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| プロ年代 = 1998–2006<br /><br />2007–2009<br />2010–2011<br />2012– |
| プロ年代 = 1998–2006<br /><br />2007–2009<br />2010–2011<br />2012– |
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| プロ所属チーム = チーム・テレコム<br />T-モバイル<br />アスタナ<br />レディオシャック |
| プロ所属チーム = チーム・テレコム<br />T-モバイル<br />アスタナ<br />レディオシャック |
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| 主要レース勝利 = パリ〜ニース(2000) |
| 主要レース勝利 = パリ〜ニース(2000)<br />バスク一周 (2000, 2011)<br />ティレーノ〜アドリアティコ (2007)<br />ツール・ド・ロマンディ (2008)<br />{{GER}}国内選手権・個人ロード (2004) |
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| show-medals = yes |
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| medaltemplates = |
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[[2010年]]、[[チーム・レディオシャック]]に移籍。 |
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*[[ツール・ド・スイス2010|ツール・ド・スイス]]総合8位 |
* [[ツール・ド・スイス2010|ツール・ド・スイス]] 総合8位 |
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*[[ツール・ド・フランス2010|ツール・ド・フランス]]総合14位 |
* [[ツール・ド・フランス2010|ツール・ド・フランス]] 総合14位 |
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*[[エネコ・ツアー2010|エネコ・ツアー]] 総合8位 |
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===バスク一周制覇=== |
===バスク一周制覇=== |
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*3月に行われた[[パリ〜ニース2011|パリ〜ニース]]の山岳第5ステージで区間勝利をあげて総合首位に立ち、最終的に総合2位に入るなど好調を示した。 |
*3月に行われた[[パリ〜ニース2011|パリ〜ニース]]の山岳第5ステージで区間勝利をあげて総合首位に立ち、最終的に総合2位に入るなど好調を示した。 |
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*4月に行われた[[バスク一周2011|バスク一周]]では第2ステージで総合首位に立ちリーダージャージを獲得すると、その後はステージ順位の関係で首位を失うも常にトップとタイム差なしの位置を保ち続け、タイムトライアルの最終ステージでライバル達を引き離し総合優勝を果たした。また、常に高い順位でゴールしたことによりポイント賞も獲得した。 |
*4月に行われた[[バスク一周2011|バスク一周]]では第2ステージで総合首位に立ちリーダージャージを獲得すると、その後はステージ順位の関係で首位を失うも常にトップとタイム差なしの位置を保ち続け、タイムトライアルの最終ステージでライバル達を引き離し総合優勝を果たした。また、常に高い順位でゴールしたことによりポイント賞も獲得した。 |
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*[[ツール・ド・フランス2011|ツール・ド・フランス]]では第9ステージにおいてヴィノクロフ、[[ユルヘン・ファンデンブルック|ファンデンブルック]]らと共に落車し、この時負傷した背中の痛みにより第13ステージでリタイア。 |
* [[ツール・ド・フランス2011|ツール・ド・フランス]]では第9ステージにおいてヴィノクロフ、[[ユルヘン・ファンデンブルック|ファンデンブルック]]らと共に落車し、この時負傷した背中の痛みにより第13ステージでリタイア。 |
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*続いて出場した[[ブエルタ・ア・エスパーニャ2011|ブエルタ・ア・エスパーニャ]]でもツール・ド・フランスの際に負傷した背中の痛みが消えず、やはり第13ステージでリタイアした。 |
* 続いて出場した[[ブエルタ・ア・エスパーニャ2011|ブエルタ・ア・エスパーニャ]]でもツール・ド・フランスの際に負傷した背中の痛みが消えず、やはり第13ステージでリタイアした。 |
