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「七日市藩」の版間の差分

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'''七日市藩'''(なのかいちはん)は、[[上野国]][[甘楽郡]](現在の[[群馬県]][[富岡市]]七日市)に存在した[[藩]]。藩庁は[[七日市陣屋]](現在跡地は[[群馬立富岡高等学校]]となっている)。遺構して正面玄関付近1棟、門1棟現地現存する以下すべて個人宅に移築されている。手門(下仁田町)、裏門(富岡市七日市)、伝承南門(富岡市内)であ
'''七日市藩'''(なのかいちはん)は、[[上野国]][[甘楽郡]]七日市(現在の[[群馬県]][[富岡市]]七日市)を居所とした[[藩]]。藩庁は[[七日市陣屋]]に置かれた。1616年に[[前田利家]]の五男・[[前田利孝]]が1万石余で入封し以来[[前田氏|前田家]]が12代250年あまり続いて廃藩置を迎えた<ref name="nipponica_1383212"/>。[[加賀藩]]前田家一族の[[外様大名]]ではあるが、[[徳川秀忠]]の小姓を務めていた利孝が大坂の陣の武功により新知を受けるという[[譜代大名]]的な成り立ちを持つ{{sfn|金沢市立玉川図書館|2019|p=1}}。江戸時代期以降{{efn|明和4年(1767年)に[[小幡藩]]織田家転出し、譜代の奥平家交替}}上野国で唯一の外様であった


== 史 ==
== 史 ==
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七日市藩の[[藩祖]]は、[[加賀藩]]祖[[前田利家]]の五男の[[前田利孝|利孝]]である。利孝は利家の死後、異母兄の[[前田利長|利長]]が[[徳川家康]]と[[本多正信]]の主従の画策で「幻の家康暗殺事件」の疑惑をかけられた際、利長の生母の[[芳春院]](まつ)と共に人質として[[江戸]]で幼年期を過ごした。[[大坂の陣]]で利孝は徳川方として参戦して武功を挙げたことから、[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])12月26日、七日市に1万石(寛文4年の調査では12036石、貞享元年の調査では13135石)の所領を与えた。これが七日市藩の立藩である。小藩であったため、また[[天保の大飢饉]]などの天災も相次いだため、本家である加賀藩の財政的援助を受けてようやく存続するというような状況であった。歴代藩主の多くは[[駿府城]]・[[大坂城]]の守備役を務めている。
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七日市藩の初代藩主は、[[加賀藩]]祖[[前田利家]]の五男の[[前田利孝|利孝]]である。

利孝は慶長9年(1604年)より[[江戸]]で[[芳春院]]([[前田利家]]正室・まつ)に養育された{{sfn|金沢市立玉川図書館|2019|p=1}}{{efn|利孝の生母は側室の明運尼(明運院。父は[[加賀一向一揆]]の指導者の一人で石浦に拠った[[山本家芸]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E9%81%8B%E5%B0%BC-1114017|title=明運尼|work=デジタル版 日本人名大辞典+Plus|accessdate=2022年10月}}</ref>)で、慶安元年(1648年)に七日市で没している{{sfn|ふるさと歴史ウォーク 富岡・七日市コース|2017|p=9}}。}}。徳川秀忠に小姓として仕え、[[大坂の陣]]で利孝は徳川家の旗本として参戦して武功を挙げたことから、[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])12月26日、七日市に1万石余{{efn|{{要出典範囲|寛文4年の調査では12036石、貞享元年の調査では13135石|date=2022年10月}}。}}の所領を与えた{{sfn|金沢市立玉川図書館|2019|p=1}}。これが七日市藩の立藩である。兄たちが立てた[[富山藩]]([[前田利次]])や[[大聖寺藩]]([[前田利治]])とは異なり、加賀藩前田家からの分知ではなく幕府からの新知である。

小藩であったため、また[[天保の大飢饉]]などの天災も相次いだため、本家である加賀藩の財政的援助を受けてようやく存続するというような状況であった{{sfn|金沢市立玉川図書館|2019|p=1}}。歴代藩主の多くは[[駿府城]]・[[大坂城]]の守備役を務めている。


