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野性味のあるプレーと風貌で人気選手となった。またエリア外からのシュートはめったに入らず当時世界最高のキーパーと呼ばれていた。ドイツサッカー界でも最も多くのタイトルを獲得した選手の一人であり、同時にドイツ社会で発言力を持つサッカー選手の一人である。[[ゼップ・マイヤー]]や[[ハラルト・シューマッハー]]らと共にドイツサッカー史に残るGKの一人であり、[[欧州サッカー連盟]]が選ぶ歴代欧州サッカー選手ベスト50の中に、当時現役のゴールキーパーでは唯一選出された。
野性味のあるプレーと風貌で人気選手となった。またエリア外からのシュートはめったに入らず当時世界最高のキーパーと呼ばれていた。ドイツサッカー界でも最も多くのタイトルを獲得した選手の一人であり、同時にドイツ社会で発言力を持つサッカー選手の一人である。[[ゼップ・マイヤー]]や[[ハラルト・シューマッハー]]らと共にドイツサッカー史に残るGKの一人であり、[[欧州サッカー連盟]]が選ぶ歴代欧州サッカー選手ベスト50の中に、当時現役のゴールキーパーでは唯一選出された。


== 歴 ==
== 歴 ==
祖父母は[[ラトビア]]出身。父もそこで生まれ、第二次世界大戦後にドイツへ来た<ref>[http://jp.uefa.com/uefaeuro/news/newsid=195447.html カーンに流れるラトビアの血]</ref>。祖父が誕生日にGKのユニフォームを買ってくれたのがGKを目指した理由と述べている<ref>{{Cite web|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ger/20181211/872553.html|title=【オリバー・カーン来日レポート】日本のファンと触れ合った濃密な3日間|publisher=サッカーキング|date=2018-12-11|accessdate=2021-03-03}}</ref>。
祖父母は[[ラトビア]]出身。父もそこで生まれ、第二次世界大戦後にドイツへ来た<ref>[http://jp.uefa.com/uefaeuro/news/newsid=195447.html カーンに流れるラトビアの血]</ref>。祖父が誕生日にGKのユニフォームを買ってくれたのがGKを目指した理由と述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ger/20181211/872553.html|title=【オリバー・カーン来日レポート】日本のファンと触れ合った濃密な3日間|publisher=サッカーキング|date=2018-12-11|accessdate=2021-03-03}}</ref>。


16歳の時にはクラブチームの加入試験にことごとく落ちる。[[カールスルーエSC|カールスルーエ]]に加入するまでは筋力トレーニングなど雌伏の時期を過ごした。カールスルーエでは数年かかって正GKの座を確保した。
16歳の時にはクラブチームの加入試験にことごとく落ちる。[[カールスルーエSC|カールスルーエ]]に加入するまでは筋力トレーニングなど雌伏の時期を過ごした。カールスルーエでは数年かかって正GKの座を確保した。


[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]や[[UEFAカップ]]での活躍が認められ、1994年、名門[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]へ移籍。初年度は味方[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]の[[サミュエル・オセイ・クフォー|クフォー]]と衝突し膝の十字靱帯を切断したためシーズンを棒に振ったが、翌年からは活躍を見せた。コンスタントにレベルの高いパフォーマンスを見せ、バイエルン・ミュンヘンのGKコーチ、ゼップ・マイヤーの下でワールドクラスのGKに成長した。
[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]や[[UEFAカップ]]での活躍が認められ、1994年、名門[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]へ移籍。初年度は味方[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]の[[サミュエル・クフォー|クフォー]]と衝突し膝の十字靱帯を切断したためシーズンを棒に振ったが、翌年からは活躍を見せた。コンスタントにレベルの高いパフォーマンスを見せ、バイエルン・ミュンヘンのGKコーチ、ゼップ・マイヤーの下でワールドクラスのGKに成長した。


