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野性味のあるプレーと風貌で人気選手となった。またエリア外からのシュートはめったに入らず当時世界最高のキーパーと呼ばれていた。ドイツサッカー界でも最も多くのタイトルを獲得した選手の一人であり、同時にドイツ社会で発言力を持つサッカー選手の一人である。[[ゼップ・マイヤー]]や[[ハラルト・シューマッハー]]らと共にドイツサッカー史に残るGKの一人であり、[[欧州サッカー連盟]]が選ぶ歴代欧州サッカー選手ベスト50の中に、当時現役のゴールキーパーでは唯一選出された。 |
野性味のあるプレーと風貌で人気選手となった。またエリア外からのシュートはめったに入らず当時世界最高のキーパーと呼ばれていた。ドイツサッカー界でも最も多くのタイトルを獲得した選手の一人であり、同時にドイツ社会で発言力を持つサッカー選手の一人である。[[ゼップ・マイヤー]]や[[ハラルト・シューマッハー]]らと共にドイツサッカー史に残るGKの一人であり、[[欧州サッカー連盟]]が選ぶ歴代欧州サッカー選手ベスト50の中に、当時現役のゴールキーパーでは唯一選出された。 |
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== 来歴 == |
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祖父母は[[ラトビア]]出身。父もそこで生まれ、第二次世界大戦後にドイツへ来た<ref>[http://jp.uefa.com/uefaeuro/news/newsid=195447.html カーンに流れるラトビアの血]</ref>。祖父が誕生日にGKのユニフォームを買ってくれたのがGKを目指した理由と述べている<ref>{{Cite web|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ger/20181211/872553.html|title=【オリバー・カーン来日レポート】日本のファンと触れ合った濃密な3日間|publisher=サッカーキング|date=2018-12-11|accessdate=2021-03-03}}</ref>。 |
祖父母は[[ラトビア]]出身。父もそこで生まれ、第二次世界大戦後にドイツへ来た<ref>[http://jp.uefa.com/uefaeuro/news/newsid=195447.html カーンに流れるラトビアの血]</ref>。祖父が誕生日にGKのユニフォームを買ってくれたのがGKを目指した理由と述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ger/20181211/872553.html|title=【オリバー・カーン来日レポート】日本のファンと触れ合った濃密な3日間|publisher=サッカーキング|date=2018-12-11|accessdate=2021-03-03}}</ref>。 |
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16歳の時にはクラブチームの加入試験にことごとく落ちる。[[カールスルーエSC|カールスルーエ]]に加入するまでは筋力トレーニングなど雌伏の時期を過ごした。カールスルーエでは数年かかって正GKの座を確保した。 |
16歳の時にはクラブチームの加入試験にことごとく落ちる。[[カールスルーエSC|カールスルーエ]]に加入するまでは筋力トレーニングなど雌伏の時期を過ごした。カールスルーエでは数年かかって正GKの座を確保した。 |
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[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]や[[UEFAカップ]]での活躍が認められ、1994年、名門[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]へ移籍。初年度は味方[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]の[[サミュエル |
[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]や[[UEFAカップ]]での活躍が認められ、1994年、名門[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]へ移籍。初年度は味方[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]の[[サミュエル・クフォー|クフォー]]と衝突し膝の十字靱帯を切断したためシーズンを棒に振ったが、翌年からは活躍を見せた。コンスタントにレベルの高いパフォーマンスを見せ、バイエルン・ミュンヘンのGKコーチ、ゼップ・マイヤーの下でワールドクラスのGKに成長した。 |
