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経済誌の記者や月刊『今日』[[編集長]]を経て<ref name="genn" />、選挙運動を通じて知り合った[[小田久栄門]]にスカウトされ、[[1969年]]に『[[モーニングショー|奈良和モーニングショー]]』(NET、後のテレビ朝日)のサブ司会に抜擢され、テレビデビューを果たす<ref name="genn" />。同時にNETとの専属契約を結んだ。 |
経済誌の記者や月刊『今日』[[編集長]]を経て<ref name="genn" />、選挙運動を通じて知り合った[[小田久栄門]]にスカウトされ、[[1969年]]に『[[モーニングショー|奈良和モーニングショー]]』(NET、後のテレビ朝日)のサブ司会に抜擢され、テレビデビューを果たす<ref name="genn" />。同時にNETとの専属契約を結んだ。 |
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[[1977年]]5月からはメイン司会者(溝口泰男モーニングショー)となり<ref name="yomiuri">『読売新聞』1989年6月19日 31頁</ref>、[[1983年]]3月末で番組を降板した。 |
[[1977年]]5月からはメイン司会者(溝口泰男モーニングショー)となり<ref name="yomiuri">『読売新聞』1989年6月19日 31頁</ref>、[[1983年]]3月末で番組を降板した。降板の直接のきっかけは、[[衆議院選挙|衆院選]]出馬だった<ref name="genn" />。「[[河本派]]から[[東京都第4区 (中選挙区)|東京4区]]に出馬することになり、何人かの区議を手足に、事務所も置いて動き出したんです。しかし、[[派閥]]から出た最初のカネが約300万ですから、自分の手持ち資金と合わせてもアッという間に消えちゃう、彼はそうした現実にぶつかって諦めるしかなかったんです」(溝口と親交のあった[[政治評論家]]・[[三宅久之]])<ref name="genn" />。 |
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『モーニングショー』の司会を当時[[朝日新聞社]]記者の[[江森陽弘]]に引き継いだ後も、『[[速報!TVスタジアム]]』等でレギュラーを持つが、[[1986年]]に専属契約を解消して個人事務所を設立した。キー局では番組作りに自分の意向が反映されにくいことから、敢えて地方局の仕事を選び、自ら企画構成を務める『土曜プラザ』『溝口泰男のサタディ・アイ』(いずれも[[瀬戸内海放送]])の司会を担当した。 |
『モーニングショー』の司会を当時[[朝日新聞社]]記者の[[江森陽弘]]に引き継いだ後も、『[[速報!TVスタジアム]]』等でレギュラーを持つが、[[1986年]]に専属契約を解消して個人事務所を設立した。[[キー局]]では番組作りに自分の意向が反映されにくいことから、敢えて[[地方局]]の仕事を選び、自ら企画構成を務める『土曜プラザ』『溝口泰男のサタディ・アイ』(いずれも[[瀬戸内海放送]])の司会を担当した。 |
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しかし、独立してから間もなく[[大腸癌|直腸がん]]が |
しかし、独立してから間もなく[[大腸癌|直腸がん]]であることが判る。『モーニングショー』担当時も、[[胃潰瘍]]などしばしば胃腸の不調を訴えていたという。入退院を繰り返しながら仕事を続けていたが、3度目の手術の後、容体が悪化。本人の強い希望で自宅療養も検討された矢先の1989年6月17日、入院先の[[杏林大学医学部付属病院|杏林大学医学部附属病院]]で死去した。49歳没<ref name="yomiuri" />。[[一周忌]]には[[作家]]の[[澤地久枝]]、『モーニングショー』で共演した[[八波一起]]らが発起人となって偲ぶ会が執り行われた。 |
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== 家族 == |
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学生時代に[[富裕層|資産家]]の娘と結婚した。二男を授かるも、その後離婚した。 |
学生時代に[[富裕層|資産家]]の娘と結婚した。二男を授かるも、その後離婚した。 |
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[[1970年]]、[[宝塚歌劇団48期生]]で「富士ます美」の[[芸名]]で活動していた令子と再婚。令子との間に朝(とも)と公(こう)の二男を授かった。次男・公は[[シンエイ動画]]に勤務し(現在は退社)、[[アニメーター]]として『[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]]』等の制作に携わっていた。 |
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溝口の死後に公開された[[遺言状]]には「[[遺産]]は令子とその息子に相続する。」と認めたにもかかわらず、遺産の分配を巡って、先妻の家族との[[民事訴訟]]に発展した。 |
溝口の死後に公開された[[遺言状]]には「[[遺産]]は令子とその息子に相続する。」と認めたにもかかわらず、遺産の分配を巡って、先妻の家族との[[民事訴訟]]に発展した。 |
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== 著書 == |
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* {{Cite book|和書|title=溝口泰男のプライベート対談 テレビの外でTea for two|publisher=[[婦人生活社]]|series=素敵な女性選書|date=1981-04|isbn=978-4574700030}} |
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* {{Cite book|和書|title=溝口泰男の体当たり子育て論 子どもは曲がったキュウリでいい|publisher=山手書房|series=山手新書|date=1982-10|isbn=}} |
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== 関連書籍 == |
