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[[Image:Coat of Arms of Azov.svg|thumb|150px|アゾフの紋章]]
'''アゾフ'''([[ロシア語]]:'''{{lang|ru|Азов}}'''<small>アゾーフ</small>;Azov)は[[ロシア連邦]]南部・[[ロストフ州]]の都市。[[ドン川]]沿いにあり、[[アゾフ海]]までは約6kmと近い。2002年における人口は81,700人
'''アゾフ'''([[ロシア語]]:'''{{lang|ru|Азов}}'''<small>アゾーフ</small>;Azov)は[[ロシア連邦]]南部・[[ロストフ州]]の都市。人口は8万1924人(2021年)<ref>{{citeweb|url=https://www.citypopulation.de/en/russia/southern/admin/rostov_oblast/60704__azov/|title=city population|accessdate=2 May 2023}}</ref>。[[ドン川]]沿いにあり、[[アゾフ海]]までは約6kmと近い。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
ドン川の河口交易上、重要な土地であった。[[紀元前3世紀]]頃、[[ボスポス王国]]からきた[[ギリシャ人|ギリシア人]]は、ここに殖民都市をつくり、'''タナイス'''[[:en:Tanais|Tanais]][[ギリシア語]]で川の意) と命名した。数世紀後、居住地はボスポス王国のPoleumon王によって焼かれた。その後、ギリシア人の入植者たちは再建に成功したが、西暦3世紀に[[ゴート人]]によって滅ぼされた(なお、タナイス(現在Nedvigovka村近辺)は、19世紀中頃から発掘が進められている
[[紀元前1千年紀]]に[[スキタイ]]文化の勢力圏に入ていた。[[紀元前3世紀]]頃、[[ボスポス王国]]からきた[[ギリシャ人]]は、ドン川の河口が交易上の重要な土地であったため、ここに殖民都市{{仮リンク|タナイス (古代の植民都市)|ru|Танаис (город)|en|Tanais|label=タナイス}}{{lang-grc|Τάναϊς}}、「の意) をつくった。数世紀後に[[ミトリダテス戦争]]が起こり[[紀元前63年]]にボスポロス王国[[ローマ帝国]]の宗主下に入り、ボスポス王国の{{仮リンク|ポレモ1世 (ボスポロス国)|en|Polemon I of Pontus|label=ポレモ1世}}(在位: [[紀元前14年]] - [[紀元前8年]])によって居住地は焼かれた。その後、ギリシア人の入植者たちは再建に成功したが、西暦3世紀に[[ゴート人]]によって滅ぼされた(なお、タナイス(現在Nedvigovka村近辺)は、19世紀中頃から発掘が進められている)


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[[10世紀]]に[[ハザール|ハザール・カガン国]]が衰退し、この地域は[[スラヴ人]]の[[トムタラカニ公国|トムタラカン公国]](Tmutarakan)領になる。
ドン・[[コサック]]は、[[1637年]]の夏に、4,000人の兵士と200の[[大砲]]を用いて、要塞を攻め、それを占領した。ドン・コサックは5年間そこを保持していたが、[[1641年]]夏より強大なオスマン軍が要塞を包囲した。しかし、オスマン軍は要塞を陥落させることができず、[[1642年]]に撤退した。オスマン軍の撤退後、トルコとの全面戦争を危惧するロシア皇帝会議(Zemsky Sobor)を召集し、要塞をトルコに引き渡すことを決定した。ドン・コサックは、要塞の防御設備を破壊した後に、そこを退去した。


1067年には、キプチャクがこの地域を支配し、地名を'''アザク'''(azak、「低地の意)に変える。現在のアゾフの地名はここから来ている。[[13世紀]]から[[14世紀]]にかけては[[ジョチ・ウルス]]がこの地を支配したが、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]と[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]の商人たちは許可を得て、'''ターナ'''という植民都市(現代のアゾフに位置する)をつくり、そこに定住した。
その後、[[クリミア・ハン国]]に打撃を与えるために、ロシアの[[ピョートル帝]]がアゾフの再占領を開始した。[[1695年]]の攻撃は失敗したものの、[[1696年]]要塞を再占領した。しかし、[[大北方戦争]]最中の[[1711年]]にピョートル大帝はオスマン軍に包囲され、解囲の交渉の際にアゾフ要塞のトルコへの返還に同意した。


