四万温泉・沢渡温泉等の温泉地のため)に所属していた。加えて、選挙対策として吾妻青年政治研究会会長・群馬早稲田会会長等を歴任。着実に地歩を固めていった。 |
*1937年、[[群馬県]][[吾妻郡]][[中之条町]]に製糸業を営む[[小渕光平]](衆議院議員・群馬県トラック協会会長)・[[小渕ちよ]]([[光山社]]役員)夫妻の次男として生まれる。[[中之条町立中之条中学校]]1年の時、衆議院議員に当選したものの、小学校しか出ていなかったため強烈な学歴コンプレックスを抱えてしまった[[小渕光平]]の強い意向により[[学習院]]中等部に編入。以後は東京都北区王子に移住。 |
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中等部卒業後学習院高等部へは進学せず、都立北高校に進学。在学中は文学を耽読。[[太宰治]]に傾倒する。また、高瀬学の主宰した学内の読書サークル「月曜会」に加入し、プラトンなどの輪読を行った。司馬遼太郎に喚起され[[東京外国語大学]]外国語学部モンゴル語学科に進学を希望するも失敗。浪人生活に入る。浪人中は予備校にも通わず太宰研究に没頭。 |
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二浪の末、結局外語大をあきらめ[[早稲田大学]]第一文学部英文学科に進学。これが結果的に内閣総理大臣への道につながることになる。当初は[[文学]]を耽読する生活を送っていたが、[[小渕光平]]が[[衆議院]]議員在職中に[[脳梗塞]]で志半ばで無念の死を遂げると、父に投票してくれた有権者への責任を感じ、政治家になることを決意する。 |
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そこで一念発起し、人格改造に着手。政治家になるためのスキル獲得のため、サークル活動に積極的に取り組んだ。[[早稲田大学雄弁会]](弁論術を学ぶため)、富木流合気道(日本合気道協会)の[[合気道]]部(乱闘国会を目の当たりにして。小渕は合気道四段)、[[詩吟]]の会(声をよくするため)、[[書道]]部([[政治家]]になれば揮毫を求められると思ったから)、観光学会([[堤義明]]主宰)(選挙区の群馬3区は四万温泉・沢渡温泉等の温泉地のため)に所属していた。加えて、選挙対策として吾妻青年政治研究会会長・群馬早稲田会会長等を歴任。着実に地歩を固めていった。 |
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=== 政治家へ === |
=== 政治家へ === |
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小渕光平死亡当時 |
小渕光平死亡後、1960年に第29回総選挙があった。しかし、当時小渕にはまだ被選挙権がなかった。そこで、地元では元参議院議員で群馬県知事・長野県知事を歴任した[[伊能芳雄]]らを立てたが落選。結果的にこの時、伊能が議席を取れなかったことが小渕の政界進出を導いた。1963年、海外視察旅行に行った。アメリカ滞在時、一旅行者として行っただけにもかかわらず、強引に当時司法長官であった[[ロバート・ケネディ]]に面会し、サインをもらったという |
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早大大学院在学中の[[1963年]]11月、[[第30回衆議院議員総選挙]]に旧群馬3区から自民党公認で出馬し、47350票を獲得し初当選(4議席中3位当選)。26歳という若さであった。父の地盤は脆弱だったが、4人区で自民2・社会2という構成だったので、自民党の県連などが全面的にバックアップしたために当選できた。同期には[[中川一郎]]・[[大出俊]]・[[橋本龍太郎]]・[[田中六助]]・[[伊東正義]]・[[渡辺美智雄]]などがいる |
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しかし、同一選挙区には[[福田赳夫]]、[[中曽根康弘]]、社会党書記長に登りつめた[[山口鶴男]]と大物が揃い、いわゆる[[上州戦争]]が繰り広げられており、毎回選挙には苦労した。しかし、落選はしなかった。[[日本社会党|社会党]]が複数候補擁立を諦め、一時期候補を立てていた[[公明党]]も擁立を見送ると、群馬三区は[[1990年]]の[[第39回衆議院議員総選挙|第39回総選挙]]で、[[日本労働組合総連合会|連合]]が第二の候補を立てるまで事実上の無風区となった。その後も小渕は議席を維持した(連続12回当選)。 |
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このように、超有名政治家に挟まれていた小渕は、自らを「[[ビルの谷間のラーメン屋]]」「米ソ両大国の谷間に咲くユリの花」と喩えていた。福田は料亭、中曽根はレストランで、その狭間で細々とやっている(小渕飯場)というわけである。 |
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1967年、現在環境保護運動家として活動する[[小渕千鶴子]](旧姓大野)と結婚。仲人は橋本登美三郎 |
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自民党内では、佐藤派→田中派→竹下派→小渕派と一貫して保守本流を歩き、自民党内の実力者として着々と地歩を固め、[[渡部恒三]]・[[小沢一郎]]・[[橋本龍太郎]]らとともに、いわゆる「[[竹下派七奉行]]」に列せられるなど、将来の宰相候補として期待された。また、[[竹下登]]に一貫して師事し、竹下直系として力を握った。1970年1月20日に郵政政務次官(第3次[[佐藤栄作]]内閣)に就任。就任時、「郵政省で政務次官をやるからには現場の職務を深く理解したい」と考え、郵政外務職員に混じって自ら郵便配達を行い、当時の郵政省職員、[[郵便局]]局員を驚かせ、また、支持を得ていった。こうしたパフォーマンスは現在では珍しくないが、当時としては異例で大いに話題をよんだ。 |
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1972年、自民党総裁選で、[[田中角栄]]と福田赳夫が激突した。小渕は、同郷で、派閥の長である佐藤栄作の意中の候補であった福田ではなく田中に投票した。そのため、群馬県民の怒りを買い、その年の暮れに行われた第33回総選挙で大苦戦を強いられた。また、そのときに小渕が展開した「バッファロー作戦」という選挙パフォーマンスがまた大不評で、結果的に落選こそ免れたものの全国最低得票で辛くも当選した |
