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'''エルヴィン・パノフスキー'''('''Erwin Panofsky''', [[1892年]][[3月30日]] - [[1968年]][[3月14日]])は[[ドイツ]]出身の[[美術史]]家。英語読みで'''アーウィン・パノフスキー'''とする表記もある。[[アルブレヒト・デューラー]]を中心とする[[北方ルネサンス]]研究で知られるほか、彼が理論化をすすめた[[イコノロジー]](図像解釈学)は、20世紀の美術史学にとって「様式論」と並ぶ最も重要な方法論となった<ref name="holly"/>
'''エルヴィン・パノフスキー'''('''Erwin Panofsky''', [[1892年]][[3月30日]] - [[1968年]][[3月14日]])は[[ドイツ]]出身の[[美術史]]家。英語読みで'''アーウィン・パノフスキー'''とする表記もある。


== 人物 ==
[[1892年]]に[[ハノーファー]]に生まれ、[[ミュンヘン]]や[[ベルリン]]で学んだあと、[[ルネサンス期のイタリア絵画|イタリア・ルネサンス絵画]]とデューラーの関係を扱った論文で[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]から哲学博士号を取得(1914年)。[[1926年]]、新設された[[ハンブルク大学]]で美術史の正教授に就任。このとき同大学の哲学教授だった[[エルンスト・カッシーラー]]と深く交流したほか、美術史家[[アビ・ヴァールブルク]]の知遇を得た<ref name="holly">Michael A. Holly: ''Panofsky and the Foundations of Art History'' (Cornell UP, 1984)</ref>。ドイツ時代の重要な研究には、『デューラーのメランコリアI 起源と類型の一史的考察』(F・ザクスルとの共著、1923年)や『イデア』(1924年)、『象徴形式としての遠近法』(1927年)、などがある<ref>主要著作の刊行年については『イコノロジー研究』ちくま学芸文庫版の「解題」を参照。</ref>
[[アルブレヒト・デューラー]]を中心とする[[北方ルネサンス]]研究で知られる。パノフスキー理論化をすすめた[[イコノロジー]](図像解釈学)は、20世紀の美術史学で、「様式論」と並ぶ最も重要な方法論{{sfn|Holly|1984}}となった。


[[1892年]]にドイツ北部の[[ハノーファー]]に生まれ、[[ミュンヘン]]や[[ベルリン]]で学んだあと、[[ルネサンス期のイタリア絵画|イタリア・ルネサンス絵画]]とデューラーの関係を扱った論文で[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]から哲学博士号を取得(1914年)。[[1926年]]、新設された[[ハンブルク大学]]で美術史の正教授に就任。このとき同大学の哲学教授だった[[エルンスト・カッシーラー]]と深く交流したほか、美術史家[[アビ・ヴァールブルク]]の知遇を得た{{sfn|Holly|1984}}。ドイツ時代の重要な研究には、『デューラーのメランコリアI 起源と類型の一史的考察』(F・ザクスルとの共著、1923年)や『イデア』(1924年)、『象徴形式としての遠近法』(1927年)、などがある{{Efn|主要著作の刊行年については『イコノロジー研究』ちくま学芸文庫版の「解題」を参照。}}
[[1931年]]、[[ニューヨーク大学]]の客員教授として初めて[[アメリカ合衆国]]に渡り、以後数年間、ドイツとアメリカを往復する生活が続いたあと、[[1933年]]の[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]による[[ユダヤ人]]公職追放を機にアメリカに永住する。翌1934年には[[プリンストン高等研究所]]教授に迎えられた。1962年に同所を退くまで様々な主題で著作を残し、1968年、プリンストンで没する<ref name="holly"/>


[[1931年]]、[[ニューヨーク大学]]の客員教授として初めて[[アメリカ合衆国]]に渡り、以後数年間、ドイツとアメリカを往復する生活が続いたあと、[[1933年]]の[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]による[[ユダヤ人]]公職追放を機にアメリカに永住する。翌1934年には[[プリンストン高等研究所]]教授に迎えられた。1962年に同所を退くまで様々な主題で著作を残し、1968年、プリンストンで没する{{sfn|Holly|1984}}
アメリカ時代の代表的な著作には、その後の美術史学を長く決定づけるマニフェストとなった『イコノロジー研究』(1939年)を筆頭に、デューラー研究の集大成となった『アルブレヒト・デューラー』(1943年)、『ゴシック建築とスコラ哲学』(1951年)、『初期ネーデルラント絵画』(1953年)、『墓の彫刻 古代エジプトからベルニーニに至る変遷』(1964年)と、その研究主題は広範囲に及んだ<ref name="holly"/>