1998-99シーズンの[[UEFAチャンピオンズリーグ]]決勝は{{要出典範囲|大会史上に残る名勝負となったが|date=2017-04}}、終了直前の3分間に2失点を喫し、[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]に敗れた。1999-00シーズン以降、4年連続で欧州最優秀ゴールキーパーに選出されている。またドイツサッカー雑誌「[[キッカー (新聞)|キッカー]]」の選手ランキングでも幾度も「ワールドクラス」の評価を得ており、1999年から2003年頃までドイツの各テレビや雑誌では世界ナンバーワンGKと紹介された。
1998-99シーズンの[[UEFAチャンピオンズリーグ]]決勝は{{要出典範囲|大会史上に残る名勝負となったが|date=2017-04}}、終了直前の3分間に2失点を喫し、[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]に敗れた。1999-00シーズン以降、4年連続で欧州最優秀ゴールキーパーに選出されている。またドイツサッカー雑誌「[[キッカー (新聞)|キッカー]]」の選手ランキングでも幾度も「ワールドクラス」の評価を得ており、1999年から2003年頃までドイツの各テレビや雑誌では世界ナンバーワンGKと紹介された。
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バイエルン・ミュンヘンとの契約が切れた2008年限りで現役を引退。2008年9月2日、[[ミュンヘン]]で引退記念試合が行われ、21年間の現役生活に終止符を打った。
バイエルン・ミュンヘンとの契約が切れた2008年限りで現役を引退。2008年9月2日、[[ミュンヘン]]で引退記念試合が行われ、21年間の現役生活に終止符を打った。


=== ドイツ代表 ===
=== 代表 ===
[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]では、[[FIFAワールドカップ]]を4回経験している。しかし、[[1994 FIFAワールドカップ|1994年大会]]には[[ボド・イルクナー]]、[[1998 FIFAワールドカップ|1998年大会]]には[[アンドレアス・ケプケ]]と、共に世界レベルのゴールキーパーの存在が大きくサブに甘んじ、正キーパーとして出場できたのは2002年大会のみである。2006年大会では、守備範囲が広くハイボールに強い[[イェンス・レーマン]]との正ゴールキーパーのポジション争いに敗れ、サブGKとして参加。3位決定戦のみの出場となった。
[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]では、[[FIFAワールドカップ]]を4回経験している。しかし、[[1994 FIFAワールドカップ|1994年大会]]には[[ボド・イルクナー]]、[[1998 FIFAワールドカップ|1998年大会]]には[[アンドレアス・ケプケ]]と、共に世界レベルのゴールキーパーの存在が大きくサブに甘んじ、正キーパーとして出場できたのは2002年大会のみである。2006年大会では、守備範囲が広くハイボールに強い[[イェンス・レーマン]]との正ゴールキーパーのポジション争いに敗れ、サブGKとして参加。3位決定戦のみの出場となった。


代表のレギュラーとして初めて国際大会に出場したのは[[UEFA欧州選手権2000]]。しかし、この大会では実力を発揮することができず、ドイツはグループリーグで敗退した。
代表のレギュラーとして初めて国際大会に出場したのは[[UEFA欧州選手権2000]]。しかし、この大会では実力を発揮することができず、ドイツはグループリーグで敗退した。