第11代藩主・[[前田利豁|利豁]]の代である[[天保]]13年([[1842年]])、[[藩校]]・[[成器館]]が創設された。しかしこの頃には七日市藩邸が焼失するなど、治世は多難を極めた。
第11代藩主・[[前田利豁|利豁]]の代である[[天保]]13年([[1842年]])、[[藩校]]・[[成器館]]が創設された。しかしこの頃には七日市藩邸が焼失するなど、治世は多難を極めた。
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== 陣屋と陣屋町 ==
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七日市の陣屋町は、前田家の入部間もない時期に整備されたとされる{{sfn|中島義一|1962|p=13}}。東西に走る[[中山道]]脇往還([[下仁田街道]])を中心に{{sfn|中島義一|1962|p=12}}、西から陣屋・武家屋敷・町屋が計画的に配置された{{sfn|中島義一|1962|p=11}}。武家屋敷と町屋の間には石垣が設けられて両者は明確に区別された{{sfn|中島義一|1962|p=12}}。土地の計測でも町屋では[[曲尺]]を、武家屋敷では[[鯨尺]]を使っていたという{{sfn|中島義一|1962|p=12}}。東隣は富岡町(旗本領{{sfn|中島義一|1962|p=7}})で、境界には「一ノ木戸」が設けられた{{sfn|中島義一|1962|p=12}}{{sfn|ふるさと歴史ウォーク 富岡・七日市コース|2017|p=3}}。

町場は5つの町からなり、街路も広くとられ{{sfn|中島義一|1962|p=12}}、「七日市」の名にふさわしい市場町としての繁栄が企図とされたとされる{{sfn|中島義一|1962|pp=12-13}}。しかし、東隣の富岡町(下仁田街道[[富岡宿]])が商業中心地であったために七日市の商家は少数にとどまり{{sfn|中島義一|1962|p=12}}、農家の並ぶ「非都市的集落{{sfn|中島義一|1962|p=7}}」になった{{sfn|中島義一|1962|p=13}}。1874年(明治7年)時点で七日市には260戸があり、職業の記載がある中では商業2戸・工業7戸に対し農業175戸であった(なお、士族が61戸あった){{sfn|中島義一|1962|pp=6-7}}。1889年(明治22年)に七日市村は富岡町などと合併し、町村制に基づく富岡町を発足させている。

== 政治 ==
=== 家臣団 ===
弘化5年(1848年)の分限帳によれば士分は54家である{{sfn|中島義一|1962|p=6}}。知行取はそのうち8家で、200石取りの1家を筆頭に、150石取り3家、80石取り1家、70石取り3家が続く{{sfn|中島義一|1962|p=6}}。ほかの46家は扶持取であり{{sfn|中島義一|1962|p=6}}、その下に足軽などがいた{{sfn|中島義一|1962|p=6}}。家老職は保坂家が勤め、北保坂家・南保坂家と呼ばれた{{sfn|ふるさと歴史ウォーク 富岡・七日市コース|2017|p=3}}。


== 幕末の領地 ==
== 幕末の領地 ==
* [[上野国]]
* [[上野国]]
** [[甘楽郡]]のうち - 21村
** [[甘楽郡]]のうち - 21村

== 備考 ==
*七日市藩主家から加賀藩の上級藩士(人持組)となる事例もあった。前田利孝の三男・前田寄孝は「前田大膳家」、前田利意の子・前田誠明(のぶあきら)は「前田兵部家」、同じく利意の子・前田孝效(たかのり)は「前田式部家」を興した{{sfn|金沢市立玉川図書館|2019|p=1}}。

== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
*{{citation|和書|author=中島義一|authorlink=中島義一 (地理学者)|title=一万石大名の城下町 (第1報)|journal=新地理|publisher=日本地理教育学会|volume=10|issue=2|year=1962 |doi=10.5996/newgeo.10.2_1|ref=harv}}
*{{citation|和書|url=https://www.city.tomioka.lg.jp/www/contents/1000000000983/files/29shiori.pdf|title=ふるさと歴史ウォーク 富岡・七日市コース|work=[https://www.city.tomioka.lg.jp/www/contents/1000000000983/index.html ふるさと歴史ウォーク]|publisher=富岡市教育委員会文化財保護課|year=2017|accessdate=2022-10-10|ref={{SfnRef|ふるさと歴史ウォーク 富岡・七日市コース|2017}}}}{{要高次出典|date=2020年10月}}
*{{citation|和書|url=https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/nanokaichi.pdf|title=平成29年春季展 七日市藩と加賀藩|publisher=金沢市立玉川図書館近世史料館|accessdate=2022-10-10|ref={{SfnRef|金沢市立玉川図書館|2017}}}}{{要高次出典|date=2020年10月}}