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1998-99シーズンの[[UEFAチャンピオンズリーグ]]決勝は{{要出典範囲|大会史上に残る名勝負となったが|date=2017-04}}、終了直前の3分間に2失点を喫し、[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]に敗れた。1999-00シーズン以降、4年連続で欧州最優秀ゴールキーパーに選出されている。またドイツサッカー雑誌「[[キッカー (新聞)|キッカー]]」の選手ランキングでも幾度も「ワールドクラス」の評価を得ており、1999年から2003年頃までドイツの各テレビや雑誌では世界ナンバーワンGKと紹介された。 |
1998-99シーズンの[[UEFAチャンピオンズリーグ]]決勝は{{要出典範囲|大会史上に残る名勝負となったが|date=2017-04}}、終了直前の3分間に2失点を喫し、[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]に敗れた。1999-00シーズン以降、4年連続で欧州最優秀ゴールキーパーに選出されている。またドイツサッカー雑誌「[[キッカー (新聞)|キッカー]]」の選手ランキングでも幾度も「ワールドクラス」の評価を得ており、1999年から2003年頃までドイツの各テレビや雑誌では世界ナンバーワンGKと紹介された。 |
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バイエルン・ミュンヘンとの契約が切れた2008年限りで現役を引退。2008年9月2日、[[ミュンヘン]]で引退記念試合が行われ、21年間の現役生活に終止符を打った。 |
バイエルン・ミュンヘンとの契約が切れた2008年限りで現役を引退。2008年9月2日、[[ミュンヘン]]で引退記念試合が行われ、21年間の現役生活に終止符を打った。 |
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=== 代表 === |
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[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]では、[[FIFAワールドカップ]]を4回経験している。しかし、[[1994 FIFAワールドカップ|1994年大会]]には[[ボド・イルクナー]]、[[1998 FIFAワールドカップ|1998年大会]]には[[アンドレアス・ケプケ]]と、共に世界レベルのゴールキーパーの存在が大きくサブに甘んじ、正キーパーとして出場できたのは2002年大会のみである。2006年大会では、守備範囲が広くハイボールに強い[[イェンス・レーマン]]との正ゴールキーパーのポジション争いに敗れ、サブGKとして参加。3位決定戦のみの出場となった。 |
[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]では、[[FIFAワールドカップ]]を4回経験している。しかし、[[1994 FIFAワールドカップ|1994年大会]]には[[ボド・イルクナー]]、[[1998 FIFAワールドカップ|1998年大会]]には[[アンドレアス・ケプケ]]と、共に世界レベルのゴールキーパーの存在が大きくサブに甘んじ、正キーパーとして出場できたのは2002年大会のみである。2006年大会では、守備範囲が広くハイボールに強い[[イェンス・レーマン]]との正ゴールキーパーのポジション争いに敗れ、サブGKとして参加。3位決定戦のみの出場となった。 |
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代表のレギュラーとして初めて国際大会に出場したのは[[UEFA欧州選手権2000]]。しかし、この大会では実力を発揮することができず、ドイツはグループリーグで敗退した。 |
代表のレギュラーとして初めて国際大会に出場したのは[[UEFA欧州選手権2000]]。しかし、この大会では実力を発揮することができず、ドイツはグループリーグで敗退した。 |
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[[2002 FIFAワールドカップ]]にはキャプテンとして参加した。ドイツは2001年9月1日にミュンヘンで行われた日韓ワールドカップ地区予選、[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦で[[マイケル・オーウェン]]のハットトリックなど5失点を喫し1-5で完敗するなど、苦戦の末の本大会出場ということもあって下馬評は高くなかった。しかし、ワールドカップ本選ではカーンはファインセーブを連発 |