[[2002 FIFAワールドカップ]]にはキャプテンとして参加した。ドイツは2001年9月1日にミュンヘンで行われた日韓ワールドカップ地区予選、[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦で[[マイケル・オーウェン]]のハットトリックなど5失点を喫し1-5で完敗するなど、苦戦の末の本大会出場ということもあって下馬評は高くなかった。しかし、ワールドカップ本選ではカーンはファインセーブを連発し、準優勝の好成績を収めた。{{要出典範囲|なかでも枠内シュートセーブ率93パーセントという数字を残した|date=2017-07}}。自身は決勝戦においてブラジル代表の[[ジウベルト・シウバ]]との接触プレーにより[[靭帯]]損傷の怪我を負うが、そのままプレーを続行する気迫を見せた。ワールドカップでゴールキーパーとして初のMVPを獲得した。また、この年に自身3度目となる世界最優秀ゴールキーパー賞を受賞した。
[[2002 FIFAワールドカップ]]にはキャプテンとして参加した。ドイツは2001年9月1日にミュンヘンで行われた日韓ワールドカップ地区予選、[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦で[[マイケル・オーウェン]]のハットトリックなど5失点を喫し1-5で完敗するなど、苦戦の末の本大会出場ということもあって下馬評は高くなかった。しかし、ワールドカップ本選ではカーンはファインセーブを連発。{{要出典範囲|なかでも枠内シュートセーブ率93パーセントという数字を残した|date=2017-07}}。自身は決勝戦においてブラジル代表の[[ジウベルト・シウバ]]との接触プレーにより[[靭帯]]損傷の怪我を負うが、そのままプレーを続行する気迫を見せた。最終的には準優勝に終わったものの、ゴールキーパーとして初のワールドカップMVPを獲得した。また、この年に自身3度目となる世界最優秀ゴールキーパー賞を受賞した。


カーンにとって実質3度目の国際大会となる[[UEFA欧州選手権2004]]では、実力を発揮したものの、ドイツは2大会連続のグループリーグ敗退となった。
カーンにとって実質3度目の国際大会となる[[UEFA欧州選手権2004]]では、実力を発揮したものの、ドイツは2大会連続のグループリーグ敗退となった。


EURO2004後に就任した[[ユルゲン・クリンスマン]]監督の方針により、代表GKはローテーション制となり、ドイツワールドカップに向け長年のライバルであった[[イェンス・レーマン]]([[VfBシュトゥットガルト]])と正GKの座を争う形となったが、[[2006年]][[4月7日]]、クリンスマン監督から正式にレーマンが正GKであると発表があった。これにより「正GKとしてワールドカップに出場できないのなら代表を引退する」と公言していたが、「冷静に考えてから答えを出す」とコメントし熟慮の末、代表に参加した。
EURO2004後に就任した[[ユルゲン・クリンスマン]]監督の方針により、代表GKはローテーション制となり、ドイツワールドカップに向け長年のライバルであった[[イェンス・レーマン]]と正GKの座を争う形となったが、[[2006年]][[4月7日]]、クリンスマン監督から正式にレーマンが正GKであると発表があった。これにより「正GKとしてワールドカップに出場できないのなら代表を引退する」と公言していたが、「冷静に考えてから答えを出す」とコメントし熟慮の末、代表に参加した。


実質最後のワールドカップといわれた地元開催の[[2006 FIFAワールドカップ]]では、正GKとなったレーマンの控えとなったが「たとえ試合に出られなくても貢献できることはある」と自身でコメントしたように、延長戦ではレーマンを含めた他のチームメイトを励ますなどチームを盛り上げる姿を見せた。そして[[2006年]][[7月8日]](日本時間9日)に行われた3位決定戦では先発出場。ケガのため欠場したバラックに代わって主将を務めると共に、好セーブを連発してチームの勝利に貢献した。この試合終了後、代表引退を正式に表明した。
実質最後のワールドカップといわれた地元開催の[[2006 FIFAワールドカップ]]では、正GKとなったレーマンの控えとなったが「たとえ試合に出られなくても貢献できることはある」と自身でコメントしたように、延長戦ではレーマンを含めた他のチームメイトを励ますなどチームを盛り上げる姿を見せた。そして[[2006年]][[7月8日]](日本時間9日)に行われた3位決定戦では先発出場。ケガのため欠場したバラックに代わって主将を務めると共に、好セーブを連発してチームの勝利に貢献した。この試合終了後、代表引退を正式に表明した。