== 関連書籍 ==
== 関連書籍 ==
*『七日市藩和蘭薬記』(たなか踏基 著、幻冬舎ルネッサンス発行)
*『七日市藩和蘭薬記』(たなか踏基 著、幻冬舎ルネッサンス発行)

== 外部リンク ==
*{{kotobank|七日市藩|日本大百科全書(ニッポニカ)}}
*[http://codh.rois.ac.jp/bukan/book/200018823/024/ 七日市(前田大和守利以) | 大名家情報 - 武鑑全集]


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2024年6月18日 (火) 21:49時点における最新版

七日市藩(なのかいちはん)は、上野国甘楽郡七日市(現在の群馬県富岡市七日市)を居所とした。藩庁は七日市陣屋に置かれた。1616年に前田利家の五男・前田利孝が1万石余で入封し、以来前田家が12代250年あまり続いて廃藩置県を迎えた[1]加賀藩前田家一族の外様大名ではあるが、徳川秀忠の小姓を務めていた利孝が大坂の陣の武功により新知を受けるという譜代大名的な成り立ちを持つ[2]。江戸時代中期以降[注釈 1]は上野国で唯一の外様大名であった。

歴史

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七日市藩の位置(群馬県内)
前橋
前橋
高崎
高崎
安中
安中
小幡
小幡
↑ 下仁田

下仁田
藤岡
藤岡
七日市
七日市
関連地図(群馬県)[注釈 2]

七日市藩の初代藩主は、加賀藩前田利家の五男の利孝である。

利孝は慶長9年(1604年)より江戸芳春院前田利家正室・まつ)に養育された[2][注釈 3]。徳川秀忠に小姓として仕え、大坂の陣で利孝は徳川家の旗本として参戦して武功を挙げたことから、元和2年(1616年)12月26日、七日市に1万石余[注釈 4]の所領を与えた[2]。これが七日市藩の立藩である。兄たちが立てた富山藩前田利次)や大聖寺藩前田利治)とは異なり、加賀藩前田家からの分知ではなく幕府からの新知である。

小藩であったため、また天保の大飢饉などの天災も相次いだため、本家である加賀藩の財政的援助を受けてようやく存続するというような状況であった[2]。歴代藩主の多くは駿府城大坂城の守備役を務めている。

第11代藩主・利豁の代である天保13年(1842年)、藩校成器館が創設された。しかしこの頃には七日市藩邸が焼失するなど、治世は多難を極めた。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府側に与し、会津藩の討伐に参加した。翌年の版籍奉還で最後の藩主の利昭知藩事となる。利昭は成器館を文武学校と改称し、さらに軍務局をはじめとする藩政改革を行なった。明治4年(1871年)の廃藩置県で七日市藩は廃藩となる。その後、七日市県を経て、群馬県に編入された。

歴代藩主

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前田家

外様 1万石

氏名 官位 在職期間 享年 備考
1 前田利孝
まえだ としたか
従五位下
大和守
元和2年 - 寛永14年
1616年 - 1637年
44 父は前田利家
2 前田利意
まえだ としもと
従五位下
右近大夫
寛永14年 - 貞享2年
1637年 - 1685年
61
3 前田利広
まえだ としひろ
貞享2年 - 元禄6年
1685年 - 1693年
49
4 前田利慶
まえだ としよし
元禄6年 - 元禄8年
1693年 - 1695年
26
5 前田利英
まえだ としふさ
元禄8年 - 宝永5年
1695年 - 1708年
18 前藩主利慶の同母弟。
6 前田利理
まえだ としただ
従五位下
丹後守
宝永5年 - 宝暦6年
1708年 - 1756年
58 実父は旗本・前田孝始(初代藩主利孝の孫)、
実母は前田利意の三女。
7 前田利尚
まえだ としひさ
従五位下
大和守
宝暦6年 - 天明2年
1756年 - 1782年
61
8 前田利見
まえだ としあきら
従五位下
右近将監
天明2年 - 天明6年
1782年 - 1786年
23
9 前田利以
まえだ としもち
従五位下
大和守
天明6年 - 文化5年
1786年 - 1808年
61 実父は加賀大聖寺藩5代藩主の前田利道
10 前田利和
まえだ としよし
従五位下
大和守
文化5年 - 天保10年
1808年 - 1839年
49 実父は旗本・前田武宣(7代藩主利尚の弟)。
11 前田利豁
まえだ としあきら
従五位下
丹後守
天保11年 - 明治2年
1840年 - 1869年
55 実父は越中富山藩9代藩主の前田利幹
12 前田利昭
まえだ としあき
明治2年 - 明治4年
1869年 - 1871年
47