[[2002 FIFAワールドカップ]]にはキャプテンとして参加した。ドイツは2001年9月1日にミュンヘンで行われた日韓ワールドカップ地区予選、[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦で[[マイケル・オーウェン]]のハットトリックなど5失点を喫し1-5で完敗するなど、苦戦の末の本大会出場ということもあって下馬評は高くなかった。しかし、ワールドカップ本選ではカーンはファインセーブを連発。{{要出典範囲|なかでも枠内シュートセーブ率93パーセントという数字を残した|date=2017-07}}。自身は決勝戦においてブラジル代表の[[ジウベルト・シウバ]]との接触プレーにより[[靭帯]]損傷の怪我を負うが、そのままプレーを続行する気迫を見せた。最終的には準優勝に終わったものの、ゴールキーパーとして初のワールドカップMVPを獲得した。また、この年に自身3度目となる世界最優秀ゴールキーパー賞を受賞した。 |
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カーンにとって実質3度目の国際大会となる[[UEFA欧州選手権2004]]では、実力を発揮したものの、ドイツは2大会連続のグループリーグ敗退となった。 |
カーンにとって実質3度目の国際大会となる[[UEFA欧州選手権2004]]では、実力を発揮したものの、ドイツは2大会連続のグループリーグ敗退となった。 |
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EURO2004後に就任した[[ユルゲン・クリンスマン]]監督の方針により、代表GKはローテーション制となり、ドイツワールドカップに向け長年のライバルであった[[イェンス・レーマン]] |
EURO2004後に就任した[[ユルゲン・クリンスマン]]監督の方針により、代表GKはローテーション制となり、ドイツワールドカップに向け長年のライバルであった[[イェンス・レーマン]]と正GKの座を争う形となったが、[[2006年]][[4月7日]]、クリンスマン監督から正式にレーマンが正GKであると発表があった。これにより「正GKとしてワールドカップに出場できないのなら代表を引退する」と公言していたが、「冷静に考えてから答えを出す」とコメントし熟慮の末、代表に参加した。 |
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実質最後のワールドカップといわれた地元開催の[[2006 FIFAワールドカップ]]では、正GKとなったレーマンの控えとなったが「たとえ試合に出られなくても貢献できることはある」と自身でコメントしたように、延長戦ではレーマンを含めた他のチームメイトを励ますなどチームを盛り上げる姿を見せた。そして[[2006年]][[7月8日]](日本時間9日)に行われた3位決定戦では先発出場。ケガのため欠場したバラックに代わって主将を務めると共に、好セーブを連発してチームの勝利に貢献した。この試合終了後、代表引退を正式に表明した。 |
実質最後のワールドカップといわれた地元開催の[[2006 FIFAワールドカップ]]では、正GKとなったレーマンの控えとなったが「たとえ試合に出られなくても貢献できることはある」と自身でコメントしたように、延長戦ではレーマンを含めた他のチームメイトを励ますなどチームを盛り上げる姿を見せた。そして[[2006年]][[7月8日]](日本時間9日)に行われた3位決定戦では先発出場。ケガのため欠場したバラックに代わって主将を務めると共に、好セーブを連発してチームの勝利に貢献した。この試合終了後、代表引退を正式に表明した。 |
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=== 引退後 === |
=== 引退後 === |
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引退後はサッカー解説者やブンデスリーガのアンバサダーとして活動していたが、[[2020年]]1月から古巣のバイエルン・ミュンヘンに執行役員として復帰。翌[[2021年]]7月からは[[カール=ハインツ・ルンメニゲ]]の後任として、同クラブの最高経営責任者(CEO)に就任した<ref>{{Cite web |
引退後はサッカー解説者やブンデスリーガのアンバサダーとして活動していたが、[[2020年]]1月から古巣のバイエルン・ミュンヘンに執行役員として復帰。翌[[2021年]]7月からは[[カール=ハインツ・ルンメニゲ]]の後任として、同クラブの最高経営責任者(CEO)に就任した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ger/20210601/1535625.html |title=バイエルン、ルンメニゲCEOが6月末に退任へ…後任はオリヴァー・カーン氏 |publisher=Soccer-king |date=2021-06-01 |accessdate=2022-01-06 }}</ref>。しかし[[2023年]]5月、バイエルンがリーグ11連覇を達成した直後、CEOを解任された<ref>[https://jp.reuters.com/article/kahn-idJPKBN2XJ00D サッカー=バイエルン、リーグ優勝もカーンCEOらを解任] - ロイター・2023年5月28日</ref>。 |
