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「楊藎誠」の版間の差分

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'''楊藎誠'''(よう じんせい、[[簡体字]]:'''{{lang|zh|杨荩诚}}'''、[[繁体字]]:'''{{lang|zh|楊藎誠}}'''、[[ピンイン]]:{{lang|zh|Yáng Jìnchéng}}、[[1880年]] - [[1922年]]7月)は、[[中国]]の[[清]]代末期から[[中華民国]]時代にかけての軍人、政治家。別名は'''光准'''。字は'''柏舟'''。[[トゥチャ族]](土家族)。[[四川省]][[秀山トゥチャ族ミャオ族自治県|秀山県]]出身。
'''楊 藎誠'''(よう じんせい、[[簡体字]]:'''{{lang|zh|杨荩诚}}'''、[[繁体字]]:'''{{lang|zh-tw|楊藎誠}}'''、[[ピンイン]]:{{lang|zh|Yáng Jìnchéng}}、[[1880年]] - [[1922年]]7月)は、[[中国]]の[[清]]代末期から[[中華民国]]時代にかけての軍人、政治家。別名は'''光准'''。字は'''柏舟'''。[[トゥチャ族]](土家族)。[[四川省]][[秀山トゥチャ族ミャオ族自治県|秀山県]]出身。


== 事跡 ==
== 事跡 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*劉毅翔「楊藎誠」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第巻』中華書局、1996年
*劉毅翔「楊藎誠」[[中国社会科学院]]近代史研究所『民国人物伝 第8巻』[[中華書局]]、1996年


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[[Category:中国の政治家]]
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2008年9月29日 (月) 13:02時点における版

楊 藎誠(よう じんせい、簡体字杨荩诚繁体字楊藎誠ピンインYáng Jìnchéng1880年 - 1922年7月)は、中国代末期から中華民国時代にかけての軍人、政治家。別名は光准。字は柏舟トゥチャ族(土家族)。四川省秀山県出身。

事跡

光緒28年(1902年)、楊は貴州武備学堂に入学し、当時教官を務めていた高山公通らからその能力を評価された。光緒31年(1905年)、楊は首席の成績を取得し、官費で日本へ留学し、東京振武学校陸軍士官学校で学んだ。この日本留学の間に、楊は革命派の思想に共鳴し、孫文中国同盟会に加入して、多くの革命派人士と人脈を築いている。宣統2年(1910年)に帰国して、貴州新軍第1標教練官となり、翌宣統3年(1911年)春には、貴州陸軍小学総弁を兼任した。

この年に武昌起義が勃発すると、楊は貴州陸軍小学の学生と新軍兵士を率い、11月3日に反清の挙兵を行い、翌4日に大漢貴州軍政府の樹立、独立を宣言した。楊は貴州都督に推薦され、全省の軍政を主管した。

11月下旬に、清軍が武昌を包囲し、黎元洪らが危地に陥ったため、12月10日に、楊は自ら黔軍を率いて「援鄂」に向かうため貴陽を出発した。ところが貴州では、翌民国1年(1912年)3月、任可澄らの立憲派と劉顕世らの旧軍が雲南省唐継尭の軍を招き入れ、張百麟らの革命派と趙徳全らの新軍を粛清して権力を掌握してしまう。その後、唐が貴州都督に正式に任命され、常徳に駐屯していた楊は貴州へ戻る術を失う。結局同年8月、楊は自軍を唐継尭に引き渡して、楊自身は北京入りした。

その後、民国4年(1915年)の護国戦争(第三革命)では、上海孫文に会って善後策を練った。民国6年(1917年)からは、北京政府の命を受けて四川に赴き、各軍の調停に動いた。また、北京に戻って四川駐京代表を務めた。

民国10年(1921年)冬、楊は積年の疲労のため故郷に帰って静養に務めたが、翌民国11年(1922年)7月、死去した。享年43。

参考文献