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*[[UCIワールドツアー2011|UCIワールドツアー]] 個人総合20位 |
* [[UCIワールドツアー2011|UCIワールドツアー]] 個人総合20位 |
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[[2012年]]、[[レディオシャック・ニッサン・トレック]]に移籍。 |
[[2012年]]、[[レディオシャック・ニッサン・トレック]]に移籍。 |
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*[[ツール・ド・フランス2012|ツール・ド・フランス]] 総合11位 |
* [[ツール・ド・フランス2012|ツール・ド・フランス]] 総合11位 |
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*{{仮リンク|USAプロ・サイクリング・チャレンジ|en|2012 USA Pro Cycling Challenge}}総合4位 |
* {{仮リンク|USAプロ・サイクリング・チャレンジ|en|2012 USA Pro Cycling Challenge}} 総合4位 |
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== 主な成績 == |
== 主な成績 == |
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=== グランツール === |
=== グランツール === |
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* 2004年 ツール・ド・フランス総合2位 |
* 2004年 ツール・ド・フランス 総合2位 |
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* 2006年 ツール・ド・フランス総合2位 |
* 2006年 ツール・ド・フランス 総合2位 |
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* 2008年 ブエルタ・エスパーニャ総合20位 |
* 2008年 ブエルタ・エスパーニャ 総合20位 |
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* 2009年 ツール・ド・フランス総合6位 |
* 2009年 ツール・ド・フランス 総合6位 |
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* 2010年 ツール・ド・フランス総合14位 |
* 2010年 ツール・ド・フランス 総合14位 |
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* 2012年 ツール・ド・フランス総合11位 |
* 2012年 ツール・ド・フランス 総合11位 |
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=== ステージレース === |
=== ステージレース === |
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* パリ〜ニース 総合優勝(2000年)総合2位 (2011年) |
* パリ〜ニース 総合優勝(2000年)、総合2位 (2011年) |
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* バスク一周 総合優勝(2000年、2011年) |
* バスク一周 総合優勝(2000年、2011年) |
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* ティレーノ〜アドリアティコ 総合優勝(2007年) |
* ティレーノ〜アドリアティコ 総合優勝(2007年) |
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* ツール・ド・ロマンディ 総合優勝(2008年) |
* ツール・ド・ロマンディ 総合優勝(2008年) |
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* ツール・ド・スイス総合2位(2008年) |
* ツール・ド・スイス 総合2位(2008年) |
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* 2000年 パリ〜ニース 1勝 バスク一周 1勝 |
* 2000年 パリ〜ニース 1勝 バスク一周 1勝 |
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* 2008年 ツール・ド・ロマンディ1勝 |
* 2008年 ツール・ド・ロマンディ 1勝 |
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* 2009年 ティレーノ~アドリアティコ1勝 |
* 2009年 ティレーノ~アドリアティコ 1勝 |
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* 2011年 パリ〜ニース 1勝 |
* 2011年 パリ〜ニース 1勝 |