=== 引退後 ===
=== 引退後 ===
引退後はサッカー解説者やブンデスリーガのアンバサダーとして活動していたが、[[2020年]]1月から古巣のバイエルン・ミュンヘンに執行役員として復帰。翌[[2021年]]7月からは[[カール=ハインツ・ルンメニゲ]]の後任として、同クラブの最高経営責任者(CEO)に就任した<ref>{{Cite web |url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ger/20210601/1535625.html |title=バイエルン、ルンメニゲCEOが6月末に退任へ…後任はオリヴァー・カーン氏 |publisher=Soccer-king |date=2021.06.01 |accessdate=2022.01.06 }}</ref>。
引退後はサッカー解説者やブンデスリーガのアンバサダーとして活動していたが、[[2020年]]1月から古巣のバイエルン・ミュンヘンに執行役員として復帰。翌[[2021年]]7月からは[[カール=ハインツ・ルンメニゲ]]の後任として、同クラブの最高経営責任者(CEO)に就任した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ger/20210601/1535625.html |title=バイエルン、ルンメニゲCEOが6月末に退任へ…後任はオリヴァー・カーン氏 |publisher=Soccer-king |date=2021-06-01 |accessdate=2022-01-06 }}</ref>。しかし[[2023年]]5月、バイエルンがリーグ11連覇を達成した直後、CEOを解任された<ref>[https://jp.reuters.com/article/kahn-idJPKBN2XJ00D サッカー=バイエルン、リーグ優勝もカーンCEOらを解任] - ロイター・2023年5月28日</ref>。


== 選手としての特徴 ==
== 選手としての特徴 ==
相手のシュートに対する反応の鋭さ、味方への正確なロングパス、チームメートを引っ張るリーダーシップを持つなど、優れたゴールキーパーであり、存在感もあった<ref>田嶋幸三『これだけは知っておきたい(30) サッカーの大常識』株式会社ポプラ社、2006年、109ページ、{{ISBN2| 4-591-09115-5}}</ref>。2021年1月に[[マヌエル・ノイアー]]に記録を更新されるまでリーグの最多クリンシート記録を保持していた<ref>{{cite web|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ger/20210125/1171812.html |title=ノイアーがブンデス新記録を樹立! カーン氏を超え歴代最多クリーンシート数に |publisher=www.soccer-king.jp |accessdate=25 January 2021|date=25 January 2021}}</ref>。
相手のシュートに対する反応の鋭さ、味方への正確なロングパス、チームメートを引っ張るリーダーシップを持つなど、優れたゴールキーパーであり、存在感もあった<ref>田嶋幸三『これだけは知っておきたい(30) サッカーの大常識』株式会社ポプラ社、2006年、109ページ、{{ISBN2| 4-591-09115-5}}</ref>。2021年1月に[[マヌエル・ノイアー]]に記録を更新されるまでリーグの最多クリンシート(無失点試合)記録を保持していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ger/20210125/1171812.html |title=ノイアーがブンデス新記録を樹立! カーン氏を超え歴代最多クリーンシート数に |publisher=www.soccer-king.jp |accessdate=2021-01-25|date=2021-01-25}}</ref>。