陣屋と陣屋町

[編集]

七日市の陣屋町は、前田家の入部間もない時期に整備されたとされる[5]。東西に走る中山道脇往還(下仁田街道)を中心に[6]、西から陣屋・武家屋敷・町屋が計画的に配置された[7]。武家屋敷と町屋の間には石垣が設けられて両者は明確に区別された[6]。土地の計測でも町屋では曲尺を、武家屋敷では鯨尺を使っていたという[6]。東隣は富岡町(旗本領[8])で、境界には「一ノ木戸」が設けられた[6][9]

町場は5つの町からなり、街路も広くとられ[6]、「七日市」の名にふさわしい市場町としての繁栄が企図とされたとされる[10]。しかし、東隣の富岡町(下仁田街道富岡宿)が商業中心地であったために七日市の商家は少数にとどまり[6]、農家の並ぶ「非都市的集落[8]」になった[5]。1874年(明治7年)時点で七日市には260戸があり、職業の記載がある中では商業2戸・工業7戸に対し農業175戸であった(なお、士族が61戸あった)[11]。1889年(明治22年)に七日市村は富岡町などと合併し、町村制に基づく富岡町を発足させている。

政治

[編集]

家臣団

[編集]

弘化5年(1848年)の分限帳によれば士分は54家である[12]。知行取はそのうち8家で、200石取りの1家を筆頭に、150石取り3家、80石取り1家、70石取り3家が続く[12]。ほかの46家は扶持取であり[12]、その下に足軽などがいた[12]。家老職は保坂家が勤め、北保坂家・南保坂家と呼ばれた[9]

幕末の領地

[編集]

備考

[編集]
  • 七日市藩主家から加賀藩の上級藩士(人持組)となる事例もあった。前田利孝の三男・前田寄孝は「前田大膳家」、前田利意の子・前田誠明(のぶあきら)は「前田兵部家」、同じく利意の子・前田孝效(たかのり)は「前田式部家」を興した[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 明和4年(1767年)に小幡藩織田家が転出し、譜代の奥平家に交替。
  2. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
  3. ^ 利孝の生母は側室の明運尼(明運院。父は加賀一向一揆の指導者の一人で石浦に拠った山本家芸[3])で、慶安元年(1648年)に七日市で没している[4]
  4. ^ 寛文4年の調査では12036石、貞享元年の調査では13135石[要出典]

出典

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  1. ^ 七日市藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2022年10月10日閲覧。
  2. ^ a b c d e 金沢市立玉川図書館 2019, p. 1.
  3. ^ 明運尼”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年10月閲覧。
  4. ^ ふるさと歴史ウォーク 富岡・七日市コース 2017, p. 9.
  5. ^ a b 中島義一 1962, p. 13.
  6. ^ a b c d e f 中島義一 1962, p. 12.
  7. ^ 中島義一 1962, p. 11.
  8. ^ a b 中島義一 1962, p. 7.
  9. ^ a b ふるさと歴史ウォーク 富岡・七日市コース 2017, p. 3.
  10. ^ 中島義一 1962, pp. 12–13.
  11. ^ 中島義一 1962, pp. 6–7.
  12. ^ a b c d 中島義一 1962, p. 6.

参考文献

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関連書籍

[編集]
  • 『七日市藩和蘭薬記』(たなか踏基 著、幻冬舎ルネッサンス発行)

外部リンク

[編集]
先代
上野国
行政区の変遷
1616年 - 1871年 (七日市藩→七日市県)
次代
群馬県(第1次)