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1637年の夏、[[ドン・コサック]]は4,000人の兵士と200の[[大砲]]を用いて、要塞を攻め占領した。ドン・コサックは5年間そこを保持していたが、1641年夏より強大なオスマン軍が要塞を包囲、オスマン軍は要塞を陥落させることができず1642年に撤退した。オスマン軍の撤退後、トルコとの全面戦争を危惧する[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]・[[ツァーリ]]の[[ミハイル・ロマノフ]]全国会議([[ゼムスキー・ソボル]])を召集し、要塞をトルコに引き渡すことを決定した。ドン・コサックは、要塞の防御設備を破壊した後に退去した。
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[[露土戦争 (1768年-1774年)|第一次露土戦争]]における[[ロシア帝国]]の勝利により、[[キュチュク・カイナルジャ条約]](クチュク・カイナルジ条約)が結ばれ、アゾフはロシア領となった。
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== 脚注 ==
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2023年5月2日 (火) 02:33時点における最新版

アゾフの紋章

アゾフロシア語:Азовアゾーフ;Azov)はロシア連邦南部・ロストフ州の都市。人口は8万1924人(2021年)[1]ドン川沿いにあり、アゾフ海までは約6kmと近い。

歴史

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紀元前1千年紀にはスキタイ文化の勢力圏に入っていた。紀元前3世紀頃、ボスポロス王国からきたギリシャ人は、ドン川の河口が交易上の重要な土地であったため、ここに殖民都市タナイスロシア語版英語版古代ギリシア語: Τάναϊς、「川」の意) をつくった。数世紀後にミトリダテス戦争が起こり、紀元前63年にボスポロス王国はローマ帝国の宗主下に入り、ボスポロス王国のポレモ1世英語版(在位: 紀元前14年 - 紀元前8年)によって居住地は焼かれた。その後、ギリシア人の入植者たちは再建に成功したが、西暦3世紀にゴート人によって滅ぼされた(なお、タナイス(現在Nedvigovka村近辺)は、19世紀中頃から発掘が進められている)。

5世紀頃、フンの王デンキジック英語版宗主下のAkatziroi国の王Karadachが居住し始めた。6世紀頃、東ローマ帝国と、突厥宗主下のハザールが進出し、ビザンチン・サーサーン戦争英語版第三次ペルソ・テュルク戦争を行なった。7世紀の中頃、西突厥が衰退してハザール・カガン国が独立し、アラブ・ハザール戦争642年 - 799年)を行なった。

10世紀ハザール・カガン国が衰退し、この地域はスラヴ人トムタラカン公国(Tmutarakan)領になる。

1067年には、キプチャクがこの地域を支配し、地名をアザク(azak、「低地」の意)に変える。現在のアゾフの地名はここから来ている。13世紀から14世紀にかけてはジョチ・ウルスがこの地を支配したが、ヴェネツィアジェノヴァの商人たちは許可を得て、ターナという植民都市(現代のアゾフに位置する)をつくり、そこに定住した。

アゾフの要塞

1471年にオスマン帝国の侵攻によりターナ(アゾフ)は占領され、テュルク人はアゾフに要塞を建造した。 1637年の夏、ドン・コサックは4,000人の兵士と200の大砲を用いて、要塞を攻め占領した。ドン・コサックは5年間そこを保持していたが、1641年、夏より強大なオスマン軍が要塞を包囲、オスマン軍は要塞を陥落させることができず翌1642年に撤退した。オスマン軍の撤退後、トルコとの全面戦争を危惧するロシアツァーリミハイル・ロマノフは全国会議(ゼムスキー・ソボル)を召集し、要塞をトルコに引き渡すことを決定した。ドン・コサックは、要塞の防御設備を破壊した後に退去した。

その後、クリミア・ハン国に打撃を与えるために、ミハイル・ロマノフの孫でツァーリのピョートル1世(大帝)が大トルコ戦争に乗じてアゾフの再占領を開始した(アゾフ遠征ロシア語版英語版)。1695年の攻撃は失敗したものの、1696年に要塞を再占領した。しかし、大北方戦争最中の1711年にピョートル1世はプルート川の戦いでオスマン軍に包囲され、解囲の交渉の際にアゾフ要塞のトルコへの返還に同意した(プルト条約)。

第一次露土戦争におけるロシア帝国の勝利により、キュチュク・カイナルジャ条約(クチュク・カイナルジ条約)が結ばれ、アゾフはロシア領となった。

脚注

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  1. ^ city population”. 2 May 2023閲覧。