== エピソード ==
== エピソード ==
* [[2001年]][[3月3日]]に行われた[[ハンザ・ロストック]]対バイエルン・ミュンヘンの試合において、[[シュテファン・エッフェンベルク]]が上げた[[コーナーキック]]を手でゴールを決めて、2枚目の[[イエローカード]]を貰って[[退場]]した。カーンの退場後は、[[ミヒャエル・タルナト]]がキーパーを務めた。
* [[2001年]][[3月3日]]に行われた[[ハンザ・ロストック]]対バイエルン・ミュンヘンの試合において、[[シュテファン・エッフェンベルク]]が上げた[[コーナーキック]]を手でゴールを決めて、2枚目の[[イエローカード]]を貰って[[退場]]した。カーンの退場後は、[[ミヒャエル・タルナト]]がキーパーを務めた。
ドイツでの彼の人気を物語るものとして、彼をモチーフにした曲「OLLI KAHN(オリ カーン)」がある。旧・東ドイツの都市・[[ライプツィヒ]]出身の音楽グループの[[ディー・プリンツェン]] ([[w:de:die Prinzen|die Prinzen]]) によるこの曲は2002 FIFAワールドカップの頃に発売された。
* ドイツでの彼の人気を物語るものとして、彼をモチーフにした曲「OLLI KAHN(オリ カーン)」がある。旧・東ドイツの都市・[[ライプツィヒ]]出身の音楽グループの[[ディー・プリンツェン]] ([[w:de:die Prinzen|die Prinzen]]) によるこの曲は2002 FIFAワールドカップの頃に発売された。歌詞はドイツ語版・英語版以外に日本語版も存在する。2006年には再プレスも行われた<ref>[https://www.hmv.co.jp/news/article/606160063/ あの"Olli Kahn"が再プレス!] - HMV・2006年6月16日</ref>
* 2006 FIFAワールドカップでは、[[ミュンヘン]]の[[高速道路]]に横っ飛びしてキャッチしているカーンの巨大アーチ看板が作られた。これはミュンヘン空港からスタジアムに向かう道をまたいでおり、観戦客はカーンの体の下を通過してスタジアムに向かうこととなった。
* 2006 FIFAワールドカップでは、[[ミュンヘン]]の[[高速道路]]に横っ飛びしてキャッチしているカーンの巨大アーチ看板が作られた。これはミュンヘン空港からスタジアムに向かう道をまたいでおり、観戦客はカーンの体の下を通過してスタジアムに向かうこととなった。
*引退時のインタビューにおいて「これまで対戦してきた中で最も嫌だったFWは誰か?」との質問に「最強のFWだと思ったのは[[ロナウド]]で間違いないが、最も嫌だったとなると[[フィリッポ・インザーギ|インザーギ]]だな…。知っての通り、やつはスーパーFWってわけじゃない。だが、大事な試合のたびに、やつは俺からゴールを奪ってきた。いつもだ!あいつは何てイラつくやつなんだ!」と答えている<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/3644269/ 引退のカーン、最も嫌だったFWは] livedorr NEWS 2008年5月18日</ref>。
* 結婚歴と離婚歴がある<ref>{{Cite web|url=https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20090819-532654.html|title=カーン氏復縁した妻と離婚、自ら公表|publisher=日刊スポーツ|date=2009-08-19|accessdate=2024-02-27}}</ref>。


==個人成績==
==個人成績==
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<sup>注1</sup> [[DFLスーパーカップ]]の記録を含む。
<sup>注1</sup> [[DFLスーパーカップ]]の記録を含む。


=== 代表での出場記録 ===
==代表==
===出場大会===
*[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]
**[[1994 FIFAワールドカップ]]
**[[1998 FIFAワールドカップ]]
**[[2002 FIFAワールドカップ]]
**[[2006 FIFAワールドカップ]]

===試合数===
*国際Aマッチ 86試合 0得点(1995年-2006年)<ref>{{Nfteams}}</ref>
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== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
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2024年12月27日 (金) 13:42時点における最新版

オリバー・カーン
2022年のカーン
名前
本名 オリヴァー・ロルフ・カーン
Oliver Rolf Kahn
愛称 オリー、ティターン
ラテン文字 Oliver KAHN
基本情報
国籍 ドイツの旗 ドイツ
生年月日 (1969-06-15) 1969年6月15日(55歳)
出身地 西ドイツの旗 西ドイツカールスルーエ
身長 188cm
体重 91kg
選手情報
ポジション GK
利き足 右足
ユース
1975-1987 ドイツの旗 カールスルーエ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1987-1990 ドイツの旗 カールスルーエII 73 (0)
1987-1994 ドイツの旗 カールスルーエSC 128 (0)
1994-2008 ドイツの旗 FCバイエルン・ミュンヘン 429 (0)
代表歴
1994-2006 ドイツの旗 ドイツ 86 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
アリアンツ・アレナで行われた引退試合の様子

