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{{政治家
'''クリメント・エフレモヴィッチ・ウォロシーロフ'''('''ヴォロシーロフ'''、'''Климе́нт Ефре́мович Вороши́лов'''、'''Kliment Yefremovich Voroshilov'''、[[1881年]][[1月23日]]([[グレゴリオ暦]][[2月4日]]) - [[1969年]][[12月2日]])は、[[ソビエト連邦]]の[[軍人]]、[[政治家]]、[[ソビエト連邦元帥]][[w:Marshal of the Soviet Union]]。ソ連国防相、[[最高会議幹部会議長]]を歴任した。
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|successor5 = 「国防人民委員部」に改編
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|birth_place = {{RUS1858}}、ヴェルフニェー・エカテリーノスラフ県
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}}
{{基礎情報 軍人
| 氏名 = クリメント・ヴォロシーロフ
| 各国語表記 = {{ru|Климент Ворошилов}}
| 箱サイズ =
| 画像 = Joseph Stalin and Kliment Voroshilov, 1935.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = [[ヨシフ・スターリン]](左)と([[1935年]])
| 所属組織 = [[赤軍]]
| 軍歴 = [[1917年]] — [[1960年]]
| 最終階級 = [[ソ連邦元帥]]
| 除隊後 =
| 墓所 = [[クレムリンの壁墓所|クレムリン城壁共同墓地]]
| 署名 = [[ファイル:KGB first law.jpg|100px]]
}}
[[ファイル:RIAN archive 24692 Kliment Voroshilov at a meeting with young Communist League members.jpg|サムネイル|党の集会で女性党員たちと談笑する。(1935年)]]
'''クリメント・エフレモヴィチ・ヴォロシーロフ'''({{lang-ru|Климе́нт Ефре́мович Вороши́лов}}、ラテン文字転写の例:{{lang|ru-Lat|Kliment Yefremovich Voroshilov}}、[[1881年]][[2月4日]] - [[1969年]][[12月2日]])は、[[ソビエト連邦]]の[[軍人]]、[[政治家]]。[[ソ連邦元帥]]、[[ソビエト連邦の軍部大臣|ソ連国防大臣]]、[[国家元首]]に当たる[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]]を歴任した。[[ソ連邦英雄]](2度)、[[社会主義労働英雄]](1度)。


== 生涯 ==
1881年1月23日[[ロシア帝国]]領だった[[ウクライナ]]に生まれる。[[1903年]][[ボリシェヴィキ]]に入党する。[[1917年]][[ロシア革命]]が勃発すると、ウクライナ臨時政府を樹立し内務人民委員となる。[[ロシア内戦|内戦]]期には、[[ツァーリツィン]](後の[[スターリングラード]]、現在の[[ボルゴグラード]])防衛を組織化し、この間[[スターリン]]との間に緊密な関係を築くことになった。
=== 生い立ち ===
1881年2月4日([[ユリウス暦]]1月23日)、[[ロシア帝国]]時代の[[ウクライナ]]の[[エカテリノスラフ県|エカテリーノスラフ県]]ヴェルフニェー村(現在の[[ルハーンシク州]][[リシチャンシク|ルィスィチャーンシク]])にて、ロシア人の鉄道労働者の家庭に生まれる<ref>{{Ruheroes}}</ref>。工場で働いていたが、[[1896年]]、ストライキに参加したことで解雇され、ストライキを扇動したために逮捕されるも釈放。[[1905年]]に[[ボリシェヴィキ]]に入党し、[[ストックホルム]]で開かれた[[ロシア社会民主労働党]]第4回大会に代表として出席する。このとき、[[ウラジーミル・レーニン]]や[[ヨシフ・スターリン]]と知り合う。[[1907年]]には、ロンドンの第5回大会にも出席し、[[ミハイル・フルンゼ]]、[[ミハイル・カリーニン]]らとも知り合う。同年に逮捕され、[[アルハンゲリスク州]]に追放されるも[[1913年]]に恩赦となった。


=== ロシア革命と内戦 ===
[[1921年]]党中央委員に選出される。[[1925年]][[ミハイル・フルンゼ]]が死去し、後任の陸海軍人民委員、ソ連軍事革命評議会議長に就任する。翌[[1926年]]には[[政治局]]員となる。[[1930年代]]の[[大粛清]]ではいわばスターリンの執行者として大きく関与した。また、ヴォロシーロフの軍における威勢の強大化は、[[ミハイル・トハチェフスキー]]元帥の粛清と表裏一体であった。
[[1917年]][[ロシア革命]]が勃発すると、ルガンスク会議議長に選出される。同年11月、[[チェーカー]]の仕事に移った[[フェリックス・ジェルジンスキー]]に代わって、ソビエト臨時政府であるペトログラードソビエト([[:en:Petrograd Soviet|Petrograd Soviet]])委員となる。ロシア革命におけるヴォロシーロフは、内政問題に携わるウクライナ人による臨時政府および[[政治将校]]の一員であった。


