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[[File:Presidium of the 9th Congress of the Russian Communist Party (Bolsheviks).jpg|thumb|280 px|ボリシェヴィキの第9回党大会における常任幹部会の顔触れ([[1920年]])<br />着席の人物は左端から[[:en:Avel Enukidze|エヌキーゼ]]、[[ミハイル・カリーニン|カリーニン]]、[[ニコライ・ブハーリン|ブハーリン]]、[[ミハイル・トムスキー|トムスキー]]、[[:en:Mikhail Lashevich|ラシェヴィチ]]、[[レフ・カーメネフ|カーメネフ]]、[[エフゲニー・プレオブラジェンスキー|プレオブラジェンスキー]]、[[:en:Leonid Serebryakov|セレブリャコフ]]、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]、[[アレクセイ・ルイコフ|ルイコフ]]]] |
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'''ボリシェヴィキ'''({{翻字併記|ru|большевики́|bol'sheviki|n|区=、}}、「多数派」の意)は、[[ロシア社会民主労働党]]が分裂して形成された、[[ウラジーミル・レーニン]]が率いた[[左翼|左派]]の一派。[[1917年]]に起きた[[市民革命|民主革命]]である[[2月革命 (1917年)|二月革命]]後は[[共産主義革命|社会主義革命]]と[[プロレタリア独裁]]を主張した。[[1917年]]10月(旧暦)には武装蜂起に成功し([[十月革命]])、[[ロシア臨時政府]]を転覆して[[ソビエト|ソヴィエト]]政権を樹立した。{{仮リンク|1917年ロシア憲法制定議会選挙|en|Russian Constituent Assembly election, 1917|label=憲法制定議会の選挙}}で[[社会革命党]]が議会第一党に選ばれると、第二党の立場で政策遂行の妨害を理由に国会解散させた。その後、国内でプロレタリア独裁体制を確立した<ref>{{Cite web|和書|title=ボリシェヴィキとは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AD-2129553 |website=コトバンク |accessdate=2022-02-01 |language=ja |first=旺文社世界史事典 |last=三訂版}}</ref>。[[1918年]]に党名をロシア社会民主労働党から「ロシア共産党(ボリシェヴィキ)」と改め、さらに[[1925年]]には「全連邦共産党(ボリシェヴィキ)」、[[1952年]]には「[[ソビエト連邦共産党]]」と改称を繰り返した<ref>[[下斗米伸夫]]『図説 ソ連の歴史』[[河出書房新社]]、2011年, p. 20</ref>。 |
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[[1917年]]の[[十月革命]]以前から活動していた者は特に[[オールド・ボリシェヴィキ]]と呼ばれる。ボリシェヴィキは[[メンシェヴィキ]]や[[社会革命党]]に比べ少数派であったが、人事と要職を握ったので「多数派」を名乗った。[[暴力革命]]を主張し、徹底した[[中央集権]]による組織統制が特徴である。その特徴は、そのまま後身である[[ソビエト連邦共産党]]へと引き継がれた。 |
[[1917年]]の[[十月革命]]以前から活動していた者は特に[[オールド・ボリシェヴィキ]]と呼ばれる。ボリシェヴィキは[[メンシェヴィキ]]や[[社会革命党]]に比べ少数派であったが、人事と要職を握ったので「多数派」を名乗った。[[暴力革命]]を主張し、徹底した[[中央集権]]による組織統制が特徴である。その特徴は、そのまま後身である[[ソビエト連邦共産党]]へと引き継がれた。 |
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なお[[ドイツ]]ではボルシェヴィズムス({{De|Bolschewismus}})は第一義的に[[ロシア]]の[[共産主義|共産主義者]]を指し、[[ドイツ帝国|帝政ドイツ]]から[[ナチス・ドイツ|ナチス]]時代には、ドイツの[[社会民主主義]]よりさらに急進的な過激派という意味でも用いられた<ref>現代独和辞典 三修社</ref>。 |
なお[[ドイツ]]ではボルシェヴィズムス({{De|Bolschewismus}})は第一義的に[[ロシア]]の[[共産主義|共産主義者]]を指し、[[ドイツ帝国|帝政ドイツ]]から[[ナチス・ドイツ|ナチス]]時代には、ドイツの[[社会民主主義]]よりさらに急進的な「[[過激派]]」という意味でも用いられた<ref>現代独和辞典 三修社</ref>。 |
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ロシア革命時には「[[パン]]・土地・[[平和]]」を[[スローガン]]として掲げた。平和を求める大衆の意見を尊重すべきとのトロツキーの意見が反映されている。 |
ロシア革命時には「[[パン]]・土地・[[平和]]」を[[スローガン]]として掲げた。平和を求める大衆の意見を尊重すべきとのトロツキーの意見が反映されている。 |
