「イゾンツォ川」の版間の差分
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'''イゾンツォ川'''(イゾンツォがわ、{{lang-it|Isonzo}})あるいは'''ソチャ川'''(ソチャがわ、{{lang-sl|Soča}})は、[[スロベニア]]西部から[[イタリア]]北東部にかけて流れ、[[アドリア海]]に注ぐ[[川]]である。 |
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'''イゾンツォ川'''(Isonzo、[[スロベニア語]]では'''ソチャ川''' Soča)は、スロヴェニア西部とイタリア東北部を流れる[[川]]である。その水の色から「エメラルドの美しさ」とよばれることもある。 |
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イゾンツォ川流域では歴史上多くの戦いが行われた([[イゾンツォの戦い]])。とくに[[第一次世界大戦]]中の[[1915年]]から[[1917年]]にかけて、[[イタリア戦線 (第一次世界大戦)|イタリア戦線]]における激戦の舞台となったことでも知られる。 |
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ジューリア・アルプスのトレンタ渓谷にある[[トリグラウ|トリグラウ山]](2,864m)の西側1,100mの高さから流れ出ている。[[ボヴェツ]](伊語:プレッツォ)、[[コバリード]](伊語:カポレット)、[[ノヴァ・ゴリツァ]]などを流れる。イタリア領に入ると、[[モンファルコーネ]]付近の[[アドリア海]]に流れ出る。 |
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上流側約2/3がスロベニア領内(96km)、下流側1/3がイタリア領内(43km)を流れる。19世紀以降は全域が[[オーストリア帝国]]領内を流れていたが、[[第一次世界大戦]]後はイタリア領内を流れる川となった。現代の国境線は、[[第二次世界大戦]]後に[[イタリア]]と[[ユーゴスラビア]]の間に引かれた線がもとになっている([[ヴェネツィア・ジュリア]]参照)。 |
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イゾンツォ渓谷は、[[第一次世界大戦]]中の[[1915年]]から[[1917年]]に、[[イタリア戦線 (第一次世界大戦)|イタリア戦線]]において軍事大作戦の舞台となった。イゾンツォ戦線は数度にわたる会戦の後、1917年10月の[[カポレットの戦い]]でドイツ軍の援助を受けたオーストリア・ハンガリー側がイゾンツォ川流域を完全に占領した。イタリアがこの地域を奪回するのは、オーストリア・ハンガリーが連合国に降伏した後の事である。この戦いで100万人以上のイタリア軍とオーストリア・ハンガリー軍兵士が会戦で死んだ。この戦いは[[アーネスト・ヘミングウェイ]]の小説『[[武器よさらば]]』の舞台にもなっている。スロベニアの[[コバリード]]にはこの戦いとヘミングウェイを展示のテーマとした博物館がある。 |
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1915年5月、「[[未回収のイタリア]]」の回収を目指して[[オーストリア=ハンガリー帝国]]に宣戦を布告したイタリア王国は、6月に当時オーストリア領であったイゾンツォ川流域に進攻した([[第一次イゾンツォの戦い]])。重要都市ゴリツィアの占領を目指したものであったが、戦線は膠着し、イゾンツォ戦線では前後12度にわたる会戦が繰り返された。12度目の会戦となる1917年10月の[[カポレットの戦い]]において、ドイツ軍の援助を受けたオーストリア軍はイタリア軍を潰走させ、イゾンツォ川流域を完全に占領した。イタリアがこの地域を奪回するのは、1918年にオーストリアが休戦した後の事である。一連の戦いで、100万人以上のイタリア軍とオーストリア軍兵士が死んだ。 |
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カポレットの戦いは、[[アーネスト・ヘミングウェイ]]の小説『[[武器よさらば]]』でも描かれている。スロベニアの[[コバリード]]にはこの戦いとヘミングウェイを展示のテーマとした博物館がある。 |
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その水の色は「エメラルドの美しさ」と謳われることもある。 |
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== 外部リンク == |
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2021年3月18日 (木) 11:23時点における最新版
イゾンツォ川 | |
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スロベニア・コバリード付近 | |
延長 | 138 km |
平均流量 | 172 m3/s |
流域面積 | 3,400 km2 |
水源 | トリグラウ山 |
水源の標高 | 876 m |
河口・合流先 | アドリア海 |
流域 |
スロベニア イタリア |
イゾンツォ川(イゾンツォがわ、イタリア語: Isonzo)あるいはソチャ川(ソチャがわ、スロベニア語: Soča)は、スロベニア西部からイタリア北東部にかけて流れ、アドリア海に注ぐ川である。
イゾンツォ川流域では歴史上多くの戦いが行われた(イゾンツォの戦い)。とくに第一次世界大戦中の1915年から1917年にかけて、イタリア戦線における激戦の舞台となったことでも知られる。
名称
[編集]イタリア語、スロベニア語以外では以下の名称を持つ。
ドイツ語でも Isonzo と記されるが、歴史的には Sontig とも呼ばれた。
地理
[編集]上流側約2/3がスロベニア領内(96km)、下流側1/3がイタリア領内(43km)を流れる。19世紀以降は全域がオーストリア帝国領内を流れていたが、第一次世界大戦後はイタリア領内を流れる川となった。現代の国境線は、第二次世界大戦後にイタリアとユーゴスラビアの間に引かれた線がもとになっている(ヴェネツィア・ジュリア参照)。
流路
[編集]ジュリア・アルプス山脈最高峰のトリグラウ山(2,864m)の西側、トレンタ谷 (Trenta (valley)) の標高876mの地点に源流がある。
流域には、上流よりボヴェツ(伊: プレッツォ)、コバリード(伊: カポレット)、トールミン(伊: トルミノ)、カナル(伊: カナーレ・ディゾンツォ)、プラーヴ(伊: プラーヴァ)、ノヴァ・ゴリツァ(スロベニア領)およびゴリツィア(イタリア領)などの都市がある。
モンファルコーネ郊外(行政上はスタランツァーノとグラードの境界)で、アドリア海に注ぐ。
歴史
[編集]1915年5月、「未回収のイタリア」の回収を目指してオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦を布告したイタリア王国は、6月に当時オーストリア領であったイゾンツォ川流域に進攻した(第一次イゾンツォの戦い)。重要都市ゴリツィアの占領を目指したものであったが、戦線は膠着し、イゾンツォ戦線では前後12度にわたる会戦が繰り返された。12度目の会戦となる1917年10月のカポレットの戦いにおいて、ドイツ軍の援助を受けたオーストリア軍はイタリア軍を潰走させ、イゾンツォ川流域を完全に占領した。イタリアがこの地域を奪回するのは、1918年にオーストリアが休戦した後の事である。一連の戦いで、100万人以上のイタリア軍とオーストリア軍兵士が死んだ。
カポレットの戦いは、アーネスト・ヘミングウェイの小説『武器よさらば』でも描かれている。スロベニアのコバリードにはこの戦いとヘミングウェイを展示のテーマとした博物館がある。
環境
[編集]その水の色は「エメラルドの美しさ」と謳われることもある。
生物
[編集]イゾンツォ川上流部には、マスの一種 Salmo trutta marmoratus (マーブルトラウトとも呼ばれる)が生息することでも知られている。この魚は、アドリア海に注ぐ河川の固有種であるが、二回の世界大戦の戦間期に土着でないマスが流入したため、今では危機に瀕している。
外部リンク
[編集]- イゾンツォ川のマス(英語)
- 第一次大戦のイゾンツォの戦い(英語)
- 第一次大戦の戦場の地図(英語)