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== 選手としての特徴 == |
== 選手としての特徴 == |
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相手のシュートに対する反応の鋭さ、味方への正確なロングパス、チームメートを引っ張るリーダーシップを持つなど、優れたゴールキーパーであり、存在感もあった<ref>田嶋幸三『これだけは知っておきたい(30) サッカーの大常識』株式会社ポプラ社、2006年、109ページ、{{ISBN2| 4-591-09115-5}}</ref>。2021年1月に[[マヌエル・ノイアー]]に記録を更新されるまでリーグの最多クリンシート記録を保持していた<ref>{{ |
相手のシュートに対する反応の鋭さ、味方への正確なロングパス、チームメートを引っ張るリーダーシップを持つなど、優れたゴールキーパーであり、存在感もあった<ref>田嶋幸三『これだけは知っておきたい(30) サッカーの大常識』株式会社ポプラ社、2006年、109ページ、{{ISBN2| 4-591-09115-5}}</ref>。2021年1月に[[マヌエル・ノイアー]]に記録を更新されるまでリーグの最多クリンシート(無失点試合)記録を保持していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ger/20210125/1171812.html |title=ノイアーがブンデス新記録を樹立! カーン氏を超え歴代最多クリーンシート数に |publisher=www.soccer-king.jp |accessdate=2021-01-25|date=2021-01-25}}</ref>。 |
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== エピソード == |
== エピソード == |
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* [[2001年]][[3月3日]]に行われた[[ハンザ・ロストック]]対バイエルン・ミュンヘンの試合において、[[シュテファン・エッフェンベルク]]が上げた[[コーナーキック]]を手でゴールを決めて、2枚目の[[イエローカード]]を貰って[[退場]]した。カーンの退場後は、[[ミヒャエル・タルナト]]がキーパーを務めた。 |
* [[2001年]][[3月3日]]に行われた[[ハンザ・ロストック]]対バイエルン・ミュンヘンの試合において、[[シュテファン・エッフェンベルク]]が上げた[[コーナーキック]]を手でゴールを決めて、2枚目の[[イエローカード]]を貰って[[退場]]した。カーンの退場後は、[[ミヒャエル・タルナト]]がキーパーを務めた。 |
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ドイツでの彼の人気を物語るものとして、彼をモチーフにした曲「OLLI KAHN(オリ カーン)」がある。旧・東ドイツの都市・[[ライプツィヒ]]出身の音楽グループの[[ディー・プリンツェン]] ([[w:de:die Prinzen|die Prinzen]]) によるこの曲は2002 FIFAワールドカップの頃に発売された。 |
* ドイツでの彼の人気を物語るものとして、彼をモチーフにした曲「OLLI KAHN(オリ カーン)」がある。旧・東ドイツの都市・[[ライプツィヒ]]出身の音楽グループの[[ディー・プリンツェン]] ([[w:de:die Prinzen|die Prinzen]]) によるこの曲は2002 FIFAワールドカップの頃に発売された。歌詞はドイツ語版・英語版以外に日本語版も存在する。2006年には再プレスも行われた<ref>[https://www.hmv.co.jp/news/article/606160063/ あの"Olli Kahn"が再プレス!] - HMV・2006年6月16日</ref>。 |
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* 2006 FIFAワールドカップでは、[[ミュンヘン]]の[[高速道路]]に横っ飛びしてキャッチしているカーンの巨大アーチ看板が作られた。これはミュンヘン空港からスタジアムに向かう道をまたいでおり、観戦客はカーンの体の下を通過してスタジアムに向かうこととなった。 |
* 2006 FIFAワールドカップでは、[[ミュンヘン]]の[[高速道路]]に横っ飛びしてキャッチしているカーンの巨大アーチ看板が作られた。これはミュンヘン空港からスタジアムに向かう道をまたいでおり、観戦客はカーンの体の下を通過してスタジアムに向かうこととなった。 |
