「巨福呂坂」の版間の差分
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*[http://www1.kamakuranet.ne.jp/dadakko/sansaku/koto-08.html 巨福呂坂を往く] |
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*[http://www.kcn-net.org/kiritosi/index.htm 鎌倉七口の坂と切通を歩く・巨福呂坂切通] |
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*[http://www.ktmchi.com/rekisi/nkc_005.html 鎌倉七口切通・巨福呂坂切通] |
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[[Category:鎌倉市|こふくろさか]] |
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2007年4月16日 (月) 04:03時点における版
巨福呂坂(こぶくろざか)は神奈川県鎌倉市に存在する切通しで鎌倉七口のひとつ。小袋坂とも呼ぶ。鶴岡八幡宮裏手の雪ノ下から山之内(今のJR北鎌倉駅付近)を結ぶ道。
鎌倉時代・吾妻鏡の記録
吾妻鏡には1224年 (貞応3年、11月20日 改元 元仁元年)12月26日の条に四角四境祭の記述があり、その中に「所謂四境は、東六浦・南小壺・西稲村・北山内」とあり、その後1235年(9月19日 改元 嘉禎元年)12月20日条の四角四境祭では小袋坂の地名が見える。 この山内と小袋坂はこの場合は同じ場所、ないしは近辺と考えて良く、北鎌倉駅ホームから北側の高台に見える後の山ノ内の鎮守八雲神社がその場所に建てられたとの伝承がある。
仁治年間に鎌倉幕府執権、北条泰時が命じて作らせた切通しと一般に思われており、それを強いて否定すべき記録も無いが、吾妻鏡1240年(延応2年:改元:仁治1年)10月10日の条、及び10月19日の条に出てくるのは「山内の道路を造らる」であり、建長寺から鶴岡八幡宮寺までの峠道であるかどうかは明文ではない。なおその工事の事情は「これ嶮難の間、往還の煩い有るに依ってなり」とある。
その10年後の1250年(建長2年)6月3日の条には北条泰時の孫の北条時頼の沙汰として「山内並びに六浦等の道路」とあり、その工事の理由として、先年山内の道路を作って往来を容易にしたが崖崩れ等により土石に埋もれてしまったので、とある。
「先年」とは北条泰時が命じた工事(山内路については仁治元年10月)であることは確実であろうが、この場合の山内は北条泰時にとっては現在の大船5丁目の常楽寺近辺の別業(別邸)からであり、北条時頼にとっては山内西亭(現在の明月院の近く)からの往来であって、そのルートは現在言われる巨福呂坂切通と亀ヶ谷坂切通の2つとも該当する。
鎌倉史の学者の世界では「はっきりとは判らないが建長寺前を通る峠道とみなして大過あるまい」と言うレベルである。
鎌倉北条氏滅亡の戦記では
鎌倉時代末、新田義貞率いる倒幕軍をこの地で迎え撃ったと言われているが、この時代の戦記で比較的信用されている梅松論では「武蔵路」は第16代執権赤橋守時が大船と深沢の間の洲埼・千代塚で戦い「一足も退かず自害す」とあり、その後の18日から22日の間「山内・小袋坂・極楽寺の切通以下鎌倉中の口々、合戦の鬨の声・矢叫び・人馬の足音暫しも止む時なし」とあるのみで場所を特定する手がかりは無い。
江戸時代初期の記述
「玉舟和尚鎌倉記」では「亀ヶ井坂」と「小袋坂」が分けて書かれ、「徳川光圀歴覧記(鎌倉日記)」になって亀ヶ井坂を「亀ヶ谷坂」、小袋坂を「巨福呂坂」と記述される。 つまり、建長寺前から峠に至る道を「小袋坂」を「巨福呂坂」とした確実な文献は江戸時代初期のものである。
江戸時代後期の記録
「鎌倉の地名辞典」によると、
- 1708年(元禄16年)の大地震で108mに渡って倒壊
- 1788年建長寺宝泉庵主印宗が建てた道造供養塔に「約220mの坂道を350人の助力を得て深さ60cm掘り下」
- 1851年には鶴岡八幡宮寺の岩瀬一学が峰の高さを約3m掘り下げる普請を建長寺に申し入れ
明治時代の地図に見る旧道の位置
鶴岡八幡宮の西の階段の下、今は車のお払いをするところから左に入る小路があり、ここを西に曲がるのが旧道の入口である。それをまっすぐ行くと横須賀水道トンネル、正式には「巨福呂坂送水管路ずい道」の出口があり、その右の急坂を登ると左側に「青梅聖天社」があり、そのためこの坂は聖天坂とも言われる。その少し先にはここがかつては鎌倉から遠方への道であったことを物語る庚申塔や道祖神があり、現在ではこれが唯一の古道の証明となっている。その少し先から私有地となっているため通行不可となっているが、仮に通れたとしても先はすぐに断崖絶壁となる。
明治40年「歴史地理大観・かまくら」付録「鎌倉沿革図」と「明治15年陸軍参謀本部 2万分1フランス式彩色地図」、そして現在の国土地理院1/25000地形図を比較すると、少なくとも明治初年、おそらく江戸時代末の巨福呂坂道旧道は巨福呂坂洞門(画像2番目)の真上で明治19年に明治政府が新たに開鑿した新道(現在の車道と同じ位置)に交わり、若干蛇行しながら建長寺前に降りている。
大正時代以降の状況
明治45年から10年の間に「横須賀水道」がこの峠を通り、横須賀水道トンネル、正式には「巨福呂坂送水管路ずい道」が現在の道路の位置まで掘り下げられた。その時点では聖天坂への旧道はまた生きていたのではないかと思われる。 その後、新道は大正12年の関東大震災で壁面の崩落に遭い通行ができなくなったがその後の拡張され、車両の通行が可能となり、更に1956(昭和31)年に拡幅工事が行われた。 そして1993年5月に落石防護施設として現在の吹き抜けトンネルのような「切通しを歩いている実感を損なわれないようにアーチ状の梁とし、天井開口部を大きな六角形にし、石積みの壁を造るなど雰囲気を改善」との巨福呂坂洞門が作られた。