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2012年9月15日 (土) 15:24時点における版
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基本情報 | |||||||||
本名 |
アンドレアス・クレーデン Andreas Klöden | ||||||||
愛称 |
クレーディ Klödi アンディ | ||||||||
生年月日 | 1975年6月22日(49歳) | ||||||||
国籍 | ドイツ | ||||||||
身長 | 184cm | ||||||||
体重 | 65kg | ||||||||
選手情報 | |||||||||
所属 | レディオシャック・ニッサン・トレック | ||||||||
分野 | ロードレース | ||||||||
役割 | 選手 | ||||||||
特徴 |
オールラウンダー TTスペシャリスト | ||||||||
プロ経歴 | |||||||||
1998–2006 2007–2009 2010–2011 2012– |
チーム・テレコム T-モバイル アスタナ レディオシャック | ||||||||
主要レース勝利 | |||||||||
パリ〜ニース(2000) バスク一周 (2000, 2011) ティレーノ〜アドリアティコ (2007) ツール・ド・ロマンディ (2008) ドイツ国内選手権・個人ロード (2004) | |||||||||
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最終更新日 2012年1月30日 |
アンドレアス・クレーデン(Andreas Klöden、1975年6月22日- )は、ドイツ・ザクセン州ミットヴァイダ 出身の自転車競技選手。1998年のプロデビュー以後、数々のステージレースで優勝し、ツール・ド・フランスの表彰台にも立ったことがある実力者である。
経歴
デビュー
1996年のU-23世界選手権・個人ロードタイムトライアル3位などの実績を引っさげて、1998年にドイツテレコムチームと契約を結んでプロに転向。以後はチームの絶対的エースであったヤン・ウルリッヒのアシスト役を務めることになる。
パリ~ニース総合優勝
2000年のシーズン前半にパリ〜ニースとバスク一周でそれぞれステージ1勝と総合優勝を果たし、さらにシドニーオリンピック・個人ロードレースでは金メダルのウルリッヒ、銀メダルのアレクサンドル・ヴィノクロフに次いで銅メダルを獲得し、大活躍の年となった。
ツール・ド・フランスでの活躍
しかし以後ビッグタイトルとは縁がなくなり、アシストとして走る日々が続いた。ところが2004年のツール・ド・フランスでは山岳ステージで快走し、得意のタイムトライアルでイヴァン・バッソを逆転、エースのウルリッヒが4位に終わったのとは対照的に、ランス・アームストロングに続く総合2位に入った。さらにツール・ド・フランスの直前に行われた同年のドイツ選手権でも個人ロードレース部門を制覇し、再び世間から注目を浴びるようになる。
2006年にはこの年もエースを務めるはずだったウルリッヒがオペラシオン・プエルトによって開催の直前にツール・ド・フランスの出場を拒まれたことから、急遽チームのエースとして出場することになった。見事その期待に応え、第16ステージ終了時点では総合3位、トップのオスカル・ペレイロとの差は2分29秒で、総合優勝も可能な位置にいた。しかし第17ステージではフロイド・ランディスの激走に対応できず、ペレイロとのタイム差を縮めるどころか、トップから8分以上あった差をランディスにひっくり返される大逆転を許してしまう(その後、このステージにおけるランディスのドーピング疑惑が発覚した)。それでも第21ステージの個人タイムトライアルでランディスを30秒上回るタイムで2位に入って1分29秒差まで詰め寄る気迫を見せ、最終的に3位に入って2回目の表彰台に上がった(後にランディスの失格により、総合2位となる)。
アスタナ移籍
友人でもあったウルリッヒを疑惑の段階で解雇したチームに不信感を抱いていたこともあり、2007年からはアスタナ・チームに移籍。T-モバイル時代のチームメイトでアスタナの絶対的エースであるアレクサンドル・ヴィノクロフのアシストを務めることになった。そして、幸先よく同年のティレーノ〜アドリアティコで総合優勝を果たして久々のビッグタイトルを獲得。そのまま好調を維持してツール・ド・フランスに参加した。
ところがエースのヴィノクロフは第5ステージでの落車によって遅れてゴールし、また、そのときに負ったケガの影響で総合成績が伸び悩むことになった。これに対し、クレーデンは総合トップ10内をキープし続け、エース交代かとささやかれた。第8ステージでは自分がタイムを失うことを承知で、遅れそうになるヴィノクロフを牽引しながらゴール。あくまでもヴィノクロフのアシストの立場を崩さなかったが、ヴィノクロフがさらに遅れ始めた第9ステージの途中で、当時アスタナ・チームの最大のスポンサーであるカザフスタン政府の防衛大臣からチームの監督に「エースをクレーデンに交代せよ」と指示するメールが送られた[1]。クレーデンはその後第13ステージ終了時点で4位。展開次第ではトップも狙える位置につけていた。
しかしピレネーを舞台にした第14・15ステージではアルベルト・コンタドール、ミカエル・ラスムッセンらに終盤の上りで引き離されてしまう。さらに第16ステージ開始前にはヴィノクロフのドーピング疑惑により、表彰台を十分に狙える位置にいたにもかかわらず他のアスタナ・チーム全員とともに棄権させられたうえ、以後のレースへの参加もできなくなる悲哀を味わう羽目になった。