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1972年7月12日に建設政務次官(第1次[[田中角栄]]内閣)に就任。1973年11月25日に総理府総務副長官(第2次田中改造内閣)に就任。1979年11月9日には総理府総務長官兼沖縄開発庁長官(第2次[[大平正芳]]内閣)として初入閣。同期のなかで大臣になったのは最も遅かった。1987年11月6日に[[竹下登]]内閣の[[内閣官房長官]]に就任し、内閣総理大臣臨時代理を務めた。 |
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===「平成おじさん」から首相へ=== |
===「平成おじさん」から首相へ=== |
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[[官房長官]]時代に[[元号]]が変わり、記者会見で新しい[[元号]]「[[平成]]」を公表。「平成おじさん」の異名をとり、大評判なった。これにより小渕は一躍超人気者となり、ステッカーが発売されるなどした。小渕が恭しく「平成」と書かれた額を掲げるシーンは、いまだに時代を象徴する映像として多く利用されている。官房長官に就任してすぐの閣僚名簿の発表時に[[環境庁]]長官の名前を呼び忘れるなど、発言の訂正が多く「訂正長官」と揶揄されることもあった。1991年4月、[[自由民主党幹事長]]に就任。 |
[[官房長官]]時代に[[元号]]が変わり、記者会見で新しい[[元号]]「[[平成]]」を公表。「平成おじさん」の異名をとり、大評判なった。これにより小渕は一躍超人気者となり、ステッカーが発売されるなどした。小渕が恭しく「平成」と書かれた額を掲げるシーンは、いまだに時代を象徴する映像として多く利用されている。官房長官に就任してすぐの閣僚名簿の発表時に[[環境庁]]長官の名前を呼び忘れるなど、発言の訂正が多く「訂正長官」と揶揄されることもあった。1991年4月、[[自由民主党幹事長]]に就任。 |
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1992年10月、経世会([[平成研究会]]。竹下派)会長の[[金丸信]]が[[東京佐川急便事件]]で議員辞職に追い込まれると、小渕が後継の[[自由民主党 (日本)#派閥|派閥]]領袖となった。しかし[[小沢一郎]]、[[羽田孜]]らが反発して[[改革フォーラム21]](羽田・小沢派)を旗揚げし経世会(小渕派)は分裂。1993年、羽田らは自民党を離党して[[新生党]]を結成した。その後、自民党副総裁に就任したものの、党務に従事したため、重要閣僚のポストには無縁で埋もれかけた。1996年1月、[[村山富市]]首相の辞任に伴い、小渕派の[[橋本龍太郎]]が内閣総理大臣に就任。小渕派会長の小渕は政権への意欲を示したものの、[[野中広務]]らの説得により、現実的判断をとって橋本支援に転換。[[加藤紘一]]に自由民主党幹事長のポストを与えるなどの工作を行った。また、 |
1992年10月、経世会([[平成研究会]]。竹下派)会長の[[金丸信]]が[[東京佐川急便事件]]で議員辞職に追い込まれると、小渕が後継の[[自由民主党 (日本)#派閥|派閥]]領袖となった。しかし[[小沢一郎]]、[[羽田孜]]らが反発して[[改革フォーラム21]](羽田・小沢派)を旗揚げし経世会(小渕派)は分裂。1993年、羽田らは自民党を離党して[[新生党]]を結成した。その後、自民党副総裁に就任したものの、党務に従事したため、重要閣僚のポストには無縁で埋もれかけた。 |
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1995年、中曽根康弘・[[福田康夫]]らの陰謀により自民党群馬県連会長の座を追われる(後任は[[尾身幸次]]元経済企画庁長官)。群馬県では「小渕の政治生命もこれで終わり」という声がもっぱらであった |
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1996年1月、[[村山富市]]首相の辞任に伴い、小渕派の[[橋本龍太郎]]が内閣総理大臣に就任。小渕派会長の小渕は政権への意欲を示したものの、[[野中広務]]らの説得により、現実的判断をとって橋本支援に転換。[[加藤紘一]]に自由民主党幹事長のポストを与えるなどの工作を行った。 |
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また、10月の第二次橋本内閣の発足に当たって、衆議院議長就任の話がもちあがり、一時は意欲を示した。しかし、いわゆる「あがりポスト」である議長になれば将来の首相の芽がなくなるため、[[橋本龍太郎]]・[[額賀福志郎]]・[[古川俊隆]]・[[青木幹雄]]らが強行に反対し、結局は[[伊藤宗一郎]]が就任した。 |
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1997年9月、第2次[[橋本龍太郎]]改造内閣で[[外務大臣]]に就く。[[対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約|対人地雷全面禁止条約]](オタワ条約)を外務省の強い反対を押し切って締結するという歴史的な業績を上げた。この事業に関しては、政敵の土井たか子や菅直人らも素直に褒めた。また、「[[人間の安全保障]]」(ヒューマン・セキュリティ)の概念を打ち出したことなどが功績として挙げられる。また、日本でもっとも豊富なアセアン人脈を持つことでも知られ、東南アジア等での外交も積極的に展開した。1998年7月30日、参議院議員選挙での敗北の責任をとって辞任した橋本の後継首相になる。 |
1997年9月、第2次[[橋本龍太郎]]改造内閣で[[外務大臣]]に就く。[[対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約|対人地雷全面禁止条約]](オタワ条約)を外務省の強い反対を押し切って締結するという歴史的な業績を上げた。この事業に関しては、政敵の土井たか子や菅直人らも素直に褒めた。また、「[[人間の安全保障]]」(ヒューマン・セキュリティ)の概念を打ち出したことなどが功績として挙げられる。また、日本でもっとも豊富なアセアン人脈を持つことでも知られ、東南アジア等での外交も積極的に展開した。1998年7月30日、参議院議員選挙での敗北の責任をとって辞任した橋本の後継首相になる。 |