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*引退時のインタビューにおいて「これまで対戦してきた中で最も嫌だったFWは誰か?」との質問に「最強のFWだと思ったのは[[ロナウド]]で間違いないが、最も嫌だったとなると[[フィリッポ・インザーギ|インザーギ]]だな…。知っての通り、やつはスーパーFWってわけじゃない。だが、大事な試合のたびに、やつは俺からゴールを奪ってきた。いつもだ!あいつは何てイラつくやつなんだ!」と答えている<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/3644269/ 引退のカーン、最も嫌だったFWは] livedorr NEWS 2008年5月18日</ref>。 |
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* 結婚歴と離婚歴がある<ref>{{Cite web|url=https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20090819-532654.html|title=カーン氏復縁した妻と離婚、自ら公表|publisher=日刊スポーツ|date=2009-08-19|accessdate=2024-02-27}}</ref>。 |
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==個人成績== |
==個人成績== |
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<sup>注1</sup> [[DFLスーパーカップ]]の記録を含む。 |
<sup>注1</sup> [[DFLスーパーカップ]]の記録を含む。 |
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==代表歴== |
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===出場大会=== |
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*[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]] |
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**[[2002 FIFAワールドカップ]] |
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*国際Aマッチ 86試合 0得点(1995年-2006年)<ref>{{Nfteams}}</ref> |
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== 脚注 == |
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== 外部リンク == |
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2024年12月27日 (金) 13:42時点における最新版
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2022年のカーン | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
オリヴァー・ロルフ・カーン Oliver Rolf Kahn | |||||
愛称 | オリー、ティターン | |||||
ラテン文字 | Oliver KAHN | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ドイツ | |||||
生年月日 | 1969年6月15日(55歳) | |||||
出身地 | 西ドイツ・カールスルーエ | |||||
身長 | 188cm | |||||
体重 | 91kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1975-1987 | カールスルーエ | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1987-1990 | カールスルーエII | 73 | (0) | |||
1987-1994 | カールスルーエSC | 128 | (0) | |||
1994-2008 | FCバイエルン・ミュンヘン | 429 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
1994-2006 | ドイツ | 86 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
オリバー・カーン(Oliver Rolf Kahn, 1969年6月15日 - )は、西ドイツ・カールスルーエ出身の元サッカー選手。ポジションはGK。
