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===停滞の時代===
===停滞の時代===
181系は最高速度120km/hを実現し、カタログ上は当時の主力特急電車[[国鉄485系電車|485系]]と比べても遜色のない性能となったが、実際には複雑かつ高度な設計の高出力エンジンを適切に保守できず、運用の厳しさもあって部品破損やオーバーヒートなどのトラブルを多発させた。このため保守的な運用現場と、元々電化への志向が強かった国鉄当局の双方から評価を落とし、ほどなく出力抑制されるなどして本来の性能を生かし切れぬままに終わった。
181系は最高速度120km/hを実現し、カタログ上は当時の主力特急電車[[国鉄485系電車|485系]]と比べても遜色のない性能となったが、実際には複雑かつ高度な設計の高出力エンジンを適切に保守できず、運用の厳しさもあって部品破損やオーバーヒートなどのトラブルを多発させた。このため保守的な運用現場と、元々電化への志向が強かった国鉄当局の双方から評価を落とし、ほどなく出力抑制されるなどして本来の性能を生かし切れぬままに終わった。''────この事情に関しては[[国鉄キハ181系気動車#エンジントラブルの問題]]についても参照を''


1970年代中期までのDML30系機関の採用例は、181系以外には[[国鉄キハ58系気動車|急行形気動車]]冷房電源確保用の[[国鉄キハ65形気動車|キハ65形]]、および北九州地区の快速用[[国鉄キハ66系気動車|キハ66系(キハ66・67形)]]の2系列に留まった。後者では当初から440PSに出力抑制されていた。
1970年代中期までのDML30系機関の採用例は、181系以外には[[国鉄キハ58系気動車|急行形気動車]]冷房電源確保用の[[国鉄キハ65形気動車|キハ65形]]、および北九州地区の快速用[[国鉄キハ66系気動車|キハ66系(キハ66・67形)]]の2系列に留まった。後者では当初から440PSに出力抑制されていた。

2005年4月27日 (水) 15:05時点における版

気動車(きどうしゃ)とは、鉄道車両のうち、熱機関を搭載して自走する客車を指す用語である。

現在、その動力には内燃機関の中でも熱効率に優れるディーゼル機関を用いることがほとんどで、ディーゼルカー(Diesel Car, DC)とも呼ばれる。但し日本以外では連結運転をするもののみを指して Diesel Multiple-Unit(DMU) と呼ぶ。

なお、国鉄およびJR各社では、気動車列車の列車番号は原則として末尾にDが付けられる。

概説

基本的な性質

基本的に、電車と同様な分散動力方式の鉄道車両に分類される。

現在日本で用いられるほとんどの気動車は、おのおのの車両の床下に内燃機関を分散配置し、それらを先頭車の運転台から一括して制御できる総括制御方式を用いている。この点も電車と共通している。

電車と比較すると、走行性能、経済性でやや劣る傾向があるが、路線毎の電化設備の有無に関わらず運転できるため、運用面での柔軟性が高い(実際には気動車の運転免許を有する乗務員が必要となるため、通常、気動車が運行されていない区間に、気動車が臨時列車として入線することは、非常にまれである)。

機関車が客車を牽引する列車の方式(集中動力方式)にくらべて有利な点は、電車の項を参照のこと。ただし、現状の日本の電車と異なり、気動車では多くの場合は1両単位での編成編成が可能であり、需要に応じて編成を増減することが容易にできる。

かつて旧国鉄時代に製造された気動車は、特急用以外の車両は急行用も通勤用もすべて相互連結可能に設計されており、編成中の一両一両が違う形式で組成された気動車列車も珍しくなかった。

現状

現在、JR各社の気動車は、全国の亜幹線・ローカル線を中心に多数運用され、国鉄継承の旧型車両から、JR移行後製造の比較的新しい車両まで、多彩な形式が存在する。

JR各社の定期普通列車運用から客車列車は既に完全撤退し、非電化区間は気動車の独擅場である。非電化区間直通の長距離寝台列車少数がディーゼル機関車牽引で残存しているに過ぎない。北海道においてはローカル夜行列車について「気動車で寝台客車を挟み込む」編成で運行しているケースもある。

なお、国鉄時代には気動車の荷物車郵便車も存在したが、JR移行後の気動車は、少数の事業用車両をのぞいてほとんど全て旅客車である。

現代の気動車

エンジンの高出力化と変速機の性能改善は著しく進展した。21世紀初頭の現在では、11~15リッタークラスの6気筒エンジンで定格450HPを発生する例もあり、各社が新製する2基エンジン搭載型気動車は電車と遜色ない走行性能水準を実現している。