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== 小渕内閣の実績 == |
== 小渕内閣の実績 == |
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[[第18回参議院議員通常選挙|1998年の参議院選挙]]で自民党が追加公認を含め45議席と大敗すると、橋本内閣は総辞職に追い込まれ |
[[第18回参議院議員通常選挙|1998年の参議院選挙]]で自民党が追加公認を含め45議席と大敗すると、橋本内閣は総辞職に追い込まれ、小渕が自民党総裁選に出馬した。[[田中眞紀子]]から、。[[梶山静六]]、は士官学校卒業だから「[[軍人]]」、[[小泉純一郎]]は変な人だから「変人」、そして小渕は「[[凡人]]」などと評されたが、梶山と小泉を破り党総裁に就任。7月30日、国会で首班指名を受け第84代内閣総理大臣に就任。 |
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しかし、与野党が逆転している[[参議院]]では民主党代表の[[菅直人]]が首班指名され、[[日本国憲法]]第67条の衆議院の優越規定により辛くも小渕が指名されるなど、当初の政権基盤は不安定だった。 |
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また、大衆迎合のマスコミにめちゃくちゃにけなされ、足を引っ張られた。このときのマスコミの小渕叩きは尋常ではなく、「[[冷めたピザ]]」(食えない奴)・「[[ボキャ貧]]」(ボキャブラリーが貧しい)・「[[真空総理]]」・「鈍牛」・「イラ渕」等と散々揶揄された。政策などの面ならともかく、ネクタイの色がダサい、髪型がオジンくさい、等々の、人格を徹底的に揶揄するものだった。 |
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総理大臣当時、目指すべき国家像として「富国有徳」を打ち出す。この概念は[[石川嘉延]]により引き継がれ、2005年現在、[[静岡県]]のスローガンの一つとなっている。 |
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同年10月、[[金融機能の早期健全化のための緊急措置に関する法律|金融再生法]]案は野党・民主党案丸飲みを余儀なくされ、10月16日には参議院で[[防衛施設庁]]調達実施本部背任事件をめぐって、[[額賀福志郎]][[防衛庁長官]][[問責決議]]が可決され、額賀は辞任に追い込まれた。この時から、当時の[[参議院議長]]の[[斎藤十朗]]と政治手法をめぐって火花を散らしていた。 |
同年10月、[[金融機能の早期健全化のための緊急措置に関する法律|金融再生法]]案は野党・民主党案丸飲みを余儀なくされ、10月16日には参議院で[[防衛施設庁]]調達実施本部背任事件をめぐって、[[額賀福志郎]][[防衛庁長官]][[問責決議]]が可決され、額賀は辞任に追い込まれた。この時から、当時の[[参議院議長]]の[[斎藤十朗]]と政治手法をめぐって火花を散らしていた。 |
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しかし、その一方で、政権基盤の安定を模索し、野党の[[公明党]]、[[自由党 (日本)#自由党 (日本 1998-2003) |自由党]]に接近。11月に公明党代表の[[浜四津敏子]]が強引に主張した[[地域振興券]]導入を受け入れ、自由党党首・小沢一郎とは連立政権の協議開始で合意した。1999年1月、自由党との連立政権発足。このことで政権基盤がグンと安定し、小渕は強力なリーダーシップを発揮し、[[周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律|周辺事態法]]([[新しい日米防衛協力のための指針|ガイドライン法]])、[[憲法調査会]]設置、[[国旗及び国歌に関する法律]](国旗・国歌法)、[[犯罪捜査のための通信傍受に関する法律|通信傍受法]]、[[住民基本台帳ネットワークシステム|住民票コード付加法]](国民総背番号制)など、「内閣の一つや二つは潰れる」とまでいわれていた重要法案を次々に成立させた。 |
しかし、その一方で、政権基盤の安定を模索し、野党の[[公明党]]、[[自由党 (日本)#自由党 (日本 1998-2003) |自由党]]に接近。11月に公明党代表の[[浜四津敏子]]が強引に主張した[[地域振興券]]導入を受け入れ、自由党党首・小沢一郎とは連立政権の協議開始で合意した。1999年1月、自由党との連立政権発足。このことで政権基盤がグンと安定し、小渕は強力なリーダーシップを発揮し、[[周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律|周辺事態法]]([[新しい日米防衛協力のための指針|ガイドライン法]])、[[憲法調査会]]設置、[[国旗及び国歌に関する法律]](国旗・国歌法)、[[犯罪捜査のための通信傍受に関する法律|通信傍受法]]、[[住民基本台帳ネットワークシステム|住民票コード付加法]](国民総背番号制)など、「内閣の一つや二つは潰れる」とまでいわれていた重要法案を次々に成立させた。 |
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ただ、本人はあくまで冷静で、「支持率が上がったからといって一喜一憂してはいけない。政権発足時に比べれば支持率は大きく上昇したが、今後、支持率は反転し低落傾向に向かうだろう。そのとき、もう一度支持率を上昇傾向に向かわせられるかどうかが勝負だ」と語っていた。 |
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⚫ | 同年9月、自民党総裁選でYKKの一角・[[加藤紘一]]元防衛庁長官と[[山崎拓]]元防衛庁長官を圧倒的大差で打ち破り総裁に再任。10月に公明党が正式に与党参加。続く[[内閣改造]]・[[党三役]]人事では、幹事長・森喜朗を留任させ、総務会長には加藤派が推挙した[[小里貞利]]を拒否、政調会長・[[池田行彦]]を一本釣りし総務会長に横滑り起用し、加藤のライバルであった元総裁で早稲田出身の[[河野洋平]]を外相に起用した。また、山崎派が推挙した[[保岡興治]]の入閣も拒否し、早大雄弁会の先輩・[[深谷隆司]]を通産相に起用した。これは総裁選後の報復人事と囁かれた。また、このときの人事では同時に持ち前の気配りを発揮し、[[早稲田大学雄弁会]]OBから[[玉沢徳一郎]]農林水産大臣、[[深谷隆司]]通産大臣、[[青木幹雄]]官房長官、[[森喜朗]]自民党政務調査会長を起用。また、地元の群馬県から[[福田赳夫]]の娘婿の[[越智通雄]]金融再生委員長、[[中曽根康弘]]の息子・[[中曽根弘文]]文部大臣、[[山本富雄]]の息子・[[山本一太]]外務政務次官を起用した |
