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日本も[[封建制度]]の体制下で欧米の近代法にある[[法治国家]]の諸原則が存在しておらず、刑事面では拷問や残虐な刑罰が存置され、民事面では自由な契約や取引関係を規制して十分な保護を与えていなかったために、欧米列強からはその対象国であると考えられていた。<br>[[江戸幕府]]が[[日米和親条約]]や[[日米修好通商条約]]で長崎、下田、箱館、横浜などの開港や在留外国人の治外法権を認めるなどの不平等条約を結ばされ、明治初期には[[条約改正]]が外交課題となっていた。一方で明治時代に入ると、[[朝鮮]]、[[中国]]に対して[[日朝修好条規]]<ref>糟谷憲一『朝鮮の近代』([[山川出版社]]、1996、p30)、吉野誠「江華島事件」(同『明治維新と征韓論』明石書店、2002、p205)等学術査読研究多数。</ref>や[[下関条約]]<ref>千葉功「列強への道をたどる日本と東アジア情勢」([[川島真]]ほか編『東アジア国際政治史』名古屋大学出版会、2007、p61)他。</ref>、「[[日清通商航海条約]]」<ref>井上裕正ほか『中華帝国の危機』(中央公論社、1997、p226)。</ref>など不平等条約を押し付けていった。 |
日本も[[封建制度]]の体制下で欧米の近代法にある[[法治国家]]の諸原則が存在しておらず、刑事面では拷問や残虐な刑罰が存置され、民事面では自由な契約や取引関係を規制して十分な保護を与えていなかったために、欧米列強からはその対象国であると考えられていた。<br>[[江戸幕府]]が[[日米和親条約]]や[[日米修好通商条約]]で長崎、下田、箱館、横浜などの開港や在留外国人の治外法権を認めるなどの不平等条約を結ばされ、明治初期には[[条約改正]]が外交課題となっていた。一方で明治時代に入ると、[[朝鮮]]、[[中国]]に対して[[日朝修好条規]]<ref>糟谷憲一『朝鮮の近代』([[山川出版社]]、1996、p30)、吉野誠「江華島事件」(同『明治維新と征韓論』明石書店、2002、p205)等学術査読研究多数。</ref>や[[下関条約]]<ref>千葉功「列強への道をたどる日本と東アジア情勢」([[川島真]]ほか編『東アジア国際政治史』名古屋大学出版会、2007、p61)他。</ref>、「[[日清通商航海条約]]」<ref>井上裕正ほか『中華帝国の危機』(中央公論社、1997、p226)。</ref>など不平等条約を押し付けていった。 |
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また近年では、[[2009年]]に日本とEUが[[刑事共助協定]]を締結したが、日本に死刑制度があることを理由に、死刑の可能性のある犯罪に関しては一方的にEUが共助要請に対して拒否権を行使でき、これにより日本で殺人などの罪を犯した容疑者がEU域内に逃げ込めばEU側が一方的に証拠収集等の捜査協力を拒否できることが判明している。<ref> [[共同通信]][[2010年]][[1月5日]]付</ref> |
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== 近代[[東アジア]]における主要な不平等条約 == |
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=== 註釈 === |
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2010年1月6日 (水) 01:01時点における版
不平等条約(ふびょうどうじょうやく)とは、条約の性質に基づいてなされた分類の一種で、ある国家が他の国家に、自国民などに対する権力作用を認めない条約。
概要
憲法及び法典(民法、商法、刑法など)を定めている国の者が、それらの定められていないあるいは整備の進んでいない国において、それらを定めていないことによって被るであろう不当な権力の行使を避けるために結ばれることが多い。
