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'''坂口 敏之'''(さかぐち としゆき、[[1909年]][[3月29日]]<ref>『日本医籍録 第24版』医学公論社、1956年、福岡県42頁。</ref> - [[1999年]]<ref name="snp">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20200803-MNHYKPM2HNPV7MG2HEWDUCDATA/|title=戦後75年 軍医が見た戦地の光景 熊本の医師の手記7冊、中国・東南アジアで記録|newspaper=[[産経新聞]]|date=2020-08-03|accessdate=2023-08}}</ref>)は、[[日本]]の[[医師]]、[[軍医]]。 |
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1937年7月には[[上海市|上海]]に派遣され患者輸送部隊の医師として、負傷した兵士を野戦病院から後方へ送る仕事に従事した<ref name="snp"/>。[[太平洋戦争]]開戦後は軍医として徴兵され、[[マレー作戦]]に従軍し、1942年秋まで占領地を移った<ref name="snp"/>。 |
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没後の2020年に、[[日中戦争]]以来の従軍当時を綴った手記「従軍記」が大牟田市の遺族宅に保管されていることが報じられた<ref name="snp"/>。 |
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== 著書 == |
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*『肥後の子供歳時記』葦書房、1975年 |
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*『上田仙太郎伝 : ロシア通の仙骨外交官』葦書房、1985年 |
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*『小さい庭の四季』葦書房、1990年 |
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== 脚注 == |
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坂口 敏之(さかぐち としゆき、1909年3月29日[1] - 1999年[2])は、日本の医師、軍医。
来歴
[編集]熊本県玉名郡梅林村(現・玉名市)に生まれる[3]。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1927年卒業)を経て、熊本医科大学を卒業した。
1937年7月には上海に派遣され患者輸送部隊の医師として、負傷した兵士を野戦病院から後方へ送る仕事に従事した[2]。太平洋戦争開戦後は軍医として徴兵され、マレー作戦に従軍し、1942年秋まで占領地を移った[2]。
戦後は福岡県大牟田市の三井三池鉱業所病院に勤め、定年退職後に開業医となった[3]。1952年に熊本大学より医学博士号を取得している[4]。1975年には『肥後の子供歳時記』を刊行した[5]。1999年に満89歳で死去した[2]。
没後の2020年に、日中戦争以来の従軍当時を綴った手記「従軍記」が大牟田市の遺族宅に保管されていることが報じられた[2]。
著書
[編集]- 『肥後の子供歳時記』葦書房、1975年
- 『上田仙太郎伝 : ロシア通の仙骨外交官』葦書房、1985年
- 『小さい庭の四季』葦書房、1990年