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2000年2月、自由党の要求を受け衆院の[[比例代表制|比例代表区]]定数を20削減する定数削減法を強行採決で成立させた。3月には、[[教育改革国民会議]]の開催をはじめた。 |
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そのなかで、次第に小沢一郎が徐々に本来のワガママぶりを発揮。結局同年4月1日、自由党との交渉が決裂し、自由党が連立離脱。その心労がたたったか、翌日に脳梗塞で緊急入院。容態が極めて深刻なことが判明したため、内閣は小渕首相の復帰は困難であるとの見解で一致。4月4日に正式に内閣総辞職した。在職616日。小渕内閣の閣僚は、小渕を除いて後継の[[森喜朗]]内閣に引き継がれた。 |
そのなかで、次第に小沢一郎が徐々に本来のワガママぶりを発揮。結局同年4月1日、自由党との交渉が決裂し、自由党が連立離脱。その心労がたたったか、翌日に脳梗塞で緊急入院。容態が極めて深刻なことが判明したため、内閣は小渕首相の復帰は困難であるとの見解で一致。4月4日に正式に内閣総辞職した。在職616日。小渕内閣の閣僚は、小渕を除いて後継の[[森喜朗]]内閣に引き継がれた。 |
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== トピックス == |
== トピックス == |
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*小渕は気配りの人といわれる。それが如実にあらわれたのが第二次小渕内閣であった。[[早稲田大学雄弁会]]OBから[[玉沢徳一郎]]農林水産大臣、[[深谷隆司]]通産大臣、[[青木幹雄]]官房長官、[[森喜朗]]自民党政務調査会長を起用。また、地元の群馬県から[[福田赳夫]]の娘婿の[[越智通雄]]金融再生委員長、[[中曽根康弘]]の息子・[[中曽根弘文]]文部大臣、[[山本富雄]]の息子・[[山本一太]]外務政務次官を起用。 |
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*2000年1月5日、[[日本テレビ]]『[[ズームイン!!朝!]]』に突如電話で生出演しキャスター |
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*学生時代から沖縄問題に関心を持ち、後の九州・沖縄[[サミット]]開催実現につながった。同サミットの会場となった[[沖縄県]][[名護市]]の万国津梁館近くには、小渕の像が建立されている。([[群馬県]][[中之条町]]の[[吾妻郡]]総合[[図書館]]の駐車場にも、小渕恵三の銅像が建っている。ちなみに、同町内には、[[佐藤栄作]]の揮毫による実父の小渕光平の顕彰碑も建っている) |
*学生時代から沖縄問題に関心を持ち、後の九州・沖縄[[サミット]]開催実現につながった。同サミットの会場となった[[沖縄県]][[名護市]]の万国津梁館近くには、小渕の像が建立されている。([[群馬県]][[中之条町]]の[[吾妻郡]]総合[[図書館]]の駐車場にも、小渕恵三の銅像が建っている。ちなみに、同町内には、[[佐藤栄作]]の揮毫による実父の小渕光平の顕彰碑も建っている) |
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*愛称は「恵ちゃん」、または「おぶっちゃん」。学習院時代のあだ名は「群馬」。早稲田大学雄弁会時代は「文教委員長」と呼ばれていた。 |
*愛称は「恵ちゃん」、または「おぶっちゃん」。学習院時代のあだ名は「群馬」。早稲田大学雄弁会時代は「文教委員長」と呼ばれていた。 |
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*ハマコーには買われていた。ハマコーの大ベストセラー「日本をダメにした九人の政治家」のなかでも、中曽根康弘の部分で小渕に触れ、「まじめな、しっかりした政治家」と褒めていた |
*ハマコーには買われていた。ハマコーの大ベストセラー「日本をダメにした九人の政治家」のなかでも、中曽根康弘の部分で小渕に触れ、「まじめな、しっかりした政治家」と褒めていた |
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== 名言 == |
== 名言 == |
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*(ゴルフ場で女子大生に)「ボク、知ってる?コレ、コレ(額を掲げるまねをしながら)」 |
*(ゴルフ場で女子大生に)「ボク、知ってる?コレ、コレ(額を掲げるまねをしながら)」 |
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*(八百屋で)「カブ上がれ~」 |
*(八百屋で)「カブ上が~れ~」 |
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*([[ナイジェリア]]の[[イボ族]]では"オブチ"という単語が"It's god”という意味であると聞き)「俺も神様だ」 |
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*(大相撲で優勝した琴錦功宗のパーティーで)「群馬の名物は、カカア天下・コンニャク・空っ風・生糸とみな"K"がつくが、今回琴錦のKが加わった。私のケイゾウもKなのでよろしく」 |
*([[大相撲]]で優勝した[[琴錦功宗]]のパーティーで)「群馬の名物は、カカア天下・コンニャク・空っ風・生糸とみな"K"がつくが、今回琴錦のKが加わった。私のケイゾウもKなのでよろしく」 |
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== 交友関係 == |
== 交友関係 == |
