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'''山本 権八'''(やまもと ごんぱち)[[江戸時代]]後期~[[幕末]]の[[会津藩]]士。親子(正確には養父子)2代にわたり権八を名乗った。ここでは両名について記述
'''山本 権八'''(やまもと ごんぱち、[[文化 (元号)|文化]]6年([[1809年]] - [[明治]]元年[[9月17日 (旧暦)|9月17日]]([[1868年]][[11月1日]]))は、[[幕末]]の[[会津藩]]士。


山本家は「日新館志」によれば[[安土桃山時代]]の茶人・[[山本道句]]の子孫である。道句の孫・道珍良次が[[保科正之]]に茶道指南として仕え、権八の家はその分家(10人扶持)として会津藩に仕えていた。本家も150石として幕末まで会津藩に仕えてい<ref>好川25-29p</ref>。
山本家は「日新館志」によれば[[安土桃山時代]]の茶人・[[山本道句]]の子孫である。道句の孫・道珍良次が[[保科正之]]に茶道指南として仕え、幕末まで会津藩に仕えて150石を与えられてい<ref>好川 25-29p</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://doshisha.repo.nii.ac.jp/record/22050/files/025000300009.pdf |title=山本八重子と会津の精神風土(平成21年12月12日)、190頁 |accessdate=2022-3-15 |publisher=[[同志社大学]] |author=野口信一 |format=PDF}}</ref>。権八の家はその分家(最終的な禄高は22石4人扶持<ref name=":0" />)である


== 初代権八良高 ==
== 父・権八良高 ==
山本権八(1779ごろ~1844)、諱良高。会津藩士三宅家から養子に入1808(文化5)年に[[利尻島]]警備に従事し、これがきっかけで長銃を研究、1842(天保13)年には[[江戸]]で[[砲術家]]の[[市川熊雄]]から[[臼砲]]の製造法を学び、会津に伝えた。これらの働きで、山本家は幕末に砲術家として活躍することとなる<ref>好川21-24p</ref>。
山本権八の父、良高(1779ごろ - 1844ごろ)会津藩士三宅家から山本家に養子に入り、権八を名乗った良高は[[諱]]。1808年(文化5に[[利尻島]]警備に従事し、これがきっかけで長銃を研究、さら1842年(天保13には[[江戸]]で[[砲術家]]の[[市川熊雄]]から[[臼砲]]の製造法を学び、会津に伝えた。これらの働きで、山本家は幕末に砲術家として活躍することとなる<ref>好川 21-24p</ref>。


== 代権八 ==
== 2権八 ==
[[文化 (元号)|文化]]6年([[1809年]]) - [[明治]]元年[[9月17日 (旧暦)|9月17日]]([[1868年]][[11月1日]]))は、[[江戸時代]]末期[[会津藩]]士。会津藩士山本家(分家)の6代目当主。自身の[[諱]]は未詳。初名・繁之助<ref>好川22p</ref>。
2代目山本権八は、権八良高養子として山本家に入る。自身の[[諱]]は未詳。初名・繁之助<ref>好川 22p</ref>。


会津藩士・永岡家(150石)の生まれだが、[[文政]]9年([[1826年]])に同藩士であり[[若松城|鶴ヶ城]]下で近所に屋敷を持っていた山本良高権八の娘・[[山本佐久|佐久]]の婿となった。後に良高の跡を襲う。佐久との間には三男三女があったが、長じたのは長男・[[山本覚馬|覚馬]]、長女・窪田氏妻、三女・[[新島八重|八重]]、三男・[[山本三郎|三郎]]がいる。
もともと会津藩士・永岡家(150石)の生まれだが、[[文政]]9年([[1826年]])に同藩士であり[[若松城|鶴ヶ城]]下で近所に屋敷を持っていた良高権八の娘・[[山本佐久|佐久]]の婿となった。後に良高の跡を襲う。佐久との間には三男三女があったが、長じたのは長男・[[山本覚馬|覚馬]]、長女・うら、三女・[[新島八重|八重]]、三男・[[山本三郎 (会津藩士)|三郎]]である。


