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[[6世紀]]頃、[[突厥]]宗主下の[[ハザール]]が進出し、{{仮リンク|ビザンチン・サーサーン戦争 (602年 - 628年)|en|Byzantine–Sassanid War of 602–628|label=ビザンチン・サーサーン戦争}}、{{仮リンク|第三次ペルソ・テュルク戦争|en|Third Perso-Turkic War}}を行なった。 |
2013年12月15日 (日) 08:18時点における版
アゾフ(ロシア語:Азовアゾーフ;Azov)はロシア連邦南部・ロストフ州の都市。ドン川沿いにあり、アゾフ海までは約6kmと近い。2002年における人口は81,700人。
歴史
紀元前1千年紀にはスキタイ文化の勢力圏に入っていた。紀元前3世紀頃、ボスポロス王国からきたギリシャ人は、ドン川の河口が交易上の重要な土地であったため、ここに殖民都市タナイス(古代ギリシア語: Τάναϊς、「川」の意) をつくった。数世紀後にミトリダテス戦争が起こり、紀元前63年にボスポロス王国はローマ帝国の宗主下に入り、ボスポロス王国のポレモ1世(在位: 紀元前14年 - 紀元前8年)によって居住地は焼かれた。その後、ギリシア人の入植者たちは再建に成功したが、西暦3世紀にゴート人によって滅ぼされた(なお、タナイス(現在Nedvigovka村近辺)は、19世紀中頃から発掘が進められている)。
6世紀頃、突厥宗主下のハザールが進出し、ビザンチン・サーサーン戦争、第三次ペルソ・テュルク戦争を行なった。 7世紀の中頃、西突厥が衰退してハザール・カガン国が独立し、アラブ・ハザール戦争(642年 - 799年)を行なった。
10世紀にハザール・カガン国が衰退し、この地域はスラヴ人のトムタラカン公国(Tmutarakan)領になる。
1067年には、キプチャクがこの地域を支配し、地名をアザク(azak、「低地」の意)に変える。現在のアゾフの地名はここから来ている。13世紀から14世紀にかけてはジョチ・ウルスがこの地を支配したが、ヴェネツィアとジェノヴァの商人たちは許可を得て、ターナという植民都市(現代のアゾフに位置する)をつくり、そこに定住した。
1471年にオスマン帝国の侵攻によりターナ(アゾフ)は占領され、テュルク人はアゾフに要塞を建造した。 1637年の夏、ドン・コサックは4,000人の兵士と200の大砲を用いて、要塞を攻め占領した。ドン・コサックは5年間そこを保持していたが、1641年夏より強大なオスマン軍が要塞を包囲、オスマン軍は要塞を陥落させることができず翌1642年に撤退した。オスマン軍の撤退後、トルコとの全面戦争を危惧するロシア・ツァーリのミハイル・ロマノフは全国会議(ゼムスキー・ソボル)を召集し、要塞をトルコに引き渡すことを決定した。ドン・コサックは、要塞の防御設備を破壊した後に退去した。
その後、クリミア・ハン国に打撃を与えるために、ミハイル・ロマノフの孫でツァーリのピョートル1世(大帝)が大トルコ戦争に乗じてアゾフの再占領を開始した。1695年の攻撃は失敗したものの、1696年に要塞を再占領した。しかし、大北方戦争最中の1711年にピョートル1世はプルート川の戦いでオスマン軍に包囲され、解囲の交渉の際にアゾフ要塞のトルコへの返還に同意した(プルト条約)。
第一次露土戦争におけるロシア帝国の勝利により、キュチュク・カイナルジャ条約(クチュク・カイナルジ条約)が結ばれ、アゾフはロシア領となった。