具体的には「関税自主権を行使させない」ことや「治外法権などを認めさせる」ことで、ある国の企業や人が、憲法及び法典のない国に商品を輸入したりする際に莫大な税金を要求されたり、軽犯罪によって死刑を被ったりすることを避けることを目的としたものである。一方で、不平等条約上、有利な側にある国の国民が、不利な側にある国で犯罪を犯した際に、その国の裁判所にて裁くことができない状態となるため、治安問題が増大するという問題や、関税率の操作で貿易において不当に利益をあげ得る、などの問題がある。
19世紀から20世紀初頭にかけて、帝国主義列強はアジア諸国に対して、条約港の割譲や在留外国人の治外法権承認、領土の割譲や租借など不平等な内容の条約を押し付けた。そのなかには、片務的最恵国待遇もあった。
元来は、オスマン帝国が恩恵的にフランス、オランダ、イギリスに対して与えていたカピチュレーションの制度において、治外法権その他を認めていたものだが、産業革命以後は西欧経済圏への従属を企図したものに変質していった。
日本も封建制度の体制下で欧米の近代法にある法治国家の諸原則が存在しておらず、刑事面では拷問や残虐な刑罰が存置され、民事面では自由な契約や取引関係を規制して十分な保護を与えていなかったために、欧米列強からはその対象国であると考えられていた。
江戸幕府が日米和親条約や日米修好通商条約で長崎、下田、箱館、横浜などの開港や在留外国人の治外法権を認めるなどの不平等条約を結ばされ、明治初期には条約改正が外交課題となっていた。一方で明治時代に入ると、朝鮮、中国に対して日朝修好条規[1]や下関条約[2]、「日清通商航海条約」[3]など不平等条約を押し付けていった。
また近年では、2009年に日本とEUが刑事共助協定を締結したが、日本に死刑制度があることを理由に、死刑の可能性のある犯罪に関しては一方的にEUが共助要請に対して拒否権を行使でき、これにより日本で殺人などの罪を犯した容疑者がEU域内に逃げ込めばEU側が一方的に証拠収集等の捜査協力を拒否できることが判明している。[4]
中国(清朝)でも阿片戦争での敗北後、長期にわたって列強とさまざまな不平等条約を締結し、経済的な植民地に転落していった。
近代東アジアにおける主要な不平等条約
近代中国における主要な不平等条約
- 南京条約 1842年8月29日 英国
- 虎門寨追加条約 1843年10月8日 英国
- 望厦条約 1844年7月3日 米国
- 中露イリ通商協定 1851年8月6日 ロシア帝国
- 上海英仏米租界租地章程 1854年7月5日 英国、フランス、米国
- アイグン条約 1858年5月28日 ロシア帝国
- 天津条約
- 北京条約
- 中独通商条約 1861年9月2日 在天津
- 下関条約 1895年4月17日 日本 在下関
- 中独膠州湾租界条約 1898年3月6日 在北京
- 中露旅順大連租界条約 1898年3月27日 在北京
- 威海衛租借協定 1898年7月1日 英国、在北京
- 広州湾租界条約 1899年11月16日 フランス、在広州湾
- 辛丑条約 1901年9月7日 英国、米国、日本、ロシア帝国、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、ベルギー、スペイン、オランダ
- 満州里境界条約 1911年12月20日 ロシア 在満州里
近代朝鮮における主要な不平等条約
近代日本における主要な不平等条約
- 日米和親条約 1854年 神奈川条約 米国
- 日英約定 1854年 英国
- 日露通好条約 1855年 ロシア帝国
- 日米修好通商条約 1858年、安政五か国条約 米国
- 日英修好通商条約 1858年 英国
- 樺太島仮規則 1867年 ロシア帝国
- 日墺修好通商航海条約 1869年 オーストリア・ハンガリー帝国
- 樺太・千島交換条約 1875年 ロシア帝国
他に日仏和親条約、日蘭和親条約もある。
近代越南における主要な不平等条約
註釈
- ^ 糟谷憲一『朝鮮の近代』(山川出版社、1996、p30)、吉野誠「江華島事件」(同『明治維新と征韓論』明石書店、2002、p205)等学術査読研究多数。
- ^ 千葉功「列強への道をたどる日本と東アジア情勢」(川島真ほか編『東アジア国際政治史』名古屋大学出版会、2007、p61)他。
- ^ 井上裕正ほか『中華帝国の危機』(中央公論社、1997、p226)。
- ^ 共同通信2010年1月5日付