「日本陸上競技連盟」の版間の差分
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==歴代会長== |
==歴代会長== |
2011年3月14日 (月) 08:10時点における版
日本陸上競技連盟が入居する岸記念体育会館 | |
創立者 | 平沼亮三 |
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団体種類 | 財団法人(文部科学省所管) |
設立 | 1929年 |
所在地 |
東京都渋谷区神南1-1-1 岸記念体育会館 |
法人番号 | 5011005003503 |
主要人物 |
会長 河野洋平 専務理事 澤木啓祐 |
活動地域 | 日本 |
活動内容 | 陸上競技の統括 |
ウェブサイト | www.rikuren.or.jp |
財団法人日本陸上競技連盟(にほんりくじょうきょうぎれんめい、Japan Association of Athletics Federations 略称・日本陸連、JAAF)は、日本国内の陸上競技界を、統括する財団法人。現在、会長は河野洋平。
略称は、元は日本語名をローマ字表記した頭文字からNRRとされていたが、現在では英語表記の頭文字から上記の通りJAAFとなっている。
当連盟が主催する大会
- 全国都道府県対抗駅伝競走大会
- 大阪国際女子マラソン
- 東京マラソン
- びわ湖毎日マラソン
- 名古屋国際女子マラソン
- 日本陸上競技選手権大会
- 日本ジュニア陸上競技選手権大会
- 日本ユース陸上競技選手権大会
- 秩父宮賜杯全国高等学校陸上競技対校選手権大会
- 全日本中学校陸上競技選手権大会
- 全国小学生陸上競技交流大会
- 福岡国際マラソン
- 全国高等学校駅伝競走大会
- 日本陸上競技連盟
歴代会長
- 初代(1929年~1958年)平沼亮三
- 第2代(1959年~1964年)春日弘
- 第3代(1965年) 河野一郎
- 第4代(1965年~1975年)河野謙三
- 第5代(1975年~1999年)青木半治
- 第6代(1999年~)河野洋平
現在の主な役員
役職 | 名前 | 肩書・経歴 |
---|---|---|
会長 | 河野洋平 | 第71代・第72代衆議院議長、元外務大臣、元自由民主党総裁 |
副会長 | 中曽根弘文 | 参議院議員、外務大臣、元文部大臣、元科学技術庁長官 |
副会長 | 三宅勝次 | 広島経済大学教授、中国陸上競技協会理事長 |
専務理事 | 澤木啓祐 | 順天堂大学スポーツ健康科学部学部長・教授、メキシコ五輪・ミュンヘン五輪代表、順天堂大学陸上競技部名誉総監督 |
公認審判員
S級、A級、B級がある。
- S級は、永年にわたって審判活動に精励し、熟練した審判技術と知識を有する者。
- A級は、数多くの審判活動を通して、より高い審判技術と知識を身に付けた者。
- B級は、審判講習会を受講し、公認審判員として必要な技術と知識を身に付けた者。
マラソン五輪代表の選考事情
マラソン五輪代表の選考による騒動の主要因は日本陸連の選考基準のあいまいさに尽きるが、隠れた要因の一つに、日本では新聞・テレビなど主要メディアと国際マラソン大会が深く結びついていることがあげられる。かつて男子の五輪代表選考は1レースでの一発選考で行っていたこともあったが、マラソンが視聴率の取れる競技となった1980年代半ばごろからは、複数の国際マラソン大会を各主要メディアがこぞって共催するようになり、メディアの意向に副う形で選考レースは複数化した。
また、この頃からマラソンでの五輪メダル獲得が責務と化したことも大きかった。1988年ソウルオリンピックの代表選考では選考レースは3つあったものの、有力選手は1987年福岡国際マラソンへの出場が義務付けられており、事実上の福岡国際一発選考とされていた。しかし、当時のエース瀬古利彦が福岡国際に怪我で出場できなくなったため、慌てた日本陸連が「瀬古は次のびわ湖毎日マラソンでそれなりのタイムを出せば代表にする」ことを事後的に内諾、結果として一発選考という「暗黙の了解」は破棄された。(当時のライバル中山竹通が「(福岡国際に)這ってでも出て来い」とコメントしたと報じられたことは有名である。しかし実際には中山は瀬古欠場の感想を聞かれ「自分なら這ってでも出るけどね」と苦笑交じりに漏らしただけだった。ここからもメディアとマラソンの歪な関係がうかがえる。)単純にタイムだけでは比較できないマラソンでの複数レース選考は悩みの種であり、複数選手のメダル獲得可能性がある近年の女子マラソンでは特に顕著である。
それ以前にも、メダルの責務化が大きな悲劇を生んだことがあった。高度経済成長期に一気に拡大したメディアは1964年東京オリンピックでの円谷幸吉の銅メダルに国家的な賞賛を与えたが、それによって次の1968年メキシコでの金メダル獲得は国家的な至上命令と化してしまう。そのプレッシャーに押しつぶされて円谷は自殺。さらに代表選考でも、竹原高校教師の采谷義秋が選考レースだった3レースすべてに出場し好成績を残すも、采谷は当時無名で実業団選手ではないこと、高地トレーニングの実績がないことなどを理由に落選。びわ湖優勝の宇佐美彰朗、別府優勝の佐々木精一郎とともに、当時君原健二のコーチであった高橋進の「高地には君原が適している」という強い主張によって、選考レースで采谷より成績の悪かった君原が代表になる。結果として、メキシコでは君原が銀メダルを獲得したことで、この選考が疑問に付されることがなくなったどころか、今日のメディアでは「君原は親友円谷の自殺の悲劇を背負ってメダルを獲得した」という美談としてのみ語りつがれている。(采谷は次のミュンヘン五輪で代表になるも、36位に終わる。後に「上り調子だったメキシコで出場したかった」と述懐している。)
メディアにはスポンサーがいる。かつ、実業団の目的は営利企業の宣伝広告である。したがって、スポンサーとして実業団運営企業が選考に様々な圧力をかけたり裏取引があるではないかという憶測は(事実かどうかとは別に)常に付きまとうことになる。
今日では「一発選考=米国流の公平観」にすぎないとされ、また選考レースが複数あったほうがメディアにとっても好都合ということもあり、一発選考そのものが日本のメディアで取り上げられることはほとんどない。一発選考を表立って支持しているのは、かつての学閥優先の時代に現れた叩き上げランナーである中山竹通とスポーツライターの二宮清純ぐらいである。米国が一発選考を採用している理由として訴訟社会、つまり多民族国家アメリカでは不明瞭な代表選考では裁判に訴えられてしまうという背景がある。
なお、今日の日本陸連の公式見解による選考基準は「世界陸上でメダルを獲得した日本人トップは内定、残りの枠は、世界陸上と国内3大会(=男子では、東京(2006年以前は東京国際)・福岡国際・びわ湖毎日、女子では横浜国際女子(2008年以前は東京国際女子)・大阪国際女子・名古屋国際女子)の上位入賞者から五輪でメダルを獲得、または入賞が期待できる選手」というものである。