アメリカ時代の代表的な著作には、その後の美術史学を長く決定づけるマニフェストとなった『イコノロジー研究』(1939年)を筆頭に、デューラー研究の集大成となった『アルブレヒト・デューラー』(1943年)、『ゴシック建築とスコラ哲学』(1951年)、『初期ネーデルラント絵画』(1953年)、『墓の彫刻 古代エジプトからベルニーニに至る変遷』(1964年)と、その研究主題は広範囲に及んだ{{sfn|Holly|1984}}
息子の[[ヴォルフガング・パノフスキー]]は素粒子物理学を専門とする物理学者。


音楽評論家の[[ヴァルター・パノフスキー]]は[[はとこ]]<ref>Deutsche Biographie:[https://www.deutsche-biographie.de/sfz93764.html#ndbcontent walter panofsky] 2024年12月1日閲覧。</ref>、息子の[[ヴォルフガング・パノフスキー]]は素粒子物理学を専門とする物理学者。
== 脚注 ==
==ブルデューへの影響==
{{脚注ヘルプ}}
フランスの[[社会学者]][[ピエール・ブルデュー]]が『芸術の規則』や『[[ディスタンクシオン]]』などの著作で展開した趣味論に大きな影響を与えた。特にブルデューは、パノフスキーの『ゴシック建築とスコラ学』から[[ハビトゥス]]の概念を初めて採用したが<ref name="Chartier">Chartier, Roger. ''Cultural History'', pp. 23–24 (from "Intellectual History and the History of ''Mentalités''"). Ithaca: Cornell University Press, 1988</ref><ref>[http://www.brynmawr.edu/bmrcl/Winter2007/Premodern.htm Review] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090409100449/http://www.brynmawr.edu/bmrcl/Winter2007/Premodern.htm |date=April 9, 2009 }} of Holsinger, ''The Premodern Condition'', in ''Bryn Mawr Review of Comparative Literature'' 6:1 (Winter 2007).</ref>、それに先んじてこの作品を仏訳し、長文の「あとがき」を付している<ref>Bourdieu, Pierre. 'Postface' in Panofsky, Erwin. ''Architecture gothique et pensée scolastique'', Minuit, 1967(ピエール・ブルデュー「生成文法としてのハビトゥス」[[三好信子]]訳、『actes』No.2、日本エディタースクール出版部)</ref>。なお、ブルデューが翻訳を行ったのはパノフスキーのみである<ref>
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[[三浦直子]]「[https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-20170128-0431 ブルデューのパノフスキー受容と社会学的展開 : 美術史研究を反省的社会学に継承する「手法」]」『法學研究』第90巻、第1号、慶應義塾大学法学研究会、2017年。</ref>。


