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== 略歴 ==
== 略歴 ==
[[船橋市立船橋高等学校|市立船橋高校]]3年次の[[全国高等学校サッカー選手権大会|全国高校サッカー選手権]]でベスト4進出に貢献。抜群の身体能力を買われて飛び級で[[オリンピックサッカー日本代表選手|バルセロナ五輪予選日本代表]]に選出、1992年1月のアジア最終予選に出場した。   卒業後、[[横浜フリューゲルス]]に入団。[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]草創期のフリューゲルスを支える。当時の監督、[[加茂周]]がめざす[[ゾーンプレス]]をダブルボランチの相方[[山口素弘]]と体現。[[エドゥ]]、[[モネール]]、[[前園真聖]]らタレントと共に活躍した。1993年、第73回[[天皇杯]]優勝メンバー。
[[船橋市立船橋高等学校|市立船橋高校]]3年次の[[全国高等学校サッカー選手権大会|全国高校サッカー選手権]]でベスト4進出に貢献。抜群の身体能力を買われて飛び級で[[オリンピックサッカー日本代表選手|バルセロナ五輪予選日本代表]]に選出、1992年1月のアジア最終予選に出場した。卒業後、[[横浜フリューゲルス]]に入団。[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]草創期のフリューゲルスを支える。当時の監督、[[加茂周]]がめざす[[ゾーンプレス]]をダブルボランチの相方[[山口素弘]]と体現。[[エドゥ]]、[[モネール]]、[[前園真聖]]らタレントと共に活躍した。1993年、第73回[[天皇杯全日本サッカー選手権大会]]優勝メンバー。




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後に[[ヴィッセル神戸]]、[[佐川急便東京サッカー部|佐川急便東京フリエFC(後の佐川東京SC)]]、[[横浜FC]]、[[ソニー仙台FC]](佐川東京は社員契約。ヴィッセルと横浜FCとソニー仙台はプロ契約)と渡り歩き[[2006年]]、[[静岡FC]]([[東海社会人リーグ|東海社会人リーグ1部]])の選手兼監督に就任した。
後に[[ヴィッセル神戸]]、[[佐川急便東京サッカー部|佐川急便東京フリエFC(後の佐川東京SC)]]、[[横浜FC]]、[[ソニー仙台FC]](佐川東京は社員契約。ヴィッセルと横浜FCとソニー仙台はプロ契約)と渡り歩き[[2006年]]、[[静岡FC]]([[東海社会人リーグ|東海社会人リーグ1部]])の選手兼監督に就任した。
その年(2006年)の天皇杯には静岡県代表として出場。J2の[[水戸ホーリーホック]]等を破り回戦まで勝ち上がるも
その年(2006年)の天皇杯には静岡県代表として出場。J2の[[水戸ホーリーホック]]等を破り4回戦まで勝ち上がるも、[[浦和レッドダイヤモンズ]]の厚い壁に阻まれ敗退となった。
[[浦和レッズ]]の厚い壁に阻まれ敗退となった。


妻は[[高田理英子]](芸名 [[川上理英子]])。オールナイトフジリターンズで神田うのと共にメイン司会を務めた。
妻は[[高田理英子]](芸名 川上理英子)。オールナイトフジリターンズで[[神田うの]]と共にメイン司会を務めた。


==所属クラブ==
==所属クラブ==

2010年2月15日 (月) 13:41時点における版

高田昌明
名前
カタカナ タカダ マサアキ
ラテン文字 TAKADA Masaaki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1973年7月26日
出身地 千葉県習志野市
身長 182cm
体重 77kg
選手情報
ポジション DFMF
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

高田 昌明(たかだ まさあき、1973年7月26日 - )は千葉県習志野市出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはDF(センターバック)、MF(守備的MF)。

略歴

市立船橋高校3年次の全国高校サッカー選手権でベスト4進出に貢献。抜群の身体能力を買われて飛び級でバルセロナ五輪予選日本代表に選出、1992年1月のアジア最終予選に出場した。卒業後、横浜フリューゲルスに入団。Jリーグ草創期のフリューゲルスを支える。当時の監督、加茂周がめざすゾーンプレスをダブルボランチの相方山口素弘と体現。エドゥモネール前園真聖らタレントと共に活躍した。1993年、第73回天皇杯全日本サッカー選手権大会優勝メンバー。


1994年にはアトランタ五輪代表候補に選出され、前回バルセロナ五輪予選経験者として当初は主将を務め守備の中心選手として期待されていたが、規定により前回予選出場者の参加を認められなくなった為、この年を最後に代表からは外れている。

後にヴィッセル神戸佐川急便東京フリエFC(後の佐川東京SC)横浜FCソニー仙台FC(佐川東京は社員契約。ヴィッセルと横浜FCとソニー仙台はプロ契約)と渡り歩き2006年静岡FC東海社会人リーグ1部)の選手兼監督に就任した。 その年(2006年)の天皇杯には静岡県代表として出場。J2の水戸ホーリーホック等を破り4回戦まで勝ち上がるも、浦和レッドダイヤモンズの厚い壁に阻まれ敗退となった。

妻は高田理英子(芸名 川上理英子)。オールナイトフジリターンズで神田うのと共にメイン司会を務めた。

所属クラブ

指導歴

外部リンク