「毛利斉熙」の版間の差分
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2013年6月18日 (火) 14:45時点における版
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天明3年12月9日(1784年1月1日) |
死没 | 天保7年5月14日(1836年6月27日) |
改名 | 保三郎(幼名)→熙成→憲熙→斉熙 |
別名 | (*「熙」は「煕」、「熈」とも書く) |
戒名 | 清徳院殿天安道寧大居士 |
官位 | 従四位下、侍従、中務大輔、大膳大夫、左近衛権少将、民部大輔(隠居後) |
藩 | 長州藩藩主 |
父母 | 父:毛利治親/実母;小泉氏(明善院) |
兄弟 | 実兄・養父:毛利斉房 |
妻 | 正室:池田治道の娘・三津(法鏡院)/側室;池上藤大夫の娘・真嶺院、金子繁平の娘・玉温院、野中繁八の娘・豊 |
子 |
毛利斉広(次男、毛利斉元養子)、 毛利信順(三男、子の順明は13代藩主敬親の養子)、由美子(毛利斉元正室、蓮容院)、 万寿子(宗義章正室、慈芳院)、 八重姫(毛利元蕃正室、天妙院)、 美知子(水野忠武正室のち毛利元純正室) 養子:毛利斉元 |
毛利 斉熙(もうり なりひろ)は、長州藩の第10代藩主。第8代藩主・毛利治親の次男。
初名は熙成(ひろなり)、憲熙(のりひろ)、改名して斉熙。各諱に一貫して共通する「熙」の字は祖先にあたる毛利煕元に由来するもので、「煕」または「熈」とも表記する。
経歴
天明3年(1783年)12月9日、江戸で生まれる。文化6年(1809年)、兄で先代藩主の毛利斉房の死去により、後を継ぐ。このときに斉房同様、将軍徳川家斉より偏諱を賜って斉熙に改名し、従四位下侍従に叙任した。聡明な藩主で、海防の強化や西洋軍備による軍備増強を行なった。
文政2年(1817年)に従四位少将となる。併せて従弟で福原房純の養嗣子になっていた福原房昌(後の毛利斉元)を貰い返して婿養子にし、文政7年(1824年)2月27日、家督を譲って隠居した。しかし、隠居後も村田清風の登用など、なおも藩政の実権は握り続けた。天保7年(1836年)5月14日、54歳で死去。墓所は東京都港区愛宕の青松院、山口県萩市椿の大照院。
斉熙の家臣
文政6年(斉熙が隠居する直前)の武鑑に掲載されている主要家臣は以下のとおり。
【家老など】 宍戸主計、毛利内匠、毛利本之助(毛利房晁か?)、毛利蔵主、毛利少輔三郎、毛利伊賀、益田丹後、福原豊前、清水長左衛門、堅田宇右衛門、児玉三郎右衛門、国司信濃、佐世六郎左衛門、井原大學
【用人】
江羽兵庫、福嶋九郎右衛門、三浦内左衛門、秋里治右衛門、福原三郎左衛門、久芳安積
【側用人】
揚井謙蔵、粟屋十右衛門、吉田六蔵、神村喜兵衛、南杢之助、内藤十郎兵衛、粟屋与一右衛門(城使兼務)、毛利丹宮、井上三郎兵衛、石津環、宮本八郎右衛門、宇野太兵衛、八木作左衛門、馬屋原伊兵衛、平川端
【城使(他職兼任者除く)】
井原幸兵衛、坂次郎右衛門
偏諱を与えた人物
斉熙時代(※上記の通り、「熙」は「煕」または「熈」とも表記する。)