オリバー・カーンOliver Rolf Kahn, 1969年6月15日 - )は、西ドイツカールスルーエ出身の元サッカー選手。ポジションはGK。

野性味のあるプレーと風貌で人気選手となった。またエリア外からのシュートはめったに入らず当時世界最高のキーパーと呼ばれていた。ドイツサッカー界でも最も多くのタイトルを獲得した選手の一人であり、同時にドイツ社会で発言力を持つサッカー選手の一人である。ゼップ・マイヤーハラルト・シューマッハーらと共にドイツサッカー史に残るGKの一人であり、欧州サッカー連盟が選ぶ歴代欧州サッカー選手ベスト50の中に、当時現役のゴールキーパーでは唯一選出された。

来歴

[編集]

祖父母はラトビア出身。父もそこで生まれ、第二次世界大戦後にドイツへ来た[1]。祖父が誕生日にGKのユニフォームを買ってくれたのがGKを目指した理由と述べている[2]

16歳の時にはクラブチームの加入試験にことごとく落ちる。カールスルーエに加入するまでは筋力トレーニングなど雌伏の時期を過ごした。カールスルーエでは数年かかって正GKの座を確保した。

ブンデスリーガUEFAカップでの活躍が認められ、1994年、名門バイエルン・ミュンヘンへ移籍。初年度は味方ディフェンダークフォーと衝突し膝の十字靱帯を切断したためシーズンを棒に振ったが、翌年からは活躍を見せた。コンスタントにレベルの高いパフォーマンスを見せ、バイエルン・ミュンヘンのGKコーチ、ゼップ・マイヤーの下でワールドクラスのGKに成長した。

1998-99シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝は大会史上に残る名勝負となったが[要出典]、終了直前の3分間に2失点を喫し、マンチェスター・ユナイテッドに敗れた。1999-00シーズン以降、4年連続で欧州最優秀ゴールキーパーに選出されている。またドイツサッカー雑誌「キッカー」の選手ランキングでも幾度も「ワールドクラス」の評価を得ており、1999年から2003年頃までドイツの各テレビや雑誌では世界ナンバーワンGKと紹介された。

2000-01シーズンには自らの活躍により、バイエルンをUEFAチャンピオンズリーグ優勝に導き、2年前の雪辱を果たした。2002 FIFAワールドカップ後は、私生活の問題もあってコンディションを落としたが、2004-05シーズンには完全復活した[要出典]

バイエルン・ミュンヘンとの契約が切れた2008年限りで現役を引退。2008年9月2日、ミュンヘンで引退記念試合が行われ、21年間の現役生活に終止符を打った。

代表

[編集]

ドイツ代表では、FIFAワールドカップを4回経験している。しかし、1994年大会にはボド・イルクナー1998年大会にはアンドレアス・ケプケと、共に世界レベルのゴールキーパーの存在が大きくサブに甘んじ、正キーパーとして出場できたのは2002年大会のみである。2006年大会では、守備範囲が広くハイボールに強いイェンス・レーマンとの正ゴールキーパーのポジション争いに敗れ、サブGKとして参加。3位決定戦のみの出場となった。

代表のレギュラーとして初めて国際大会に出場したのはUEFA欧州選手権2000。しかし、この大会では実力を発揮することができず、ドイツはグループリーグで敗退した。

2002 FIFAワールドカップにはキャプテンとして参加した。ドイツは2001年9月1日にミュンヘンで行われた日韓ワールドカップ地区予選、イングランド戦でマイケル・オーウェンのハットトリックなど5失点を喫し1-5で完敗するなど、苦戦の末の本大会出場ということもあって下馬評は高くなかった。しかし、ワールドカップ本選ではカーンはファインセーブを連発。なかでも枠内シュートセーブ率93パーセントという数字を残した[要出典]。自身は決勝戦においてブラジル代表のジウベルト・シウバとの接触プレーにより靭帯損傷の怪我を負うが、そのままプレーを続行する気迫を見せた。最終的には準優勝に終わったものの、ゴールキーパーとして初のワールドカップMVPを獲得した。また、この年に自身3度目となる世界最優秀ゴールキーパー賞を受賞した。