JR北海道には、電車と併結して自力で協調運転を行う機能を備えた形式も現れている。

JR移行後の1990年頃から、従来、電車のみであった車体を傾斜させることによりカーブを高速で通過できる機能を持った気動車(いわゆる「振り子気動車」)も実用化されており、非電化幹線の高速化に寄与している。

一方、第三セクター鉄道や地方の未電化私鉄、またJR各社では、従来の国鉄型気動車よりも小型軽量で製造・運用コストの低い標準規格化車両が多く導入されている。これらについてはレールバスと呼ばれることもある。富士重工業の「LE-Car」「LE-DC」シリーズ、新潟鐵工所の「NDC」シリーズの車両が該当したが、1980年代~1990年代にかけて製造されたタイプのようなバス的外観は、1990年代後半以降廃れ、本来の鉄道車両的な特性へと回帰しつつある。

メーカーの寡占化

1970年代以降、日本における気動車のうち大多数は新潟鉄工所と富士重工業がが製造していたが、2002年に新潟鐵工所が経営破綻し、さらに富士重工業も鉄道車両製造事業からの実質的撤退を発表した。

その後石川島播磨重工業の出資により新潟トランシス株式会社が設立され、上記2社の鉄道車両製造事業の一部を承継。現在、新潟トランシスはこの分野での国内シェアについて、実に約8割を占める。

気動車の分類

  • 利用目的によるもの
  • 車両サイズによるもの
    • レールバス
  • 変速機による分類 (詳細は、気動車・ディーゼル機関車の動力伝達方式の項を参照されたい)
    • 流体式(液体式とも) - トルクコンバータを使用して総括制御可能とした変速方式。比較的軽量なことが特徴。戦後の日本における主流。
    • 機械式 -自動車のマニュアル車同様に、手動・足動式操作の変速機・クラッチを用いる原始的方式。日本では1950年代前半以前に主流であったが、総括制御不能であり、1960年代までにほぼ廃れた。
    • 電気式 - エンジン動力で発電を行い、発生電力でモーターを駆動して走行する方式。大出力向け。日本では1930年代~1950年代に若干の例が見られたのみだが、世界的には主流とする国が多い。

歴史

日本の非電化鉄道路線では、明治5年(1872年)の鉄道創業から長らく蒸気機関車が牽引する客車列車を主力としていたが、第二次大戦後1950年代から1970年代(昭和30~40年代)にかけて電化が進められるとともに、電化されなかった路線については、主に気動車に置き換えられた。

蒸気動車

その歴史の初期には、蒸気機関を装備した「蒸気動車」が存在し、日本でも1900年代から第二次世界大戦中まで若干が用いられていた。床上の一端に小型ボイラーを装備、この側の台車にシリンダーを取り付けて駆動するものである。

最初の例は1902年に瀬戸自働鉄道(のち瀬戸電気鉄道、現名古屋鉄道瀬戸線)が採用したフランス製の「セルポレー式自動客車」である。これは小型車であったが構造複雑で使いこなせず、瀬戸線の路線条件にも合わなかったことから、すぐに放擲された(これに懲りてか、同社はほどなく電化されている)。

続いて1907年にはハンガリーのガンツ社の設計になる大型のガンツ式蒸気動車が関西鉄道に導入され、これを買収した国鉄及びいくつかの私鉄で使われたが、やはり複雑な構造が災いし、日本では使いこなせずに終わった。

比較的普及したのは工藤式蒸気動車であった。汽車製造の設計掛長であった工藤兵次郎が1909年に開発したもので、小型蒸気機関車を参考にしたかなり単純な設計を用い、ガンツ式ほど性能は高くないが信頼性と扱いやすさを重視したものである。 最初の導入例は奈良県の初瀬軌道(のち初瀬鉄道から長谷鉄道となり、更に大阪電気軌道に買収され大軌長谷線となったが1938年廃線)で、この蒸気動車は廃線後北海道の余市臨港鉄道から更に小湊鉄道に譲渡、客車化されながら1950年代まで残存していた。

工藤式は、鉄道院には1912年から1914年にかけて18両が導入され、その他にも三河鉄道(のち名鉄三河線)などの導入例がある。

これらは蒸気機関車同様に石炭を燃料とし、機関助手の乗務を要した(セルポレー式はコークス焚き)。ガンツ式や工藤式については両側運転台で、機関室と逆側の方向へ走行する場合、先頭側運転台の機関士はワイヤーと伝声管を介して後部機関室の助士に指示を与え、走行していた。