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*自由民主党顧問 |
*自由民主党顧問 |
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*自由民主党青年部長 |
*自由民主党青年部長 |
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*自由民主党こんにゃく対策 |
*自由民主党こんにゃく対策議員懇談会代表世話人 |
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*自由民主党電気通信問題調査会長 |
*自由民主党電気通信問題調査会長 |
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*自由民主党都市公園緑地対策特別委員長 |
*自由民主党都市公園緑地対策特別委員長 |
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*自動車整備議員連盟会長 |
*自動車整備議員連盟会長 |
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*国会アマチュア無線クラブJG1ZQU会長 |
*国会アマチュア無線クラブJG1ZQU会長 |
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*木曜クラブ常任委員会議長 |
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*経世会事務局長 |
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*日本・スリランカ友好議員連盟会長 |
*日本・スリランカ友好議員連盟会長 |
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*日本・ベトナム議員連盟会長 |
*日本・ベトナム議員連盟会長 |
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*日本アルゼンチン友好議員連盟会長 |
*日本アルゼンチン友好議員連盟会長 |
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*国土開発幹線自動車道建設審議会会長 |
*国土開発幹線自動車道建設審議会会長 |
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*消防議員連盟会長 |
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*中央省庁等改革推進本部本部長 |
*中央省庁等改革推進本部本部長 |
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*男女共同参画推進本部本部長 |
*男女共同参画推進本部本部長 |
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*映画議員連盟会長 |
*映画議員連盟会長 |
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*浄化槽対策議員連盟会長 |
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*日本・モルディヴ友好議員連盟会長 |
*日本・モルディヴ友好議員連盟会長 |
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*釣魚議員連盟会長 |
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*日本釣振興会会長 |
*日本釣振興会会長 |
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*国際連合貢献議員研究会会長 |
*国際連合貢献議員研究会会長 |
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146行目: | 194行目: | ||
== 主な著作・論文 == |
== 主な著作・論文 == |
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*「鈍牛 角を砥ぐ」諸君(1998) |
*「鈍牛 角を砥ぐ」諸君(1998) |
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*「政治と文学」(1962) |
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== 系譜 == |
== 系譜 == |
2006年4月16日 (日) 05:15時点における版
小渕 恵三(おぶち けいぞう、男性、昭和12年(1937年)6月25日 - 平成12年(2000年)5月14日)は、昭和・平成期における日本の政治家。衆議院議員(12期)。内閣総理大臣(第84代)。正二位大勲位菊花大綬章。
内閣官房長官、外務大臣、自由民主党総裁などを歴任。自由党、公明党と連立政権を樹立し(自自連立、自自公連立)、現在の政府・与党の枠組みをつくった。また、不況のどん底にあった日本経済の復興にも尽力し、景気回復への道筋をつけた。郵政族の実力者として知られ、郵政事業懇話会会長などを歴任した。TBSなどとも太いパイプを持っていた。
{{{名前}}} | |
在任期間 | {{{就任}}} - {{{退任}}} |
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生年月日 |
概要(出生 - 自民党議員)
出生-早稲田大学時代
- 1937年、群馬県吾妻郡中之条町に製糸業を営む小渕光平(衆議院議員・群馬県トラック協会会長)・小渕ちよ(光山社役員)夫妻の次男として生まれる。中之条町立中之条中学校1年の時、衆議院議員に当選したものの、小学校しか出ていなかったため強烈な学歴コンプレックスを抱えてしまった小渕光平の強い意向により学習院中等部に編入。以後は東京都北区王子に移住。
中等部卒業後学習院高等部へは進学せず、都立北高校に進学。在学中は文学を耽読。太宰治に傾倒する。また、高瀬学の主宰した学内の読書サークル「月曜会」に加入し、プラトンなどの輪読を行った。司馬遼太郎に喚起され東京外国語大学外国語学部モンゴル語学科に進学を希望するも失敗。浪人生活に入る。浪人中は予備校にも通わず太宰研究に没頭。