カーンにとって実質3度目の国際大会となるUEFA欧州選手権2004では、実力を発揮したものの、ドイツは2大会連続のグループリーグ敗退となった。

EURO2004後に就任したユルゲン・クリンスマン監督の方針により、代表GKはローテーション制となり、ドイツワールドカップに向け長年のライバルであったイェンス・レーマンと正GKの座を争う形となったが、2006年4月7日、クリンスマン監督から正式にレーマンが正GKであると発表があった。これにより「正GKとしてワールドカップに出場できないのなら代表を引退する」と公言していたが、「冷静に考えてから答えを出す」とコメントし熟慮の末、代表に参加した。

実質最後のワールドカップといわれた地元開催の2006 FIFAワールドカップでは、正GKとなったレーマンの控えとなったが「たとえ試合に出られなくても貢献できることはある」と自身でコメントしたように、延長戦ではレーマンを含めた他のチームメイトを励ますなどチームを盛り上げる姿を見せた。そして2006年7月8日(日本時間9日)に行われた3位決定戦では先発出場。ケガのため欠場したバラックに代わって主将を務めると共に、好セーブを連発してチームの勝利に貢献した。この試合終了後、代表引退を正式に表明した。

引退後

[編集]

引退後はサッカー解説者やブンデスリーガのアンバサダーとして活動していたが、2020年1月から古巣のバイエルン・ミュンヘンに執行役員として復帰。翌2021年7月からはカール=ハインツ・ルンメニゲの後任として、同クラブの最高経営責任者(CEO)に就任した[3]。しかし2023年5月、バイエルンがリーグ11連覇を達成した直後、CEOを解任された[4]

選手としての特徴

[編集]

相手のシュートに対する反応の鋭さ、味方への正確なロングパス、チームメートを引っ張るリーダーシップを持つなど、優れたゴールキーパーであり、存在感もあった[5]。2021年1月にマヌエル・ノイアーに記録を更新されるまでリーグの最多クリンシート(無失点試合)記録を保持していた[6]

エピソード

[編集]
  • 2001年3月3日に行われたハンザ・ロストック対バイエルン・ミュンヘンの試合において、シュテファン・エッフェンベルクが上げたコーナーキックを手でゴールを決めて、2枚目のイエローカードを貰って退場した。カーンの退場後は、ミヒャエル・タルナトがキーパーを務めた。
  • ドイツでの彼の人気を物語るものとして、彼をモチーフにした曲「OLLI KAHN(オリ カーン)」がある。旧・東ドイツの都市・ライプツィヒ出身の音楽グループのディー・プリンツェン (die Prinzen) によるこの曲は2002 FIFAワールドカップの頃に発売された。歌詞はドイツ語版・英語版以外に日本語版も存在する。2006年には再プレスも行われた[7]
  • 2006 FIFAワールドカップでは、ミュンヘン高速道路に横っ飛びしてキャッチしているカーンの巨大アーチ看板が作られた。これはミュンヘン空港からスタジアムに向かう道をまたいでおり、観戦客はカーンの体の下を通過してスタジアムに向かうこととなった。
  • 引退時のインタビューにおいて「これまで対戦してきた中で最も嫌だったFWは誰か?」との質問に「最強のFWだと思ったのはロナウドで間違いないが、最も嫌だったとなるとインザーギだな…。知っての通り、やつはスーパーFWってわけじゃない。だが、大事な試合のたびに、やつは俺からゴールを奪ってきた。いつもだ!あいつは何てイラつくやつなんだ!」と答えている[8]
  • 結婚歴と離婚歴がある[9]