このように取り扱いに手間がかかることから、より運用が簡便で高効率な内燃機関が出現したことに伴って廃れている。

  • 「気動車」の語源は「蒸気動車」の省略形である。転じて熱機関動力の自走客車全般の呼称となった。

ガソリンカー・ディーゼルカー

1910年頃から、欧米では軽量・高出力なガソリンエンジン動力の「ガソリンカー」(ガソリン動車)が広く用いられ、日本にも1920年代以降普及した。その最初は1920年に福島県軽便鉄道である好間軌道が導入した超小型気動車である。

地上設備を余り要さず初期投資費用も安いガソリンカーは、輸送量の少ない閑散鉄道路線には総合コストで有利であることから、それまで蒸気機関車を用いていた鉄道会社や、新たに路線を建設しようとした鉄道会社での採用例が続出した。

この時代には各地に零細事業者によるバス会社が乱立し、中小私鉄の手強い競争相手となっていた。対抗上、増発して頻繁運転することに向いたガソリンカーがクローズアップされた。自動車の増加を背景に日本のガソリン価格は低下し、1930年代初頭にはアメリカと大差ない水準にまで下落したことも、ガソリンカー普及を後押しした。

当初は4~8m程度の木造車体が多く、運転台も片一方のみの「単端式」で、終点では蒸気機関車同様に転車台で方向転換する必要があった。ガソリンカーに鋼製車体および両側運転台車、ボギー車等が出現するのは1927年以降である。メーカーも零細な町工場ばかりで、黎明期の製品だけに、理解に苦しむほど珍奇な設計の欠陥車も少なくなかった。

不況期の気動車需要増加を背景に、1927年の日本車輌製造を皮切りとして大手・中堅車両メーカー各社も気動車製造に参入するようになる。大手製品もその初期には試行錯誤の連続であり、メカニズムやデザインに定見のある時代ではなかっただけに、零細メーカー同様な失敗作も多かった。

その中でいち早く気動車製造に参入した日本車輌(本店)は、1930年頃から比較的大型で安定した性能の気動車を生産するようになり、以後戦前を通じて気動車業界をリードした。1931年には江若鉄道向けに中型電車に匹敵する17mガソリンカーを開発している。この時期までに技術力や営業力に乏しい零細メーカーは多くが淘汰され、以後大手・中堅メーカーにより一定水準の実用性を持った気動車が製造されるようになる。

戦前私鉄の古典的ガソリンカーの例。西大寺鉄道キハ7。川崎車輌1937年製

国鉄ガソリンカーの最初は1929年のキハニ5000形であるが重量超過の失敗作であり、本格的に実用化されたのは1932年開発の16m車・キハ36900形(のちキハ41000形)以降であった。41000形と、実質的にそのストレッチ形である19m車のキハ42000形(1935)は、合計200両以上も製造され、日本各地に導入されて好成績を収めている。

戦前の日本では、私鉄気動車では20~100PS級のアメリカ製輸入エンジンが主流だったが、1930年代に入ると国鉄気動車は100~150PS級の国産エンジンを用いるようになった。

また鉄道車両に搭載しうるサイズの中型~小型ディーゼルエンジンが実用化されると、ガソリンエンジンよりも経済性や安全性で有利なことから、1920年代以降ドイツ等を中心に普及した。

日本では1928年の長岡鉄道(のち越後交通長岡線)キロ1形が最初の「ディーゼルカー」採用例であるが、ディーゼルエンジン技術の未発達から一般化はせず、第二次世界大戦前にはごく一部の私鉄が用いるに留まった。国鉄も1935年~1937年にかけてディーゼルカーを試作したが、実用水準には至っていない。

代燃車・ガスカー

第二次世界大戦中にはガソリンや軽油の不足から、気動車多数が休止状態になり、エンジンを外されて客車扱いとなった例も多かった。

この情勢下、木炭無煙炭等を不完全燃焼させて発生させたガスを燃料にエンジンを回して走行する「代燃車」がガソリン自動車に代わって主流となったが、この方式は気動車でも用いられ、多くのガソリンカーが車体端にガス発生装置を後付けした。始動性が悪いうえ、本来のガソリンカーよりも大幅な出力低下を余儀なくされ、また不純物によってエンジンそのものを痛めやすいなど、非常に低性能であった。