上級藩士が屋敷を連ねる鶴ヶ城下の郭内米代四之丁に屋敷を持つ<ref>隣家には伊東家(130石、[[白虎隊]]士・[[伊東悌次郎]]の生家)と水島家(150石、[[斗南藩]]庶務掛・[[水島弁治]]の生家)が、裏手には高木家(300石、[[斎藤一]]の後妻・[[高木時尾]]の生家)や日向家(400石、[[内藤兼備]]の妻・[[内藤ユキ|日向ユキ]]の生家)などがあった。また権八の生家である永岡家も斜向かいにあった。</ref>。藩主・[[松平容保]]が[[京都守護職]]として在京をもっぱらとすると、[[元治]]元年([[1864年]])に権八も上京し、その執務に参加した。同年7月に起きた[[禁門の変]]に際しては[[生駒直道]]の組下に配属され、御所内の凝華洞詰めとして出動する。主に弾丸の補填などに働き、戦後は褒賞として銀子15枚が下賜された。[[慶応]]4年([[1868年]])の[[会津戦争]]においては[[玄武隊|玄武士中隊]]に所属して新政府軍と交戦する。しかし改元後の明治元年9月17日に、一ノ堰の戦闘において討ち死にした。享年60。
上級藩士が屋敷を連ねる鶴ヶ城下の郭内米代四之丁に屋敷を持つ<ref>隣家には伊東家(130石、[[白虎隊]]士・[[伊東悌次郎]]の生家)と水島家(150石、[[斗南藩]]庶務掛・[[水島弁治]]の生家)が、裏手には高木家(300石、[[斎藤一]]の後妻・[[高木時尾]]の生家)や日向家(400石、[[内藤兼備]]の妻・[[内藤ユキ|日向ユキ]]の生家)などがあった。また権八の生家である永岡家も斜向かいにあった。</ref>。藩主・[[松平容保]]が[[京都守護職]]として在京をもっぱらとすると、[[元治]]元年([[1864年]])に権八も上京し、その執務に参加した。同年7月に起きた[[禁門の変]]に際しては[[生駒直道]]の組下に配属され、[[御所]]内の凝華洞詰めとして出動する。主に弾丸の補填などに働き、戦後は褒賞として銀子15枚が下賜された。[[慶応]]4年([[1868年]])の[[会津戦争]]においては[[玄武隊|玄武士中隊]]に所属して新政府軍と交戦する。しかし改元後の明治元年9月17日に、一ノ堰の戦闘において討ち死にした。享年60。


墓所は[[福島県]][[会津若松市]]門田町の[[光明寺 (会津若松市)|光明寺]]にあるほか、後に三女・八重が嫁いだ[[新島襄]]の創始した[[学校法人同志社|同志社]]の墓地にも存在する。
墓所は[[福島県]][[会津若松市]]門田町の[[光明寺 (会津若松市)|光明寺]]にあるほか、後に三女・八重が嫁いだ[[新島襄]]の創始した[[学校法人同志社|同志社]]の墓地にも存在する。


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2代目権八の実家、永岡家からは[[永岡久茂]]([[思案橋事件]]首謀者)が出ている<ref>好川 25p</ref>。


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2024年7月23日 (火) 14:38時点における最新版

山本 権八(やまもと ごんぱち、文化6年(1809年) - 明治元年9月17日1868年11月1日))は、幕末会津藩士。

山本家は「日新館志」によれば安土桃山時代の茶人・山本道句の子孫である。道句の孫・道珍良次が保科正之に茶道指南として仕え、幕末まで会津藩に仕えて150石を与えられていた[1][2]。権八の家はその分家(最終的な禄高は22石4人扶持[2])である。

父・権八良高

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山本権八の父、良高(1779ごろ - 1844ごろ)は、会津藩士三宅家から山本家に養子に入り、権八を名乗った。良高は。1808年(文化5年)に利尻島警備に従事し、これがきっかけで長銃を研究、さらに1842年(天保13年)には江戸砲術家市川熊雄から臼砲の製造法を学び、会津に伝えた。これらの働きで、山本家は幕末に砲術家として活躍することとなる[3]

2代目権八

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2代目山本権八は、権八良高の養子として山本家に入る。自身のは未詳。初名・繁之助[4]

もともと会津藩士・永岡家(150石)の生まれだが、文政9年(1826年)に同藩士であり鶴ヶ城下で近所に屋敷を持っていた良高権八の娘・佐久の婿となった。後に良高の跡を襲う。佐久との間には三男三女があったが、長じたのは長男・覚馬、長女・うら、三女・八重、三男・三郎である。

上級藩士が屋敷を連ねる鶴ヶ城下の郭内、米代四之丁に屋敷を持つ[5]。藩主・松平容保京都守護職として在京をもっぱらとすると、元治元年(1864年)に権八も上京し、その執務に参加した。同年7月に起きた禁門の変に際しては生駒直道の組下に配属され、御所内の凝華洞詰めとして出動する。主に弾丸の補填などに働き、戦後は褒賞として銀子15枚が下賜された。慶応4年(1868年)の会津戦争においては玄武士中隊に所属して新政府軍と交戦する。しかし改元後の明治元年9月17日に、一ノ堰の戦闘において討ち死にした。享年60。

墓所は福島県会津若松市門田町の光明寺にあるほか、後に三女・八重が嫁いだ新島襄の創始した同志社の墓地にも存在する。

2代目権八の実家、永岡家からは永岡久茂思案橋事件首謀者)が出ている[6]

登場作品

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注釈

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  1. ^ 好川 25-29p
  2. ^ a b 野口信一. “山本八重子と会津の精神風土(平成21年12月12日)、190頁” (PDF). 同志社大学. 2022年3月15日閲覧。
  3. ^ 好川 21-24p
  4. ^ 好川 22p
  5. ^ 隣家には伊東家(130石、白虎隊士・伊東悌次郎の生家)と水島家(150石、斗南藩庶務掛・水島弁治の生家)が、裏手には高木家(300石、斎藤一の後妻・高木時尾の生家)や日向家(400石、内藤兼備の妻・日向ユキの生家)などがあった。また権八の生家である永岡家も斜向かいにあった。
  6. ^ 好川 25p

参考文献

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  • 古今堂書店古典部 編『会津藩士人名辞典』古今堂書店、1933年
  • 芳賀幸雄『要略 会津藩諸士系譜』歴史春秋出版、2001年
  • 好川之範『幕末のジャンヌ・ダルク 新島八重』新人物往来社、2012年