野性味のあるプレーと風貌で人気選手となった。またエリア外からのシュートはめったに入らず当時世界最高のキーパーと呼ばれていた。ドイツサッカー界でも最も多くのタイトルを獲得した選手の一人であり、同時にドイツ社会で発言力を持つサッカー選手の一人である。ゼップ・マイヤーやハラルト・シューマッハーらと共にドイツサッカー史に残るGKの一人であり、欧州サッカー連盟が選ぶ歴代欧州サッカー選手ベスト50の中に、当時現役のゴールキーパーでは唯一選出された。
来歴
[編集]祖父母はラトビア出身。父もそこで生まれ、第二次世界大戦後にドイツへ来た[1]。祖父が誕生日にGKのユニフォームを買ってくれたのがGKを目指した理由と述べている[2]。
16歳の時にはクラブチームの加入試験にことごとく落ちる。カールスルーエに加入するまでは筋力トレーニングなど雌伏の時期を過ごした。カールスルーエでは数年かかって正GKの座を確保した。
ブンデスリーガやUEFAカップでの活躍が認められ、1994年、名門バイエルン・ミュンヘンへ移籍。初年度は味方ディフェンダーのクフォーと衝突し膝の十字靱帯を切断したためシーズンを棒に振ったが、翌年からは活躍を見せた。コンスタントにレベルの高いパフォーマンスを見せ、バイエルン・ミュンヘンのGKコーチ、ゼップ・マイヤーの下でワールドクラスのGKに成長した。
1998-99シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝は大会史上に残る名勝負となったが[要出典]、終了直前の3分間に2失点を喫し、マンチェスター・ユナイテッドに敗れた。1999-00シーズン以降、4年連続で欧州最優秀ゴールキーパーに選出されている。またドイツサッカー雑誌「キッカー」の選手ランキングでも幾度も「ワールドクラス」の評価を得ており、1999年から2003年頃までドイツの各テレビや雑誌では世界ナンバーワンGKと紹介された。
2000-01シーズンには自らの活躍により、バイエルンをUEFAチャンピオンズリーグ優勝に導き、2年前の雪辱を果たした。2002 FIFAワールドカップ後は、私生活の問題もあってコンディションを落としたが、2004-05シーズンには完全復活した[要出典]。
バイエルン・ミュンヘンとの契約が切れた2008年限りで現役を引退。2008年9月2日、ミュンヘンで引退記念試合が行われ、21年間の現役生活に終止符を打った。
代表
[編集]ドイツ代表では、FIFAワールドカップを4回経験している。しかし、1994年大会にはボド・イルクナー、1998年大会にはアンドレアス・ケプケと、共に世界レベルのゴールキーパーの存在が大きくサブに甘んじ、正キーパーとして出場できたのは2002年大会のみである。2006年大会では、守備範囲が広くハイボールに強いイェンス・レーマンとの正ゴールキーパーのポジション争いに敗れ、サブGKとして参加。3位決定戦のみの出場となった。
代表のレギュラーとして初めて国際大会に出場したのはUEFA欧州選手権2000。しかし、この大会では実力を発揮することができず、ドイツはグループリーグで敗退した。
2002 FIFAワールドカップにはキャプテンとして参加した。ドイツは2001年9月1日にミュンヘンで行われた日韓ワールドカップ地区予選、イングランド戦でマイケル・オーウェンのハットトリックなど5失点を喫し1-5で完敗するなど、苦戦の末の本大会出場ということもあって下馬評は高くなかった。しかし、ワールドカップ本選ではカーンはファインセーブを連発。なかでも枠内シュートセーブ率93パーセントという数字を残した[要出典]。自身は決勝戦においてブラジル代表のジウベルト・シウバとの接触プレーにより靭帯損傷の怪我を負うが、そのままプレーを続行する気迫を見せた。最終的には準優勝に終わったものの、ゴールキーパーとして初のワールドカップMVPを獲得した。また、この年に自身3度目となる世界最優秀ゴールキーパー賞を受賞した。
カーンにとって実質3度目の国際大会となるUEFA欧州選手権2004では、実力を発揮したものの、ドイツは2大会連続のグループリーグ敗退となった。
EURO2004後に就任したユルゲン・クリンスマン監督の方針により、代表GKはローテーション制となり、ドイツワールドカップに向け長年のライバルであったイェンス・レーマンと正GKの座を争う形となったが、2006年4月7日、クリンスマン監督から正式にレーマンが正GKであると発表があった。これにより「正GKとしてワールドカップに出場できないのなら代表を引退する」と公言していたが、「冷静に考えてから答えを出す」とコメントし熟慮の末、代表に参加した。
実質最後のワールドカップといわれた地元開催の2006 FIFAワールドカップでは、正GKとなったレーマンの控えとなったが「たとえ試合に出られなくても貢献できることはある」と自身でコメントしたように、延長戦ではレーマンを含めた他のチームメイトを励ますなどチームを盛り上げる姿を見せた。そして2006年7月8日(日本時間9日)に行われた3位決定戦では先発出場。ケガのため欠場したバラックに代わって主将を務めると共に、好セーブを連発してチームの勝利に貢献した。この試合終了後、代表引退を正式に表明した。
引退後