== 著作(日本語訳) ==
==著作(日本語訳)==
* 『イコノロジー研究 ルネサンス美術における人文主義の諸テーマ』 浅野徹・阿天坊耀ほか2名[[美術出版社]]、1971年、新版1987年/筑摩書房〈[[ちくま学芸文庫]]〉(上下)、2002年
* 『イコノロジー研究 ルネサンス美術における人文主義の諸テーマ』 浅野徹・阿天坊耀・[[塚田孝雄]]・[[福部信敏]] 
*:[[美術出版社]]、1971年、新版1987年/[[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉(上下)、2002年
* 『視覚芸術の意味』 [[中森義宗]]ほか訳、岩崎美術社〈美術名著選書〉、1971年、新版1981年
* 『視覚芸術の意味』 中森義宗・内藤秀雄・清水忠訳、岩崎美術社〈美術名著選書〉、1971年、新版1981年
* 『ルネサンスの春』 [[中森義宗]]・清水忠訳、思索社、1973年、新版1984年、新思索社(新装版)、2006年
* 『ルネサンスの春』 [[中森義宗]]・清水忠訳、思索社、1973年、新版1984年、新思索社(新装版)、2006年
* 『イデア』 [[中森義宗]]ほか訳、思索社、1982年
* 『イデア』 中森義宗・野田保之・佐藤三郎訳、思索社、1982年
** 『イデア — 美と芸術の理論のために』 [[伊藤博明]]・富松保文訳、[[平凡社ライブラリー]]、2004年
** 『イデア — 美と芸術の理論のために』 [[伊藤博明]]・富松保文訳、[[平凡社ライブラリー]]、2004年
* 『アルブレヒト・デューラー 生涯と芸術』 [[中森義宗]]ほか訳、日貿出版社、1984年
* 『アルブレヒト・デューラー 生涯と芸術』 中森義宗・清水忠訳、日貿出版社、1984年
* 『ゴシック建築とスコラ哲学』 前川道郎訳、[[平凡社]]〈ヴァールブルクコレクション〉、1987年/筑摩書房〈ちくま学芸文庫、2001年
* 『ゴシック建築とスコラ哲学』 [[前川道郎]]訳、[[平凡社]]〈ヴァールブルクコレクション〉、1987年/ちくま学芸文庫、2001年
* 『土星とメランコリー』 [[田中英道]]監訳、[[晶文社]]、1991年。フリッツ・ザクスル/レイモンド・クリバンスキーとの共著
* 『土星とメランコリー』 フリッツ・ザクスル/レイモンド・クリバンスキーとの共著
*:[[晶文社]]、1991年。[[田中英道]]監訳/榎本武文・加藤雅之・[[尾崎彰宏]]訳
* 『〈象徴形式〉としての遠近法』 [[木田元]]監訳、哲学書房、1993年 新装版2003年/筑摩書房〈ちくま学芸文庫、2009年
* 『〈象徴形式〉としての遠近法』 [[木田元]]監訳、川戸れい子・上村清雄訳、[[中野幹隆|哲学書房]]、1993年新装普及版2003年/ちくま学芸文庫、2009年
* 『芸術学の根本問題』 細井雄介訳、[[中央公論美術出版]]、1994年
* 『彫刻 — 死にたち向かった精神の様態』 [[若桑みどり]]訳、哲学書房1996
* 『芸術学根本問題』 [[細井雄介]]訳、[[中央公論美術出版]]1994
* 『墓の彫刻 — 死にたち向かった精神の様態』 [[若桑みどり]]監訳、[[中野幹隆|哲学書房]]、1996年
* 『初期ネーデルラント絵画 — その起源と性格』 勝國興ほか訳、中央公論美術出版、2001年
* 『初期ネーデルラント絵画 — その起源と性格』 勝國興ほか訳、中央公論美術出版、2001年
* 『パンドラの箱神話の一象徴の変貌』 ドラ・パノフスキーと共著、阿天坊耀ほか訳、美術出版社、1975年
* 『パンドラの箱 神話の一象徴の変貌』 ドラ・パノフスキーと共著、阿天坊耀・塚田孝雄・福部信敏訳、美術出版社、1975年
** 『パンドラの函変貌する一神話的象徴をめぐって』 [[尾崎彰宏]]ほか訳、[[法政大学出版局]]・叢書ウニベルシタス、2002年
**『パンドラの函 変貌する一神話的象徴をめぐって』 [[尾崎彰宏]]ほか訳、[[法政大学出版局]]・叢書ウニベルシタス、2002年
* 『[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]の諸問題純粋絵画とイコノロジーへの眺望』 織田春樹訳、言叢社、2005年
* 『[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]の諸問題 純粋絵画とイコノロジーへの眺望』 織田春樹訳、[[言叢社]]、2005年

== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book
| last = Holly
| first = Michael A.
| authorlink = :en:Michael Ann Holly
| title = Panofsky and the Foundations of Art History
| publisher = Cornell UP
| date = 1984
| isbn = 978-0801416149
| ref = harv}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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*[[美術史]]
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美術史家のウィリアム・ヘクシャー(右)と(1950年代)

エルヴィン・パノフスキーErwin Panofsky, 1892年3月30日 - 1968年3月14日)はドイツ出身の美術史家。英語読みでアーウィン・パノフスキーとする表記もある。

人物

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アルブレヒト・デューラーを中心とする北方ルネサンス研究で知られる。パノフスキーが、理論化をすすめたイコノロジー(図像解釈学)は、20世紀の美術史学で、「様式論」と並ぶ最も重要な方法論[1]となった。

1892年にドイツ北部のハノーファーに生まれ、ミュンヘンベルリンで学んだあと、イタリア・ルネサンス絵画とデューラーの関係を扱った論文でフライブルク大学から哲学博士号を取得(1914年)。1926年、新設されたハンブルク大学で美術史の正教授に就任。このとき同大学の哲学教授だったエルンスト・カッシーラーと深く交流したほか、美術史家アビ・ヴァールブルクの知遇を得た[1]。ドイツ時代の重要な研究には、『デューラーのメランコリアI 起源と類型の一史的考察』(F・ザクスルとの共著、1923年)や『イデア』(1924年)、『象徴形式としての遠近法』(1927年)、などがある[注釈 1]

1931年ニューヨーク大学の客員教授として初めてアメリカ合衆国に渡り、以後数年間、ドイツとアメリカを往復する生活が続いたあと、1933年ナチスによるユダヤ人公職追放を機にアメリカに永住する。翌1934年にはプリンストン高等研究所教授に迎えられた。1962年に同所を退くまで様々な主題で著作を残し、1968年、プリンストンで没する[1]