二浪の末、結局外語大をあきらめ早稲田大学第一文学部英文学科に進学。これが結果的に内閣総理大臣への道につながることになる。当初は文学を耽読する生活を送っていたが、小渕光平が衆議院議員在職中に脳梗塞で志半ばで無念の死を遂げると、父に投票してくれた有権者への責任を感じ、政治家になることを決意する。
そこで一念発起し、人格改造に着手。政治家になるためのスキル獲得のため、サークル活動に積極的に取り組んだ。早稲田大学雄弁会(弁論術を学ぶため)、富木流合気道(日本合気道協会)の合気道部(乱闘国会を目の当たりにして。小渕は合気道四段)、詩吟の会(声をよくするため)、書道部(政治家になれば揮毫を求められると思ったから)、観光学会(堤義明主宰)(選挙区の群馬3区は四万温泉・沢渡温泉等の温泉地のため)に所属していた。加えて、選挙対策として吾妻青年政治研究会会長・群馬早稲田会会長等を歴任。着実に地歩を固めていった。
政治家へ
小渕光平死亡後、1960年に第29回総選挙があった。しかし、当時小渕にはまだ被選挙権がなかった。そこで、地元では元参議院議員で群馬県知事・長野県知事を歴任した伊能芳雄らを立てたが落選。結果的にこの時、伊能が議席を取れなかったことが小渕の政界進出を導いた。1963年、海外視察旅行に行った。アメリカ滞在時、一旅行者として行っただけにもかかわらず、強引に当時司法長官であったロバート・ケネディに面会し、サインをもらったという
早大大学院在学中の1963年11月、第30回衆議院議員総選挙に旧群馬3区から自民党公認で出馬し、47350票を獲得し初当選(4議席中3位当選)。26歳という若さであった。父の地盤は脆弱だったが、4人区で自民2・社会2という構成だったので、自民党の県連などが全面的にバックアップしたために当選できた。同期には中川一郎・大出俊・橋本龍太郎・田中六助・伊東正義・渡辺美智雄などがいる
しかし、同一選挙区には福田赳夫、中曽根康弘、社会党書記長に登りつめた山口鶴男と大物が揃い、いわゆる上州戦争が繰り広げられており、毎回選挙には苦労した。しかし、落選はしなかった。社会党が複数候補擁立を諦め、一時期候補を立てていた公明党も擁立を見送ると、群馬三区は1990年の第39回総選挙で、連合が第二の候補を立てるまで事実上の無風区となった。その後も小渕は議席を維持した(連続12回当選)。
このように、超有名政治家に挟まれていた小渕は、自らを「ビルの谷間のラーメン屋」「米ソ両大国の谷間に咲くユリの花」と喩えていた。福田は料亭、中曽根はレストランで、その狭間で細々とやっている(小渕飯場)というわけである。
1967年、現在環境保護運動家として活動する小渕千鶴子(旧姓大野)と結婚。仲人は橋本登美三郎
自民党内では、佐藤派→田中派→竹下派→小渕派と一貫して保守本流を歩き、自民党内の実力者として着々と地歩を固め、渡部恒三・小沢一郎・橋本龍太郎らとともに、いわゆる「竹下派七奉行」に列せられるなど、将来の宰相候補として期待された。また、竹下登に一貫して師事し、竹下直系として力を握った。1970年1月20日に郵政政務次官(第3次佐藤栄作内閣)に就任。就任時、「郵政省で政務次官をやるからには現場の職務を深く理解したい」と考え、郵政外務職員に混じって自ら郵便配達を行い、当時の郵政省職員、郵便局局員を驚かせ、また、支持を得ていった。こうしたパフォーマンスは現在では珍しくないが、当時としては異例で大いに話題をよんだ。
1972年、自民党総裁選で、田中角栄と福田赳夫が激突した。小渕は、同郷で、派閥の長である佐藤栄作の意中の候補であった福田ではなく田中に投票した。そのため、群馬県民の怒りを買い、その年の暮れに行われた第33回総選挙で大苦戦を強いられた。また、そのときに小渕が展開した「バッファロー作戦」という選挙パフォーマンスがまた大不評で、結果的に落選こそ免れたものの全国最低得票で辛くも当選した
1972年7月12日に建設政務次官(第1次田中角栄内閣)に就任。1973年11月25日に総理府総務副長官(第2次田中改造内閣)に就任。1979年11月9日には総理府総務長官兼沖縄開発庁長官(第2次大平正芳内閣)として初入閣。同期のなかで大臣になったのは最も遅かった。1987年11月6日に竹下登内閣の内閣官房長官に就任し、内閣総理大臣臨時代理を務めた。
「平成おじさん」から首相へ
官房長官時代に元号が変わり、記者会見で新しい元号「平成」を公表。「平成おじさん」の異名をとり、大評判なった。これにより小渕は一躍超人気者となり、ステッカーが発売されるなどした。小渕が恭しく「平成」と書かれた額を掲げるシーンは、いまだに時代を象徴する映像として多く利用されている。官房長官に就任してすぐの閣僚名簿の発表時に環境庁長官の名前を呼び忘れるなど、発言の訂正が多く「訂正長官」と揶揄されることもあった。1991年4月、自由民主党幹事長に就任。
1992年10月、経世会(平成研究会。竹下派)会長の金丸信が東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれると、小渕が後継の派閥領袖となった。しかし小沢一郎、羽田孜らが反発して改革フォーラム21(羽田・小沢派)を旗揚げし経世会(小渕派)は分裂。1993年、羽田らは自民党を離党して新生党を結成した。その後、自民党副総裁に就任したものの、党務に従事したため、重要閣僚のポストには無縁で埋もれかけた。
1995年、中曽根康弘・福田康夫らの陰謀により自民党群馬県連会長の座を追われる(後任は尾身幸次元経済企画庁長官)。群馬県では「小渕の政治生命もこれで終わり」という声がもっぱらであった
1996年1月、村山富市首相の辞任に伴い、小渕派の橋本龍太郎が内閣総理大臣に就任。小渕派会長の小渕は政権への意欲を示したものの、野中広務らの説得により、現実的判断をとって橋本支援に転換。加藤紘一に自由民主党幹事長のポストを与えるなどの工作を行った。
また、10月の第二次橋本内閣の発足に当たって、衆議院議長就任の話がもちあがり、一時は意欲を示した。しかし、いわゆる「あがりポスト」である議長になれば将来の首相の芽がなくなるため、橋本龍太郎・額賀福志郎・古川俊隆・青木幹雄らが強行に反対し、結局は伊藤宗一郎が就任した。
1997年9月、第2次橋本龍太郎改造内閣で外務大臣に就く。対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)を外務省の強い反対を押し切って締結するという歴史的な業績を上げた。この事業に関しては、政敵の土井たか子や菅直人らも素直に褒めた。また、「人間の安全保障」(ヒューマン・セキュリティ)の概念を打ち出したことなどが功績として挙げられる。また、日本でもっとも豊富なアセアン人脈を持つことでも知られ、東南アジア等での外交も積極的に展開した。1998年7月30日、参議院議員選挙での敗北の責任をとって辞任した橋本の後継首相になる。