[編集]引退後はサッカー解説者やブンデスリーガのアンバサダーとして活動していたが、2020年1月から古巣のバイエルン・ミュンヘンに執行役員として復帰。翌2021年7月からはカール=ハインツ・ルンメニゲの後任として、同クラブの最高経営責任者(CEO)に就任した[3]。しかし2023年5月、バイエルンがリーグ11連覇を達成した直後、CEOを解任された[4]。
選手としての特徴
[編集]相手のシュートに対する反応の鋭さ、味方への正確なロングパス、チームメートを引っ張るリーダーシップを持つなど、優れたゴールキーパーであり、存在感もあった[5]。2021年1月にマヌエル・ノイアーに記録を更新されるまでリーグの最多クリンシート(無失点試合)記録を保持していた[6]。
エピソード
[編集]- 2001年3月3日に行われたハンザ・ロストック対バイエルン・ミュンヘンの試合において、シュテファン・エッフェンベルクが上げたコーナーキックを手でゴールを決めて、2枚目のイエローカードを貰って退場した。カーンの退場後は、ミヒャエル・タルナトがキーパーを務めた。
- ドイツでの彼の人気を物語るものとして、彼をモチーフにした曲「OLLI KAHN(オリ カーン)」がある。旧・東ドイツの都市・ライプツィヒ出身の音楽グループのディー・プリンツェン (die Prinzen) によるこの曲は2002 FIFAワールドカップの頃に発売された。歌詞はドイツ語版・英語版以外に日本語版も存在する。2006年には再プレスも行われた[7]。
- 2006 FIFAワールドカップでは、ミュンヘンの高速道路に横っ飛びしてキャッチしているカーンの巨大アーチ看板が作られた。これはミュンヘン空港からスタジアムに向かう道をまたいでおり、観戦客はカーンの体の下を通過してスタジアムに向かうこととなった。
- 引退時のインタビューにおいて「これまで対戦してきた中で最も嫌だったFWは誰か?」との質問に「最強のFWだと思ったのはロナウドで間違いないが、最も嫌だったとなるとインザーギだな…。知っての通り、やつはスーパーFWってわけじゃない。だが、大事な試合のたびに、やつは俺からゴールを奪ってきた。いつもだ!あいつは何てイラつくやつなんだ!」と答えている[8]。
- 結婚歴と離婚歴がある[9]。
個人成績
[編集]シーズン | クラブ | リーグ | リーグ | カップ | UEFA主催 | 合計 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |||
1987-88 | カールスルーエ | ブンデスリーガ | 2 | 0 | 0 | 0 | - | 2 | 0 | |
1988-89 | 2 | 0 | 0 | 0 | - | 2 | 0 | |||
1989-90 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | |||
1990-91 | 22 | 0 | 0 | 0 | - | 22 | 0 | |||
1991-92 | 37 | 0 | 2 | 0 | - | 39 | 0 | |||
1992-93 | 34 | 0 | 5 | 0 | - | 39 | 0 | |||
1993-94 | 31 | 0 | 3 | 0 | 10 | 0 | 44 | 0 | ||
1994-95 | バイエルン・ミュンヘン | 23 | 0 | 2注1 | 0 | 5 | 0 | 30 | 0 | |
1995-96 | 32 | 0 | 2 | 0 | 12 | 0 | 46 | 0 | ||
1996-97 | 32 | 0 | 4 | 0 | 2 | 0 | 38 | 0 | ||
1997-98 | 34 | 0 | 8 | 0 | 8 | 0 | 50 | 0 | ||
1998-99 | 30 | 0 | 8 | 0 | 13 | 0 | 51 | 0 | ||
1999-00 | 27 | 0 | 5 | 0 | 13 | 0 | 45 | 0 | ||
2000-01 | 32 | 0 | 4 | 0 | 16 | 0 | 52 | 0 | ||
2001-02 | 32 | 0 | 5 | 0 | 14 | 0 | 51 | 0 | ||
2002-03 | 33 | 0 | 6 | 0 | 6 | 0 | 45 | 0 | ||
2003-04 | 33 | 0 | 5 | 0 | 8 | 0 | 46 | 0 | ||
2004-05 | 32 | 0 | 7 | 0 | 10 | 0 | 49 | 0 | ||
2005-06 | 31 | 0 | 6 | 0 | 7 | 0 | 44 | 0 | ||
2006-07 | 32 | 0 | 3 | 0 | 9 | 0 | 44 | 0 | ||
2007-08 | 26 | 0 | 7 | 0 | 9 | 0 | 42 | 0 | ||
通算 | 557 | 0 | 82 | 0 | 142 | 0 | 781 | 0 |
注1 DFLスーパーカップの記録を含む。
代表歴
[編集]出場大会
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 86試合 0得点(1995年-2006年)[10]
ドイツ代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1995 | 2 | 0 |