== 関連書籍 == |
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* 山内喜美子『告知せず―ガンで夫との愛の深さを知った妻たちの四季』[[文藝春秋]]、1991年9月。ISBN 978-4163455105。 |
* 山内喜美子『告知せず―ガンで夫との愛の深さを知った妻たちの四季』[[文藝春秋]]、1991年9月。ISBN 978-4163455105。 |
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** 山内喜美子『告知せず―ガンで夫との愛の深さを知った妻たちの四季』文藝春秋〈[[文春文庫]]〉、1994年10月。ISBN 978-4167339036。 |
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: 溝口令子への取材を基にした闘病記が収録されている。プロフィールも同書籍を出典とした。 |
: 溝口令子への取材を基にした闘病記が収録されている。プロフィールも同書籍を出典とした。 |
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2024年12月3日 (火) 08:41時点における最新版
溝口 泰男 (みぞぐち・やすお) | |
---|---|
生誕 |
1939年10月26日 日本 栃木県 |
死没 | 1989年6月17日(49歳没) |
教育 | 学習院大学政経学部 |
職業 |
ジャーナリスト(NET→テレビ朝日専属キャスター) タレント、司会者 |
活動期間 | 1969年 - 1989年 |
溝口 泰男(みぞぐち やすお、1939年(昭和14年)10月26日 - 1989年(平成元年)6月17日)は、栃木県出身のタレント、司会者、ジャーナリスト、日本教育テレビ→テレビ朝日専属契約キャスター。
来歴・人物
[編集]栃木県で出生し、生後すぐ東京へ移った。学習院大学政経学部卒業[1]。
経済誌の記者や月刊『今日』編集長を経て[1]、選挙運動を通じて知り合った小田久栄門にスカウトされ、1969年に『奈良和モーニングショー』(NET、後のテレビ朝日)のサブ司会に抜擢され、テレビデビューを果たす[1]。同時にNETとの専属契約を結んだ。
1977年5月からはメイン司会者(溝口泰男モーニングショー)となり[2]、1983年3月末で番組を降板した。降板の直接のきっかけは、衆院選出馬だった[1]。「河本派から東京4区に出馬することになり、何人かの区議を手足に、事務所も置いて動き出したんです。しかし、派閥から出た最初のカネが約300万ですから、自分の手持ち資金と合わせてもアッという間に消えちゃう、彼はそうした現実にぶつかって諦めるしかなかったんです」(溝口と親交のあった政治評論家・三宅久之)[1]。
『モーニングショー』の司会を当時朝日新聞社記者の江森陽弘に引き継いだ後も、『速報!TVスタジアム』等でレギュラーを持つが、1986年に専属契約を解消して個人事務所を設立した。キー局では番組作りに自分の意向が反映されにくいことから、敢えて地方局の仕事を選び、自ら企画構成を務める『土曜プラザ』『溝口泰男のサタディ・アイ』(いずれも瀬戸内海放送)の司会を担当した。
しかし、独立してから間もなく直腸がんであることが判る。『モーニングショー』担当時も、胃潰瘍などしばしば胃腸の不調を訴えていたという。入退院を繰り返しながら仕事を続けていたが、3度目の手術の後、容体が悪化。本人の強い希望で自宅療養も検討された矢先の1989年6月17日、入院先の杏林大学医学部附属病院で死去した。49歳没[2]。一周忌には作家の澤地久枝、『モーニングショー』で共演した八波一起らが発起人となって偲ぶ会が執り行われた。
家族
[編集]学生時代に資産家の娘と結婚した。二男を授かるも、その後離婚した。
1970年、宝塚歌劇団48期生で「富士ます美」の芸名で活動していた令子と再婚。令子との間に朝(とも)と公(こう)の二男を授かった。次男・公はシンエイ動画に勤務し(現在は退社)、アニメーターとして『ドラえもん』等の制作に携わっていた。
溝口の死後に公開された遺言状には「遺産は令子とその息子に相続する。」と認めたにもかかわらず、遺産の分配を巡って、先妻の家族との民事訴訟に発展した。
出演
[編集]報道・情報ワイドショー番組
期間 | 番組名 | 役職 | |
---|---|---|---|
1969年4月 | 1977年3月11日 | モーニングショー(NET→テレビ朝日) | サブ司会 |
1977年3月14日 | 1977年4月 | 交替制での司会 | |
1977年5月 | 1983年3月 | メイン司会 | |
1983年4月 | 1984年3月 | 速報!TVスタジアム(テレビ朝日) | 総合司会 |
1983年7月 | 1985年9月 | TVスクープ(テレビ朝日) | キャスター |
その他
- オリンパソン'80(1980年、テレビ朝日)
- ゆく年くる年(1980年、制作:日本テレビ・民放連共同) - 徳光和夫、渡辺謙太郎、露木茂、金子勝彦とメインパーソナリティーを務めた。
- 土曜プラザ(1986年、瀬戸内海放送)
- 溝口泰男のサタディ・アイ(1987年、瀬戸内海放送)
著書
[編集]- 『溝口泰男のプライベート対談 テレビの外でTea for two』婦人生活社〈素敵な女性選書〉、1981年4月。ISBN 978-4574700030。
- 『溝口泰男の体当たり子育て論 子どもは曲がったキュウリでいい』山手書房〈山手新書〉、1982年10月。
- 『あなたの生き方ちょっと変えてみませんか』海竜社、1983年3月。ISBN 978-4759300796。
関連書籍
[編集]- 山内喜美子『告知せず―ガンで夫との愛の深さを知った妻たちの四季』文藝春秋、1991年9月。ISBN 978-4163455105。
- 山内喜美子『告知せず―ガンで夫との愛の深さを知った妻たちの四季』文藝春秋〈文春文庫〉、1994年10月。ISBN 978-4167339036。
- 溝口令子への取材を基にした闘病記が収録されている。プロフィールも同書籍を出典とした。
脚注
[編集]関連項目
[編集]- 八波一起 - 『溝口泰男モーニングショー』パートナー
- 柴田美保子 - 同上
- 渡辺直子 - 同上
- 銅谷志朗 - 同上
- 石川恭三 - 『モーニングショー』の「朝の診療室」に出演して溝口と関係が出来、石川を頼って杏林大学医学部附属病院に入院した。
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