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ボリシェヴィキはAmerican International Corporationから財政支援を受けていた。同社は1915年、Frank A. Vanderlipを会長としてニューヨークに設立された。[[出資|出資者]]は[[ジョン・モルガン]]、[[ロックフェラー]]、[[ジェームズ・スティルマン]]。1917年の役員はPierre S. du Pont、Percy Avery Rockefeller、Albert H. Wiggin、Beekman Winthrop、そしてEmpire Trust CompanyのMatthew C. Brushであった。 |
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== 思想 == |
== 思想 == |
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ボリシェヴィキの思想的 |
ボリシェヴィキの思想的、政治的立場は'''ボリシェビズム'''('''ボリシェヴィズム''')<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%93%E3%82%BA%E3%83%A0-631535#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 デジタル大辞泉] [[コトバンク]]. 2018年9月15日閲覧。</ref>、または'''ボルシェビズム'''('''ボルシェヴィズム''')と呼ばれ<ref name="Britannica">[https://kotobank.jp/word/%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%93%E3%82%BA%E3%83%A0-134519#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典] [[コトバンク]]. 2018年9月15日閲覧。</ref><ref name="daijirin">[https://kotobank.jp/word/%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%93%E3%82%BA%E3%83%A0-134519#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 大辞林 第三版] [[コトバンク]]. 2018年9月15日閲覧。</ref>、正確には異なるものであるが、広義においては共産主義や[[マルクス主義]]、[[レーニン主義]]と同義として扱われることがある<ref name="Britannica"/><ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9-151834#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 世界大百科事典 第2版] [[コトバンク]]. 2018年9月15日閲覧。</ref>。 |
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もともとはロシア社会民主労働党左派の思想で、[[ドイツ社会民主党]]のような大衆政党を目指していたメンシェヴィキに対し、組織原則として少数精鋭主義的な[[職業革命家]]を中心とする[[中央集権]]型[[前衛党]]の指導のもとでの革命的な闘争によって[[プロレタリア独裁]]を目指し、[[労農同盟]]を打ち出してマルクス主義をロシアに適用させようとした<ref name="Britannica"/><ref name="daijirin"/>。また、メンシェヴィキがロシアの革命は[[市民革命|ブルジョア革命]]であるとしたのに対して、ボリシェヴィキはブルジョア革命から[[プロレタリア革命]]への連続転化の理論を主張、[[ソビエト連邦]]に指導されるボリシェヴィズムは[[コミンテルン]]を中心にロシア型の運動論、組織論を展開する<ref name="Britannica"/>。 |
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== その他の用法 == |
== その他の用法 == |
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なお、日本では、ロシア革命時に主導権を握ったレーニンらのボリシェヴィキを[[過激派]]と和訳した。 |
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学生運動 |
[[日本の学生運動|学生運動]]において、自らをボルシェヴィキと称した者がいた。 |
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== "Bolshevik"の蔑称としての使用 == |
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2024年8月25日 (日) 12:27時点における最新版