首相在任中の2000年4月2日に、脳梗塞を発症し(前日のうちから前兆がみられたとも言われる)順天堂医院(順天堂大学付属病院)に緊急入院する。執務不能となり、官房長官の青木幹雄を首相代行に指名して辞任したとされる。青木の首相代行就任に際し、脳梗塞で意識を失いつつあった小渕本人に、代行指名を行うことが出来たか否かが、後任に何かと評判の悪い森喜朗が選出されたこととともに野党・マスメディアに「疑惑」として追及された。小渕が倒れた事を発表した青木の記者会見で、記者から「脳死ではないのか?」との異議も出たが、青木はこれを否定した。家族は昏睡状態の小渕に好きな音楽(クラシックや、沖縄の小学生の合唱曲等)を聴かせたが、意識を取り戻す事は無かった。同年5月14日午後4時7分に、病室で家族に見守られながら62歳で病没した。5月15日、大勲位菊花大綬章が贈られた。死後、村山富市により衆議院本会議で弔辞が朗読された(衆院での総理大臣経験者への弔辞は、野党第一党党首が行うのが通例であり、本来なら民主党代表の鳩山由紀夫が弔辞を読むはずであった。しかし、遺族側がこれを拒否し、例外的に自民と旧社会党の連立政権時の総理大臣経験者で社会民主党衆院議員の村山による弔辞となった。当時、鳩山は小渕のドコモ株疑惑(実兄の小渕光平 (二代目)と秘書の古川俊隆がドコモの未公開株を保有し、実質70億円とも90億円ともいわれる利益を得たとの疑惑)を強烈に追及していた。これが急死の一因(野中広務談)とも言われ、遺族は鳩山に悪感情を抱いていたという。6月8日には日本武道館において内閣・自民党合同葬が執り行われ、それに合わせた弔問外交も行われた。
2ヵ月後の2000年の衆議院選挙には次女の優子が後継として群馬5区から出馬し、次点の山口鶴男元日本社会党書記長・元総務庁長官に13万票以上の大差をつけて当選した。(以後3期連続当選)
小渕内閣の実績
1998年の参議院選挙で自民党が追加公認を含め45議席と大敗すると、橋本内閣は総辞職に追い込まれ、小渕が自民党総裁選に出馬した。田中眞紀子から、。梶山静六、は士官学校卒業だから「軍人」、小泉純一郎は変な人だから「変人」、そして小渕は「凡人」などと評されたが、梶山と小泉を破り党総裁に就任。7月30日、国会で首班指名を受け第84代内閣総理大臣に就任。
しかし、与野党が逆転している参議院では民主党代表の菅直人が首班指名され、日本国憲法第67条の衆議院の優越規定により辛くも小渕が指名されるなど、当初の政権基盤は不安定だった。
また、大衆迎合のマスコミにめちゃくちゃにけなされ、足を引っ張られた。このときのマスコミの小渕叩きは尋常ではなく、「冷めたピザ」(食えない奴)・「ボキャ貧」(ボキャブラリーが貧しい)・「真空総理」・「鈍牛」・「イラ渕」等と散々揶揄された。政策などの面ならともかく、ネクタイの色がダサい、髪型がオジンくさい、等々の、人格を徹底的に揶揄するものだった。
総理大臣当時、目指すべき国家像として「富国有徳」を打ち出す。この概念は石川嘉延により引き継がれ、2005年現在、静岡県のスローガンの一つとなっている。
同年10月、金融再生法案は野党・民主党案丸飲みを余儀なくされ、10月16日には参議院で防衛施設庁調達実施本部背任事件をめぐって、額賀福志郎防衛庁長官問責決議が可決され、額賀は辞任に追い込まれた。この時から、当時の参議院議長の斎藤十朗と政治手法をめぐって火花を散らしていた。
しかし、その一方で、政権基盤の安定を模索し、野党の公明党、自由党に接近。11月に公明党代表の浜四津敏子が強引に主張した地域振興券導入を受け入れ、自由党党首・小沢一郎とは連立政権の協議開始で合意した。1999年1月、自由党との連立政権発足。このことで政権基盤がグンと安定し、小渕は強力なリーダーシップを発揮し、周辺事態法(ガイドライン法)、憲法調査会設置、国旗及び国歌に関する法律(国旗・国歌法)、通信傍受法、住民票コード付加法(国民総背番号制)など、「内閣の一つや二つは潰れる」とまでいわれていた重要法案を次々に成立させた。
当初極めて低かった支持率も内閣成立後じわじわと上昇した。逆に時が経つにつれてその性格や気配りが報道関係者や国民の心を掴み、「ブッチホン」等の流行語を生み出すまでの人気を得るに至った。佐野眞一により「ハイパー庶民」とも呼ばれた。(もっとも当年新語・流行語大賞にて大賞として「ブッチホン」が選ばれた訳だが、世間の反応は鈍く、「そんな言葉聞いたことがない」という声がほとんどであった。)
ただ、本人はあくまで冷静で、「支持率が上がったからといって一喜一憂してはいけない。政権発足時に比べれば支持率は大きく上昇したが、今後、支持率は反転し低落傾向に向かうだろう。そのとき、もう一度支持率を上昇傾向に向かわせられるかどうかが勝負だ」と語っていた。 同年9月、自民党総裁選でYKKの一角・加藤紘一元防衛庁長官と山崎拓元防衛庁長官を圧倒的大差で打ち破り総裁に再任。10月に公明党が正式に与党参加。続く内閣改造・党三役人事では、幹事長・森喜朗を留任させ、総務会長には加藤派が推挙した小里貞利を拒否、政調会長・池田行彦を一本釣りし総務会長に横滑り起用し、加藤のライバルであった元総裁で早稲田出身の河野洋平を外相に起用した。また、山崎派が推挙した保岡興治の入閣も拒否し、早大雄弁会の先輩・深谷隆司を通産相に起用した。これは総裁選後の報復人事と囁かれた。また、このときの人事では同時に持ち前の気配りを発揮し、早稲田大学雄弁会OBから玉沢徳一郎農林水産大臣、深谷隆司通産大臣、青木幹雄官房長官、森喜朗自民党政務調査会長を起用。また、地元の群馬県から福田赳夫の娘婿の越智通雄金融再生委員長、中曽根康弘の息子・中曽根弘文文部大臣、山本富雄の息子・山本一太外務政務次官を起用した
2000年2月、自由党の要求を受け衆院の比例代表区定数を20削減する定数削減法を強行採決で成立させた。3月には、教育改革国民会議の開催をはじめた。
そのなかで、次第に小沢一郎が徐々に本来のワガママぶりを発揮。結局同年4月1日、自由党との交渉が決裂し、自由党が連立離脱。その心労がたたったか、翌日に脳梗塞で緊急入院。容態が極めて深刻なことが判明したため、内閣は小渕首相の復帰は困難であるとの見解で一致。4月4日に正式に内閣総辞職した。在職616日。小渕内閣の閣僚は、小渕を除いて後継の森喜朗内閣に引き継がれた。