個人成績

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シーズン クラブ リーグ リーグ カップ UEFA主催 合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
1987-88 カールスルーエ ブンデスリーガ 2 0 0 0 - 2 0
1988-89 2 0 0 0 - 2 0
1989-90 0 0 0 0 - 0 0
1990-91 22 0 0 0 - 22 0
1991-92 37 0 2 0 - 39 0
1992-93 34 0 5 0 - 39 0
1993-94 31 0 3 0 10 0 44 0
1994-95 バイエルン・ミュンヘン 23 0 2注1 0 5 0 30 0
1995-96 32 0 2 0 12 0 46 0
1996-97 32 0 4 0 2 0 38 0
1997-98 34 0 8 0 8 0 50 0
1998-99 30 0 8 0 13 0 51 0
1999-00 27 0 5 0 13 0 45 0
2000-01 32 0 4 0 16 0 52 0
2001-02 32 0 5 0 14 0 51 0
2002-03 33 0 6 0 6 0 45 0
2003-04 33 0 5 0 8 0 46 0
2004-05 32 0 7 0 10 0 49 0
2005-06 31 0 6 0 7 0 44 0
2006-07 32 0 3 0 9 0 44 0
2007-08 26 0 7 0 9 0 42 0
通算 557 0 82 0 142 0 781 0

注1 DFLスーパーカップの記録を含む。

代表歴

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出場大会

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試合数

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  • 国際Aマッチ 86試合 0得点(1995年-2006年)[10]


ドイツ代表国際Aマッチ
出場得点
1995 2 0
1996 3 0
1997 3 0
1998 7 0
1999 6 0
2000 10 0
2001 10 0
2002 15 0
2003 9 0
2004 11 0
2005 7 0
2006 3 0
通算 86 0

獲得タイトル

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クラブ

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  • トヨタカップ 2001
  • UEFAチャンピオンズリーグ 2000-01
  • UEFAカップ 1995-96
  • ブンデスリーガ 8回(1996-97, 1998-99, 1999-2000, 2000-01, 2002-03, 2004-05, 2005-06, 2007-08)
  • ドイツカップ 6回(1997-98, 1999-2000, 2002-03, 2004-05, 2005-06, 2007-08)
  • ドイツリーグカップ 6回(1997, 1998, 1999, 2000, 2004, 2007)

代表

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個人

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著書

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脚注

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  1. ^ カーンに流れるラトビアの血
  2. ^ 【オリバー・カーン来日レポート】日本のファンと触れ合った濃密な3日間”. サッカーキング (2018年12月11日). 2021年3月3日閲覧。
  3. ^ バイエルン、ルンメニゲCEOが6月末に退任へ…後任はオリヴァー・カーン氏”. Soccer-king (2021年6月1日). 2022年1月6日閲覧。
  4. ^ サッカー=バイエルン、リーグ優勝もカーンCEOらを解任 - ロイター・2023年5月28日
  5. ^ 田嶋幸三『これだけは知っておきたい(30) サッカーの大常識』株式会社ポプラ社、2006年、109ページ、ISBN 4-591-09115-5
  6. ^ ノイアーがブンデス新記録を樹立! カーン氏を超え歴代最多クリーンシート数に”. www.soccer-king.jp (2021年1月25日). 2021年1月25日閲覧。
  7. ^ あの"Olli Kahn"が再プレス! - HMV・2006年6月16日
  8. ^ 引退のカーン、最も嫌だったFWは livedorr NEWS 2008年5月18日
  9. ^ カーン氏復縁した妻と離婚、自ら公表”. 日刊スポーツ (2009年8月19日). 2024年2月27日閲覧。
  10. ^ オリバー・カーン - National-Football-Teams.com

外部リンク

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