ボリシェヴィキ(ロシア語: большевики́、bol'sheviki、「多数派」の意)は、ロシア社会民主労働党が分裂して形成された、ウラジーミル・レーニンが率いた左派の一派。1917年に起きた民主革命である二月革命後は社会主義革命とプロレタリア独裁を主張した。1917年10月(旧暦)には武装蜂起に成功し(十月革命)、ロシア臨時政府を転覆してソヴィエト政権を樹立した。憲法制定議会の選挙で社会革命党が議会第一党に選ばれると、第二党の立場で政策遂行の妨害を理由に国会解散させた。その後、国内でプロレタリア独裁体制を確立した[1]。1918年に党名をロシア社会民主労働党から「ロシア共産党(ボリシェヴィキ)」と改め、さらに1925年には「全連邦共産党(ボリシェヴィキ)」、1952年には「ソビエト連邦共産党」と改称を繰り返した[2]。
ボリシェビキ、ボルシェヴィキ、ボルシェビキとも呼称され、第二次世界大戦前の日本国内における刊行物等の資料では、ボルシエヴィキー、ボルシエヴィキなどの表記が用いられている。単数形はボリシェヴィク(большеви́к)。
概説
[編集]1917年の十月革命以前から活動していた者は特にオールド・ボリシェヴィキと呼ばれる。ボリシェヴィキはメンシェヴィキや社会革命党に比べ少数派であったが、人事と要職を握ったので「多数派」を名乗った。暴力革命を主張し、徹底した中央集権による組織統制が特徴である。その特徴は、そのまま後身であるソビエト連邦共産党へと引き継がれた。
なおドイツではボルシェヴィズムス(Bolschewismus)は第一義的にロシアの共産主義者を指し、帝政ドイツからナチス時代には、ドイツの社会民主主義よりさらに急進的な「過激派」という意味でも用いられた[3]。
ロシア革命時には「パン・土地・平和」をスローガンとして掲げた。平和を求める大衆の意見を尊重すべきとのトロツキーの意見が反映されている。
思想
[編集]ボリシェヴィキの思想的、政治的立場はボリシェビズム(ボリシェヴィズム)[4]、またはボルシェビズム(ボルシェヴィズム)と呼ばれ[5][6]、正確には異なるものであるが、広義においては共産主義やマルクス主義、レーニン主義と同義として扱われることがある[5][7]。
もともとはロシア社会民主労働党左派の思想で、ドイツ社会民主党のような大衆政党を目指していたメンシェヴィキに対し、組織原則として少数精鋭主義的な職業革命家を中心とする中央集権型前衛党の指導のもとでの革命的な闘争によってプロレタリア独裁を目指し、労農同盟を打ち出してマルクス主義をロシアに適用させようとした[5][6]。また、メンシェヴィキがロシアの革命はブルジョア革命であるとしたのに対して、ボリシェヴィキはブルジョア革命からプロレタリア革命への連続転化の理論を主張、ソビエト連邦に指導されるボリシェヴィズムはコミンテルンを中心にロシア型の運動論、組織論を展開する[5]。
遡って見た場合、ボリシェヴィキの思想的位置付けは、1860年代にロシアで活動したインテリゲンツィアの傾向である、唯物論的、功利主義的、実証主義的思考を基礎とした実践重視の価値観を源流に持つとされる[8]。
その他の用法
[編集]なお、日本では、ロシア革命時に主導権を握ったレーニンらのボリシェヴィキを過激派と和訳した。
学生運動において、自らをボルシェヴィキと称した者がいた。
"Bolshevik"の蔑称としての使用
[編集]「ボーロ」という言葉は、ロシア内戦中の赤軍に対抗して介入した北ロシア遠征部隊のイギリス軍人によって、ボリシェヴィキを指す蔑称として使われた[9]。アドルフ・ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルスなどのナチスの指導者たちも、コミンテルンによって調整された世界的な政治運動を指す際にこの言葉を使っていた[10]。
冷戦中のイギリスでは、労働組合指導者や他の左派の人々が時折、バルシー(Bolshie)と揶揄されることがあった。この使用法は、アメリカ合衆国における「コミー」、「レッド」、「ピンコ」に相当する。後に、「バルシー」の用語は、反抗的で攻撃的または乱暴な人々を指す俗語としても使われるようになった[11]。
脚注
[編集]- ^ 三訂版, 旺文社世界史事典. “ボリシェヴィキとは”. コトバンク. 2022年2月1日閲覧。
- ^ 下斗米伸夫『図説 ソ連の歴史』河出書房新社、2011年, p. 20
- ^ 現代独和辞典 三修社
- ^ デジタル大辞泉 コトバンク. 2018年9月15日閲覧。
- ^ a b c d ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク. 2018年9月15日閲覧。
- ^ a b 大辞林 第三版 コトバンク. 2018年9月15日閲覧。
- ^ 世界大百科事典 第2版 コトバンク. 2018年9月15日閲覧。
- ^ 松原広志 著「2章4」、藤本和貴夫 松原広志 編『ロシア近現代史 ピョートル大帝から現代まで』ミネルヴァ書房、1999年、121頁。ISBN 9784623027477。
- ^ “North Russian Expeditionary Force 1919, Scrapbook Diary, Photographs, Mementoes”, Naval History 14 June 2012閲覧。.
- ^ Collins Mini Dictionary, 1998.
- ^ “bolshie”. The free dictionary. 2014年3月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月27日閲覧。