小渕内閣の特徴として、実力のある重量級の国務大臣を次々登用したことが挙げられる。総理はあくまで全体の方針を策定するだけで、各省庁の個別の案件は国務大臣自らの裁量に任せる、というのが小渕の基本姿勢であり、チームワーク型の内閣である。組織論では、総理が強いリーダーシップを執り国務大臣はその補佐に徹するだけの小泉純一郎内閣のような大統領型内閣と、組織運営の違いがよく対比される
トピックス
- 郵政省が所管するアマチュア無線に造詣が深く、あまり知られていないが熱心なアマチュア無線家でもあり、議員で構成する「国会アマチュア無線クラブ」の会長も務めていた。1986年8月13日の日本初アマチュア衛星JAS-1の打ち上げに大きく貢献。また、アマチュア衛星JAS-1b・アマチュア衛星JAS-2の打ち上げにも貢献した。
- 男はつらいよが大好きで、寅さんファンクラブ会員No.1である。
- コメディアンで映画監督である北野武(ビートたけし)は、このころ小渕を「海の家のラーメン屋」(まずいと思って食べたら意外と上手かった、の意。小渕が死去したとき、たけしは再度「南青山の牛丼屋」という称号を贈り、小渕の死を惜しんだ)と評し、小渕本人も好んで使った。
や視聴者を驚かせた。これは番組内でブッチホンを取り上げて貰ったことに対するお礼を兼ねた電話だった。また4日後のテレビ朝日『サンデープロジェクト』にも突如電話で生出演した。
- 学生時代から沖縄問題に関心を持ち、後の九州・沖縄サミット開催実現につながった。同サミットの会場となった沖縄県名護市の万国津梁館近くには、小渕の像が建立されている。(群馬県中之条町の吾妻郡総合図書館の駐車場にも、小渕恵三の銅像が建っている。ちなみに、同町内には、佐藤栄作の揮毫による実父の小渕光平の顕彰碑も建っている)
- 愛称は「恵ちゃん」、または「おぶっちゃん」。学習院時代のあだ名は「群馬」。早稲田大学雄弁会時代は「文教委員長」と呼ばれていた。
- ハマコーには買われていた。ハマコーの大ベストセラー「日本をダメにした九人の政治家」のなかでも、中曽根康弘の部分で小渕に触れ、「まじめな、しっかりした政治家」と褒めていた
名言
- (ゴルフ場で女子大生に)「ボク、知ってる?コレ、コレ(額を掲げるまねをしながら)」
- (八百屋で)「カブ上が~れ~」
- (ナイジェリアのイボ族では"オブチ"という単語が"It's god”という意味であると聞き)「俺も神様だ」
- (大相撲で優勝した琴錦功宗のパーティーで)「群馬の名物は、カカア天下・コンニャク・空っ風・生糸とみな"K"がつくが、今回琴錦のKが加わった。私のケイゾウもKなのでよろしく」
交友関係
- 堤義明 早稲田時代に堤の主宰するサークルに入っていた
- 岡野加穂留 小渕政権のブレーンとして親交を深めた
- 村山富市 小渕死去を悼み弔辞をよむことを、小渕家から要請された
- 鳩山由紀夫 小渕死去を悼み弔辞をよむことを、小渕家から拒否された
- 中村紘子 中村の自宅で行われるリサイタルの常連
- 浅利慶太 外務大臣時に長野五輪の式典について相談
- 杉良太郎 25年来の友人。小渕の死にショックを受け伍代夏子との結婚披露宴を延期
- 宝井馬琴 小渕の初出馬のとき応援演説に来てくれた
- 宮沢喜一 他人に厳しい宮沢も小渕については「だんだん好きになっていく」と発言
- 橋本龍太郎 初当選が一緒。恵ちゃん・龍ちゃんと呼び合う仲
- 角田登 群馬県議会唯一の小渕派議員
- 稲嶺一郎 学生時代の沖縄での身元引受人
- 玉沢徳一郎 雄弁会の先輩。初出馬のとき世話になった。
- 中坊公平
- 山本龍 群馬県議会議員・小渕の秘書を務めていた
- 堀川とんこう 小学校が一緒。
- 小室哲哉 小室の携帯電話に小渕がブッチホンを掛けサミットのテーマ曲作曲を依頼
自由民主党での主な役職
- 自由民主党総裁
- 自由民主党副総裁
- 自由民主党幹事長
- 自由民主党副幹事長
- 自由民主党国会対策副委員長
- 自由民主党総務
- 自由民主党顧問
- 自由民主党青年部長
- 自由民主党こんにゃく対策議員懇談会代表世話人
- 自由民主党電気通信問題調査会長
- 自由民主党都市公園緑地対策特別委員長
- 自由民主党医療基本問題調査委員長
- 自由民主党群馬県連合会会長
- 自由民主党衆議院群馬県第5区支部長
衆議院での主な役職
- 衆議院大蔵委員長
- 衆議院予算委員長
- 衆議院安全保障特別委員会委員長
- 憲政記念館運営委員
主な役職
- 郵政事業懇話会会長
- 自動車整備議員連盟会長
- 国会アマチュア無線クラブJG1ZQU会長
- 木曜クラブ常任委員会議長
- 経世会事務局長
- 日本・スリランカ友好議員連盟会長
- 日本・ベトナム議員連盟会長
- みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会会長
- 日本ブラジル国会議員連盟副会長
- 日本アルゼンチン友好議員連盟会長
- 国土開発幹線自動車道建設審議会会長
- 消防議員連盟会長
- 中央省庁等改革推進本部本部長
- 男女共同参画推進本部本部長
- 映画議員連盟会長
- 浄化槽対策議員連盟会長
- 日本・モルディヴ友好議員連盟会長
- 釣魚議員連盟会長
- 日本釣振興会会長
- 国際連合貢献議員研究会会長
- 産業構造転換・雇用対策本部本部長
- 高度情報通信社会推進本部本部長
- 国会フィラテリスト議員クラブ会長
- 群馬県アマチュアボクシング連盟会長
- 情報産業振興議員連盟会長
- 大規模リゾート建設促進議員連盟会長
- 大学設立推進議員連盟世話人
おもな受賞歴
- クルゼイロ・ド・スル国家勲章(2003年)
- 第18回ベスト・ファーザー賞イエローリボン賞(1999年)
- 第19回新語・流行語大賞大賞(1999年)
- 群馬県名誉県民(2000年)
- 正二位大勲位菊花大綬章(2000年)
家族・親族
主な著作・論文
- 「鈍牛 角を砥ぐ」諸君(1998)
- 「政治と文学」(1962)
系譜
- 小渕氏
信平━━光平━━┏光平 ┗恵三 ┏剛 ┣━━┣暁子 千鶴子┗優子
関連文献
- 「自民党の若き獅子たち」大下栄治
- 「小渕恵三 全人像」後藤謙次
- 「凡宰伝」佐野眞一
- 「永田町の”都の西北”」大下栄治
- 「永田町大乱」
- 「石油と砂漠と人間とー文化と経済から中東を語る」上毛新聞社
- 「小渕恵三の615日。―第84代内閣総理大臣の全公務記録」光進社
- 「奔流の中の国家」櫻田淳
- 「健児の塔」松本国雄
- 「父のぬくもり」小渕暁子
- 「激録!総理への道―戦後宰相列伝 田中角栄から森喜朗まで」大下栄治
- 「野中広務 差別と権力」魚住昭
- 「父が読めなかった手紙」小渕暁子
関連項目
外部リンク
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