アメリカ時代の代表的な著作には、その後の美術史学を長く決定づけるマニフェストとなった『イコノロジー研究』(1939年)を筆頭に、デューラー研究の集大成となった『アルブレヒト・デューラー』(1943年)、『ゴシック建築とスコラ哲学』(1951年)、『初期ネーデルラント絵画』(1953年)、『墓の彫刻 古代エジプトからベルニーニに至る変遷』(1964年)と、その研究主題は広範囲に及んだ[1]

音楽評論家のヴァルター・パノフスキーはとこ[2]、息子のヴォルフガング・パノフスキーは素粒子物理学を専門とする物理学者。

ブルデューへの影響

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フランスの社会学者ピエール・ブルデューが『芸術の規則』や『ディスタンクシオン』などの著作で展開した趣味論に大きな影響を与えた。特にブルデューは、パノフスキーの『ゴシック建築とスコラ学』からハビトゥスの概念を初めて採用したが[3][4]、それに先んじてこの作品を仏訳し、長文の「あとがき」を付している[5]。なお、ブルデューが翻訳を行ったのはパノフスキーのみである[6]

著作(日本語訳)

[編集]
  • 『イコノロジー研究 ルネサンス美術における人文主義の諸テーマ』 浅野徹・阿天坊耀・塚田孝雄福部信敏訳 
    美術出版社、1971年、新版1987年/筑摩書房ちくま学芸文庫〉(上下)、2002年
  • 『視覚芸術の意味』 中森義宗・内藤秀雄・清水忠訳、岩崎美術社〈美術名著選書〉、1971年、新版1981年
  • 『ルネサンスの春』 中森義宗・清水忠訳、思索社、1973年、新版1984年、新思索社(新装版)、2006年
  • 『イデア』 中森義宗・野田保之・佐藤三郎訳、思索社、1982年
  • 『アルブレヒト・デューラー 生涯と芸術』 中森義宗・清水忠訳、日貿出版社、1984年
  • 『ゴシック建築とスコラ哲学』 前川道郎訳、平凡社〈ヴァールブルクコレクション〉、1987年/ちくま学芸文庫、2001年
  • 『土星とメランコリー』 フリッツ・ザクスル/レイモンド・クリバンスキーとの共著
    晶文社、1991年。田中英道監訳/榎本武文・加藤雅之・尾崎彰宏
  • 『〈象徴形式〉としての遠近法』 木田元監訳、川戸れい子・上村清雄訳、哲学書房、1993年、新装普及版2003年/ちくま学芸文庫、2009年
  • 『芸術学の根本問題』 細井雄介訳、中央公論美術出版、1994年
  • 『墓の彫刻 — 死にたち向かった精神の様態』 若桑みどり監訳、哲学書房、1996年
  • 『初期ネーデルラント絵画 — その起源と性格』 勝國興ほか訳、中央公論美術出版、2001年
  • 『パンドラの箱 神話の一象徴の変貌』 ドラ・パノフスキーと共著、阿天坊耀・塚田孝雄・福部信敏訳、美術出版社、1975年
  • ティツィアーノの諸問題 純粋絵画とイコノロジーへの眺望』 織田春樹訳、言叢社、2005年

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 主要著作の刊行年については『イコノロジー研究』ちくま学芸文庫版の「解題」を参照。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d Holly 1984.
  2. ^ Deutsche Biographie:walter panofsky 2024年12月1日閲覧。
  3. ^ Chartier, Roger. Cultural History, pp. 23–24 (from "Intellectual History and the History of Mentalités"). Ithaca: Cornell University Press, 1988
  4. ^ Review Archived April 9, 2009, at the Wayback Machine. of Holsinger, The Premodern Condition, in Bryn Mawr Review of Comparative Literature 6:1 (Winter 2007).
  5. ^ Bourdieu, Pierre. 'Postface' in Panofsky, Erwin. Architecture gothique et pensée scolastique, Minuit, 1967(ピエール・ブルデュー「生成文法としてのハビトゥス」三好信子訳、『actes』No.2、日本エディタースクール出版部)
  6. ^ 三浦直子ブルデューのパノフスキー受容と社会学的展開 : 美術史研究を反省的社会学に継承する「手法」」『法學研究』第90巻、第1号、慶應義塾大学法学研究会、2017年。

参考文献

[編集]
  • Holly, Michael A. (1984). Panofsky and the Foundations of Art History. Cornell UP. ISBN 978-0801416149 

関連項目

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