1996 | 3 | 0 |
1997 | 3 | 0 |
1998 | 7 | 0 |
1999 | 6 | 0 |
2000 | 10 | 0 |
2001 | 10 | 0 |
2002 | 15 | 0 |
2003 | 9 | 0 |
2004 | 11 | 0 |
2005 | 7 | 0 |
2006 | 3 | 0 |
通算 | 86 | 0 |
獲得タイトル
[編集]クラブ
[編集]- トヨタカップ 2001
- UEFAチャンピオンズリーグ 2000-01
- UEFAカップ 1995-96
- ブンデスリーガ 8回(1996-97, 1998-99, 1999-2000, 2000-01, 2002-03, 2004-05, 2005-06, 2007-08)
- ドイツカップ 6回(1997-98, 1999-2000, 2002-03, 2004-05, 2005-06, 2007-08)
- ドイツリーグカップ 6回(1997, 1998, 1999, 2000, 2004, 2007)
代表
[編集]個人
[編集]- 2002ワールドカップ最優秀選手
- 2002ワールドカップ最優秀ゴールキーパー
- 世界最優秀ゴールキーパー : 1999,2001,2002
- UEFA欧州最優秀ゴールキーパー : 1999,2000,2001,2002
- 欧州最優秀ゴールキーパー賞 : 1999,2000,2001,2002
- ドイツ年間最優秀選手賞 : 2000,2001
- ドイツ最優秀ゴールキーパー : 1994,1997,1999,2000,2001,2002
- FIFAフェアプレー賞 : 2001
著書
[編集]- 「オリバー・カーン自伝 ナンバーワン」("Nummer Eins" 斎藤孝監訳、三笠書房)ISBN 978-4837956518
脚注
[編集]- ^ カーンに流れるラトビアの血
- ^ “【オリバー・カーン来日レポート】日本のファンと触れ合った濃密な3日間”. サッカーキング (2018年12月11日). 2021年3月3日閲覧。
- ^ “バイエルン、ルンメニゲCEOが6月末に退任へ…後任はオリヴァー・カーン氏”. Soccer-king (2021年6月1日). 2022年1月6日閲覧。
- ^ サッカー=バイエルン、リーグ優勝もカーンCEOらを解任 - ロイター・2023年5月28日
- ^ 田嶋幸三『これだけは知っておきたい(30) サッカーの大常識』株式会社ポプラ社、2006年、109ページ、ISBN 4-591-09115-5
- ^ “ノイアーがブンデス新記録を樹立! カーン氏を超え歴代最多クリーンシート数に”. www.soccer-king.jp (2021年1月25日). 2021年1月25日閲覧。
- ^ あの"Olli Kahn"が再プレス! - HMV・2006年6月16日
- ^ 引退のカーン、最も嫌だったFWは livedorr NEWS 2008年5月18日
- ^ “カーン氏復縁した妻と離婚、自ら公表”. 日刊スポーツ (2009年8月19日). 2024年2月27日閲覧。
- ^ オリバー・カーン - National-Football-Teams.com
外部リンク
[編集]- 公式ウェブサイト
- オリバー・カーン (@OliverKahn) - X(旧Twitter)
- オリバー・カーン (@oliverkahn) - Instagram
- オリバー・カーン (OfficialOliverKahn) - Facebook
- オリバー・カーン - National-Football-Teams.com
- オリバー・カーン - FootballDatabase.eu
- オリバー・カーン - WorldFootball.net
- オリバー・カーン - Transfermarkt.comによる選手データ
- オリバー・カーン - Transfermarkt.comによる指導者データ
- オリバー・カーン - FIFA主催大会成績
- オリバー・カーン - UEFA
- オリバー・カーン - Fussballdaten.de
- オリバー・カーン - Munzinger Sports Archives
- ドイツのサッカー選手
- サッカードイツ代表選手
- カールスルーエSCの選手
- FCバイエルン・ミュンヘンの選手
- FIFA100
- FIFAワールドカップドイツ代表選手
- 1994 FIFAワールドカップ出場選手
- 1998 FIFAワールドカップ出場選手
- 2002 FIFAワールドカップ出場選手
- 2006 FIFAワールドカップ出場選手
- FIFAコンフェデレーションズカップ2005出場選手
- UEFA欧州選手権ドイツ代表選手
- UEFA EURO 1996出場選手
- UEFA EURO 2000出場選手
- UEFA EURO 2004出場選手
- バルト・ドイツ人
- ラトビア系ドイツ人
- ハーゲン通信大学出身の人物
- カールスルーエ出身の人物
- 1969年生
- 存命人物
- ジルバーネス・ロールベアブラット受賞者