このスキャンダルによりチーム全体の建て直しが急務となったため、アスタナは2007年シーズンをもって解散したディスカバリーチャンネルから元監督のヨハン・ブリュイネールらスタッフ陣を招聘。さらに2007年のツール・ド・フランス総合優勝者のアルベルト・コンタドールや3位のリーヴァイ・ライプハイマーらの有力選手も獲得。チームは再スタートを切ることになり、クレーデンは2008年からは彼らと共に走ることとなった。
ツール・ド・ロマンディ優勝
2008年のシーズン前にはUCIとASOの対立が激化し、ASOはツール・ド・フランスなどの主催のレースにアスタナを招待しないと表明、前年に続く悲劇に見舞われる。おまけに春先にケガをして以後なかなか調子が上がらず苦しんだが、エースとして臨んだツール・ド・ロマンディで、第3ステージの個人タイムトライアルを制して復活。最終的に2位のロマン・クロイツィガーに35秒差をつけ総合優勝した。
この成果が認められたのか、開催直前になって急遽アスタナの出場が認められたジロ・デ・イタリアでは、コンタドールとライプハイマーとともにトリプル・エース体制ともいえる強力布陣で臨んだ。第10ステージの個人タイムトライアルで好走して総合上位につけたが、山岳ステージの第15ステージでは大きく遅れてしまい、以後は特に第19ステージでコンタドールのアシストとしての走りに徹し、彼の総合優勝に貢献した。自身は第20ステージで体調不良もあり、リタイアとなった。その後行われたツール・ド・スイスでは、クロイツィガーに次いで総合2位に入った。
2009年
3月に出場したティレーノ~アドリアティコでは、タイムトライアルの第5ステージでステージ優勝して総合首位に立ち、その後の山岳ステージでミケーレ・スカルポーニらに引き離されるも、最終的には総合3位に入った。
ドーピング疑惑
4月にはジロ・デル・トレンティーノでも第1ステージのタイムトライアルで優勝するが、大会期間中に、2006年のツール・ド・フランスのプロローグの日の晩、フライブルク大学内のクリニックにおいて当時同じT-モバイルチームに属していたパトリック・シンケヴィッツ、マティアス・ケスラーと共に血液ドーピングを行っていたと報じられた[1]。
これはフライブルク大学の調査委員会による調査報告書を基に報じられたもので、この報告書は5月に正式に公表された。
しかしクレーデンはこの疑惑を否定し、アスタナ・チームやASO、UCIは、調査報告書は具体的証拠が何も示されていないとして処分を行わず、ツール・ド・フランス出場は問題ないという立場を示した[2][3]。
ツール・ド・フランスでは、最初のアルプス山岳ステージである第15ステージ終了時点で表彰台も狙える総合4位につけていたが、第17ステージ、コンタドール、アンディ・シュレク、フランク・シュレクと共に4人に絞られた先頭集団で向かえた最後の峠の登りにおいてコンタドールがアタックするとこのグループから大きく遅れだし、2分半近く遅れてゴール。以後のステージでは精彩を欠き、最終的には総合6位に入った。
10月、2006年のドーピング疑惑について、事実の立証が困難であるとして、ドイツ検察当局とクレーデンの弁護側の間で捜査の終了が合意された[4]。
2010年、チーム・レディオシャックに移籍。
- ツール・ド・スイス 総合8位
- ツール・ド・フランス 総合14位
- エネコ・ツアー 総合8位
バスク一周制覇
- 3月に行われたパリ〜ニースの山岳第5ステージで区間勝利をあげて総合首位に立ち、最終的に総合2位に入るなど好調を示した。
- 4月に行われたバスク一周では第2ステージで総合首位に立ちリーダージャージを獲得すると、その後はステージ順位の関係で首位を失うも常にトップとタイム差なしの位置を保ち続け、タイムトライアルの最終ステージでライバル達を引き離し総合優勝を果たした。また、常に高い順位でゴールしたことによりポイント賞も獲得した。
- ツール・ド・フランスでは第9ステージにおいてヴィノクロフ、ファンデンブルックらと共に落車し、この時負傷した背中の痛みにより第13ステージでリタイア。
- 続いて出場したブエルタ・ア・エスパーニャでもツール・ド・フランスの際に負傷した背中の痛みが消えず、やはり第13ステージでリタイアした。
- UCIワールドツアー 個人総合20位
- ツール・ド・フランス 総合11位
- USAプロ・サイクリング・チャレンジ 総合4位
主な成績
グランツール
- 2004年 ツール・ド・フランス 総合2位
- 2006年 ツール・ド・フランス 総合2位
- 2008年 ブエルタ・エスパーニャ 総合20位
- 2009年 ツール・ド・フランス 総合6位
- 2010年 ツール・ド・フランス 総合14位
- 2012年 ツール・ド・フランス 総合11位
ステージレース
- パリ〜ニース 総合優勝(2000年)、総合2位 (2011年)
- バスク一周 総合優勝(2000年、2011年)
- ティレーノ〜アドリアティコ 総合優勝(2007年)
- ツール・ド・ロマンディ 総合優勝(2008年)
- ツール・ド・スイス 総合2位(2008年)
- 2000年 パリ〜ニース 1勝 バスク一周 1勝
- 2008年 ツール・ド・ロマンディ 1勝
- 2009年 ティレーノ~アドリアティコ 1勝
- 2011年 パリ〜ニース 1勝
ワンデイレース
- ドイツ選手権・個人ロードレース 優勝(2004年)
脚注
外部リンク