他に天然ガスなどを代用燃料に用いた「ガスカー」の例がある。これは千葉県新潟県秋田県など天然ガス資源に恵まれた地域で1940年前後から出現したもので、ガスボンベ多数を床下搭載して改造ガソリンエンジンを駆動した。ガソリンカーに比べて若干の出力低下に留まり、一定水準の実用性があったが、ガス充填の手間と爆発の危険性が厭われ、他の地域にまで一般化はしなかった。

これら代替燃料の気動車は、燃料事情の改善した1954年頃までに廃れ、一部はディーゼルカーに改造された。

ディーゼルカーの一般化

日本で気動車エンジンがディーゼル機関に本格移行したきっかけは、1940年(昭和15年)に発生した、西成線安治川口駅でのガソリンカー横転火災事故とされる。100人以上の死者を出したこの大事故で、発火しやすいガソリンを燃料に用いる危険性がクローズアップされた(鉄道事故の項目も参照)。

日本では、第二次世界大戦中に軍用車両用の規格統制ディーゼルエンジンが開発されて国内メーカーで量産実績を収め、また国鉄も戦時中まで気動車用のディーゼルエンジン「DMH17型」開発に取り組んでいた事情から、戦後になるとディーゼルカーが普及する。ガソリンカーのエンジンを交換してディーゼルカー化する流れは1947年の江若鉄道に始まり、1950年代に入ると国鉄を筆頭として全国的なトレンドとなった(1950年代末期までに、零細私鉄での若干の例外を除けばガソリンカーは見られなくなった)。また1951年以降はディーゼルカーの新規製造も盛んになった。

1951年以降、国鉄の開発したDMH17系機関が広く実用に供されるようになり、大型エンジンとしては実用可能な唯一の存在であったことから、以後国鉄・私鉄を問わず広く用いられるようになる。

大出力エンジン開発

日本の鉄道用ディーゼル機関技術は、気動車用標準型「DMH17系」(150PS~180PS)、ディーゼル機関車用標準型「DML61系」(1000PS~1350PS)の実用的な成功以後、保守・堅実の傾向を強め、1950年代~1970年代を通じて、欧米からは立ち後れていた。

これらのエンジンは信頼性は高かったがサイズや排気量の割には低出力で、優等列車・勾配線用気動車や幹線用の大型機関車では、1両にエンジン2基を搭載する必要があった。このような問題を解消するため、国鉄では気動車用に過給器を装備した大出力エンジン開発の試みが続けられていた。

1959年にDD13型機関車のDMF31S系エンジン(370PS)を水平シリンダ型のDMF31HS系(400PS)に改良して気動車に転用することで、キハ60系(キハ60形・キロ60形)が試作されたが、エンジン・変速機技術の未熟から実用化に失敗した。

1966年には、新開発エンジンのDMF15系(300PS)およびDML30系(500PS)を搭載した急行形気動車キハ90系を試作、一定の成績を収める。

これに伴い、1968年にはDML30HS系機関を搭載した特急形気動車キハ181系を量産化した。

停滞の時代

181系は最高速度120km/hを実現し、カタログ上は当時の主力特急電車485系と比べても遜色のない性能となったが、実際には複雑かつ高度な設計の高出力エンジンを適切に保守できず、運用の厳しさもあって部品破損やオーバーヒートなどのトラブルを多発させた。このため保守的な運用現場と、元々電化への志向が強かった国鉄当局の双方から評価を落とし、ほどなく出力抑制されるなどして本来の性能を生かし切れぬままに終わった。────この事情に関しては国鉄キハ181系気動車#エンジントラブルの問題についても参照を

1970年代中期までのDML30系機関の採用例は、181系以外には急行形気動車冷房電源確保用のキハ65形、および北九州地区の快速用キハ66系(キハ66・67形)の2系列に留まった。後者では当初から440PSに出力抑制されていた。

労使紛争と国鉄経営の悪化を背景に、普通列車用気動車としては、1970年代後半以降、重い車体に非力な220PS機関を搭載した、1950年代の旧型車と大差無い低性能車のキハ40系が大量増備された。また、1979年に開発された北海道用の特急形気動車183系も、搭載したDML30HS系エンジンは信頼性優先で出力抑制されており、気動車の性能向上の動きはしばらく停滞した。

1970年代には大出力のガスタービンエンジンを搭載し、高速性に優れるターボトレインの研究も行われたが、経済性と騒音面に難があり、オイルショックの影響もあって、日本においては実用化されなかった(フランス等での実用例がある)。