[[1918年]]、第1ルガンスク社会主義パルチザン支隊を編成。この後、程なくして第5ウクライナ軍司令官に任命されたが、ドイツ軍とクラスノフのコサック軍に敗れる。その後、[[第10軍 (ロシア内戦)|第10軍]]を編成し、ツァーリツィン(のちの[[ヴォルゴグラード|スターリングラード]])防衛を組織化する。この間に、スターリンと緊密な関係を築くことになった。ヴォロシーロフは、軍事会議でスターリンを擁護することで知られていた。しかしながら、スターリンがツァーリツィンから去ると、ヴォロシーロフは[[レフ・トロツキー]]によって罷免された(トロツキーは、'''「ヴォロシーロフとは、フィクションである」'''と評した(''{{ru|Ворошилов есть фикция}}'')。
[[1934年]]国防人民委員(国防相)に就任し、翌[[1935年]][[ソ連邦元帥]][[w:Marshal of the Soviet Union]]の称号を得る。[[第二次世界大戦]]が勃発すると、ヴォロシーロフは最高国防委員会のメンバーとなり、スターリンを補佐した。


[[ロシア内戦]]および[[ポーランド・ソビエト戦争]]でのヴォロシーロフは、南部前線における指揮官として採用された。スターリンとともに政治将校として勤務していたヴォロシーロフは、主に南ロシアの農民から成る第一騎兵軍の士気に対する責任を負った<ref> Brown, Stephen. "Communists and the Red Cavalry: The Political Education of the Konarmiia in the Russian Civil War, 1918-20" The Slavonic and East European Review, Vol. 73, No. 1 (Jan., 1995), p. 88 </ref>。コーマロウの戦争([[:en:Battle of Komarów|Battle of Komarów]])での大敗や、騎兵隊の階級内での残忍な反ユダヤ主義的暴力の規則的な勃発は、政治将校としてのヴォロシーロフの努力では防ぐことができなかった<ref name="#1">Barmine, Alexander, ''One Who Survived'', New York: G.P. Putnam (1945), footnote, p. 21</ref>。
[[1939年]]11月から[[1940年]]1月まで[[冬戦争]](第1次ソ・芬戦争)でソ連軍を指揮するが、[[フィンランド]]軍の粘り強い抵抗の前に非常な苦戦を強いられ多くの死傷者を出した。冬戦争の失態から[[フルシチョフ]]はヴォロシーロフに対して低い評価をしており、後年「赤軍の大きな溜壺」''biggest bag of shit in the army''と酷評している。


=== 大粛清 ===
[[1941年]][[独ソ戦]]([[バルバロッサ作戦]])が開始されるとヴォロシーロフは、北西方面軍司令官に任命された。しかし、ヴォロシーロフは個人的に見れば相当な勇将ではあったものの、圧倒的な機動力を有するドイツ機甲部隊に対してピストルなどの小火器をもって対抗するという類のものでしかなく、結局、[[ドイツ軍]]の[[レニングラード]]包囲を許す結果をもたらし、北西方面軍司令官を解任された。しかしながらこの失態にもかかわらず、ヴォロシーロフはスターリンの年来の昔なじみという立場から、独ソ戦当初に敗北したという不名誉は不問に付された。終戦後の[[1945年]]から[[1947年]]まで[[ハンガリー]]に駐留し、同国の共産化を指揮した。
その後、[[ウクライナ・ソビエト共和国]]内務人民委員に任命。[[1921年]]、[[クロンシュタットの反乱]]の鎮圧に参加し、党中央委員に選出される。1921年~[[1924年]]まで[[北カフカーズ軍管区]]司令官を務める。[[1925年]]、ミハイル・フルンゼが死去し、後任の陸海軍人民委員、ソ連軍事革命評議会議長に就任し、翌[[1926年]]には政治局員となった。


スターリンの確かなおべっか使いとして、[[1930年代]]の[[大粛清]]ではいわばスターリンの執行者として中心的な役割を果たす。スターリンによってそうするよう求められると、ヴォロシーロフ自身の軍の同僚と部下たちの多くを告発した。また、ヴォロシーロフの軍における威勢の強大化は、元帥の[[ミハイル・トゥハチェフスキー]]の粛清と表裏一体であった。ヴォロシーロフは、{{仮リンク|ミハイル・オストロフスキー|ru|Островский, Михаил Семёнович}}のような追放された元ソビエト将校・外交官がソ連に自発的に戻るよう親書を書いたりさえしており、彼らを「当局から懲罰を科される危機にはない」と安心させた(実際には懲罰が科された)<ref name="#1"/>。結局、オストロフスキーは1938年に逮捕されて懲役15年の判決を受け、1952年に[[ノリリスク]]で獄死した。
[[1952年]]党幹部会(政治局を改称)員となる。[[1953年]]スターリンが死去したことにより、ソ連に大きな変化がもたらされる。ヴォロシーロフは、ソ連共産党第一書記となった[[フルシチョフ]]と首相となった[[ゲオルギー・マレンコフ]]によって[[国家元首]]である[[最高会議幹部会議長]]に選出された。この三者は、スターリンの死の直後に[[ラブレンティ・ベリヤ]]の逮捕を共謀していた。[[1956年]]第20回党大会でフルシチョフが[[スターリン批判]]を開始すると、ヴォロシーロフは、一時的にマレンコフ、[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]、[[ラザール・カガノヴィッチ]]ら、旧スターリン派(いわゆる「[[反党グループ]][[w:Anti-Party Group]]」に加わり、フルシチョフ攻撃に走った。[[1957年]]6月フルシチョフが権力闘争に勝利すると、ヴォロシーロフはフルシチョフ側に寝返った。


