コンテンツにスキップ

「尋範」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
本文改変、カテゴリ改変
1行目: 1行目:
'''尋範'''(じんぱん、[[寛治]]7年([[1093年]]) - [[承安 (日本)|承安]]4年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]([[1174年]][[5月11日]]))は、[[平安時代]]末期の[[僧侶]]。[[藤原師実]]の十七男。母は[[源師房]]の娘或いは[[藤原隆家]]の孫・[[藤原忠俊]]の娘で同母兄に[[行玄]]がある。『[[尊卑分脈]]』には「尋覚」とも。
'''尋範'''(じんぱん、[[寛治]]7年([[1093年]]) - [[承安 (日本)|承安]]4年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]([[1174年]][[5月11日]]))は、[[平安時代]]末期の[[僧侶]]。[[藤原師実]]の十七男。母は[[源師房]]の娘或いは[[藤原忠俊]][[藤原隆家]]の孫)の娘で同母兄に[[行玄]]がある。『[[尊卑分脈]]』には「尋覚」とも。


[[長寛]]2年([[1164年]])に[[興福寺]][[別当]]、[[仁安 (日本)|仁安]]2年([[1167年]])に[[僧正]]、[[永万]]元年([[1165年]])には[[奈良|南都]]の僧としては初めて[[六条天皇]]の[[護持僧]]に任ぜられる。[[摂家]]出身の高僧として、またその高潔な人柄もあって世の尊崇を集め、[[藤原忠通]]の子・[[信円]]や[[藤原頼長]]の子・[[範長]]が師事した。
[[長寛]]2年([[1164年]])に[[興福寺]][[別当]]、[[仁安 (日本)|仁安]]2年([[1167年]])に[[僧正]]、[[永万]]元年([[1165年]])には[[奈良|南都]]の僧としては初めて[[六条天皇]]の[[護持僧]]に任ぜられる。[[摂家]]出身の高僧として、またその高潔な人柄もあって世の尊崇を集め、[[藤原忠通]]の子・[[信円]]や[[藤原頼長]]の子・[[範長]]が師事した。


政治的には当初頼長に近く、[[保元]]元年([[1156年]])の[[保元の乱]]においては頼長に加担したかどで所領を没官されている。
政治的には当初頼長に近く、[[保元]]元年([[1156年]])の[[保元の乱]]においては頼長に加担したかどで所領を没官されている。


また[[興福寺]][[大乗院]]第3世として[[内山永久寺]]を発展させたことでも知られ、世に内山大僧正と呼ばれた。死の前年に当たる承安3年([[1173年]])には[[多武峰]]の火災の責任を問われて解官され、その永久寺に退隠したと伝えられる。
また興福寺[[大乗院]]第3世として[[内山永久寺]]を発展させたことでも知られ、世に内山大僧正と呼ばれた。死の前年に当たる承安3年([[1173年]])には[[多武峰]]の火災の責任を問われて解官され、その永久寺に退隠したと伝えられる。


{{デフォルトソート:しんはん}}
{{Buddhism-stub}}
{{Buddhism-stub}}
{{Japanese-history-stub}}
{{Japanese-history-stub}}
{{people-stub}}
{{people-stub}}
{{DEFAULTSORT:しんはん}}
[[Category:藤原北家]]
[[Category:御堂流]]
[[Category:日本の僧]]
[[Category:日本の僧]]
[[Category:平安時代の人物]]
[[Category:平安時代の人物]]
[[Category:法相宗]]
[[Category:1093年生]]
[[Category:1093年生]]
[[Category:1174年没]]
[[Category:1174年没]]

2012年7月6日 (金) 04:13時点における版

尋範(じんぱん、寛治7年(1093年) - 承安4年4月9日1174年5月11日))は、平安時代末期の僧侶藤原師実の十七男。母は源師房の娘或いは藤原忠俊藤原隆家の孫)の娘で同母兄に行玄がある。『尊卑分脈』には「尋覚」とも。

長寛2年(1164年)に興福寺別当仁安2年(1167年)に僧正永万元年(1165年)には南都の僧としては初めて六条天皇護持僧に任ぜられる。摂家出身の高僧として、またその高潔な人柄もあって世の尊崇を集め、藤原忠通の子・信円藤原頼長の子・範長が師事した。

政治的には当初頼長に近く、保元元年(1156年)の保元の乱においては頼長に加担したかどで所領を没官されている。

また興福寺大乗院第3世として内山永久寺を発展させたことでも知られ、世に内山大僧正と呼ばれた。死の前年に当たる承安3年(1173年)には多武峰の火災の責任を問われて解官され、その永久寺に退隠したと伝えられる。