近年の性能向上

日本における気動車エンジンの性能向上が本格的に軌道に乗ったのは、1980年代以降になってからのことである。

背景としてはエンジン技術自体の向上が最大の要素であるが、国鉄の経営悪化に伴い改革の動きが生じ、経営・現場の両面で従前の硬直化した体制が打破され、新しい革新的技術の積極的導入が可能となったこと(その動きは1987年の国鉄分割民営化後、更に強まる)、また国鉄改革に際し、廃止対象となった赤字路線の第三セクター鉄道転換に伴って車両メーカーが小型軽量の新型気動車(レールバス)の開発に取り組み、この種の軽量車両での顕著な技術的成果が、より大型の気動車にエンジンも含めてフィードバックされたことも契機となった。

この結果、JR各社における一部の強力型気動車については、既に電車と遜色ない性能水準に到達している。

エンジン自体については、燃焼効率に優れる直噴方式(それ以前の主流は予燃焼室式)の採用、ターボチャージャーに加え、インタークーラーをも併用した高効率な過給の実現、燃料噴射における電子制御の導入などが、従来よりも小型高性能なディーゼル機関を実現した。

現在気動車用エンジンの主流となっているのは、次の各社のエンジンである。

  • 新潟鐵工所 1983年に国鉄は普通列車用の低コスト形気動車キハ37形を試作したが、搭載された新潟鐵工所製6気筒機関「DMF13S」(210PS メーカー名称は「6L13AS」)は船舶用の改良ながら構造が簡素化され、燃費効率も改善していた。すぐに水平シリンダ形に改良された6L13HS形(230~250PS)は「DMF13HS」の名称で国鉄に採用され、特に国鉄末期の新型気動車や第三セクター鉄道向け気動車に広く用いられて実績を上げた。以後インタークーラーの装備やチューニングの変更等で250HP~450HPを発生する、気動車用の汎用形機関としてJR・私鉄を問わず広く用いられている。現在ではメーカーでの名称も「DMF13HS」となった。

  (注:戦中期に開発された縦型シリンダーの「DMF13」も存在する。これはガソリンカーに使用されていたGMF13の取替え用で、DMF13H系とはまったく別物である)

  • 小松製作所 エンジン業界では専ら建設機械等向けのエンジン製作が主であった小松製作所が、1988年の真岡鐵道モオカ63形用エンジンで気動車エンジン業界に参入、爾来スペース制約の厳しい建設機械への搭載技術を生かした6気筒11L級(250~450HP)の小型高出力エンジンを中心に市場を広げている。特にその軽量・コンパクトさを買われ、JR各社の振り子式気動車のエンジンとしては唯一無二の存在になっている。
  • カミンズ 戦後、日本の気動車用エンジンは徹底して国産で押し通されてきたが、1989年にはJR東海が特急用のキハ85系搭載用に、世界的なディーゼルエンジンメーカーであるアメリカのカミンズ社(Cummins Inc)製NT-855系エンジンが輸入され、鉄道業界の注目を集めた(実際には同社のイギリス工場製水平シリンダ形NTA855-R1(350HP))。NT-855系エンジンは古く1960年代に設計された14L級の6気筒機関であるが、鉄道・船舶・自動車・定置動力など広範に用いられ、世界各国で多数の使用実績があるベストセラーであった。JR東海が、メーカーに拘らず高性能で廉価なエンジンを求めた結果の選択であり、以後その他のJR各社にも採用例が生じている(出力はおおむね250~360HP)。

これら3系統の11~14L級の6気筒エンジンが、21世紀初頭現在の日本における気動車用エンジンの主流であり、必要に応じてチューニングすることで、普通列車用のレールバスから特急形車両にまで広範に用いる手法が、JR各社において半ば常識化している。また必要に応じて1両に2基搭載することも行われている。

しかし、電車をしのぐ高出力化だけで気動車が存在できるかと問われれば、そこには若干の留保が付く。昨今ではディーゼルエンジンの環境に対する悪影響が強く指摘され、気動車エンジンにも環境対策を施す例が見られるようになっている。既に燃料電池の導入による気動車の代替も考えられるようになってきており、2003年にJR東日本とJR総研が協同試作したハイブリッド気動車は、その端緒であるという指摘もある。

主な製造メーカー

俗称

日本において気動車は、鉄道に詳しくない一般人からは概して電車と混同されがちである。

非電化路線沿線や、機関車牽引列車が遅くまで残っていた地域では、蒸気機関車時代からの習慣そのままに汽車(きしゃ)、または即物的かつ単純にディーゼルなどと呼ばれる(年輩者の間では古い発音の「ジーゼル」と呼ぶケースもある)。

関連項目