=== 国防人民委員と解任 ===
[[1960年]][[5月7日]]ソ連[[最高会議]]はヴォロシーロフの「引退の要請」を受けて、これを承認し、後任の最高会議幹部会議長に[[レオニード・ブレジネフ]]を選出した。[[7月16日]]党中央委員会はヴォロシーロフを党幹部会員から解任した。[[1961年]]10月第22回党大会はウォロシーロフを中央委員に選出せず、これによって完全に失脚し[[年金]]生活入りした。ウォロシーロフ引退の直前の挿話として以下のようなことが残されている。ある日、中央委員会の夕食会に出席したヴォロシーロフは、他の出席者から無視され。この冷遇が自らの解任が既に決定されていると悟ったヴォロシーロフは、解任を先取りし、「引退」を表明したと言われる。
{{出典の明記|date=2024年6月|section=1}}[[1934年]]、国防人民委員(国防相)に就任し、翌[[1935年]]には[[ソ連邦元帥]]の称号を得た。[[1939年]]11月から[[1940年]]1月まで[[冬戦争]](第1次ソ・芬戦争)でソ連軍を指揮するが、[[フィンランド]]軍の粘り強い抵抗の前に非常な苦戦を強いられ、多くの死傷者を出した。この責任を取る形で40年3月、国防人民委員を解任された。この頃、夕食会の席上でスターリンから失策を痛罵され、思わず「(苦戦の原因は)'''あなたの粛清だ! 多数の優秀な将校がいなくなったからだ!'''」と激しく反駁したという逸話が残っている(これは衆人環視のなかで彼が怒りを爆発させたほとんど唯一の事例であり、かつ独裁体制を樹立したあとでスターリンに直言したものが政治的に生き残った数少ない例のひとつでもある)<ref>{{Cite book |和書 |author=サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ|authorlink=サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ |title=スターリン 赤い皇帝と廷臣たち 上 |others = 染谷徹 訳|publisher=[[白水社]] |year=2010 |isbn=9784560080450 |page=584 }}</ref>。冬戦争の醜態から、[[ニキータ・フルシチョフ]]はヴォロシーロフに対して低い評価をつけており、後年'''「赤軍の大きな溜壺」'''(''biggest bag of shit in the army'')と酷評している。


=== 独ソ戦 ===
フルシチョフの失脚後、党第一書記(後に書記長)となったブレジネフによって、[[1966年]]中央委員に返り咲いた。[[1968年]]には[[ソ連邦英雄]]の称号を受賞した(2回目)。
{{出典の明記|date=2018年8月|section=1}}[[1941年]]、[[独ソ戦]](大祖国戦争)が開始されるとヴォロシーロフは、[[ソ連国家防衛委員会|国家防衛委員会]]および[[スタフカ|大本営]]のメンバーとなり、スターリンを補佐した。また、北西方面軍司令官に任命され、各地戦線に派遣された。しかし元帥とは言えキャリアからするとヴォロシーロフは政治将校にすぎず、結局、[[ドイツ軍]]による[[サンクトペテルブルク|レニングラード]]包囲を許す結果をもたらし、北西方面軍司令官を解任された。この失態にもかかわらず、ヴォロシーロフはスターリンの年来の昔なじみという立場から、独ソ戦当初に敗北したという不名誉は不問に付された。


=== 戦後 ===
1969年12月2日[[モスクワ]]で死去した。
{{出典の明記|date=2024年6月|section=1}}[[ファイル:Voroshilov, Khrushchev, Kekkonen.jpeg|200px|thumb|[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]、[[ウルホ・ケッコネン|ケッコネン]](右)と]]
終戦後の[[1945年]]から[[1947年]]まで[[ハンガリー]]に駐留し、[[ハンガリー第二共和国]]の成立と同国の共産化を指揮した。


[[1952年]]、党幹部会(政治局を改称)員となる。[[1953年]]、[[ヨシフ・スターリンの死と国葬|スターリンが死去]]したことにより、ソ連に大きな変化がもたらされる。ヴォロシーロフは、首相となった[[ゲオルギー・マレンコフ]]とソ連共産党書記局の主導権を握った[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]によって[[国家元首]]である[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]]に選出された。この三者は、スターリンの死の直後に[[ラヴレンチー・ベリヤ]]の逮捕を共謀していた。[[1956年]]、第20回党大会でフルシチョフが[[スターリン批判]]を開始すると、ヴォロシーロフは、一時的にマレンコフ、[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]、[[ラーザリ・カガノーヴィチ]]ら、旧スターリン派(いわゆる「[[反党グループ事件|反党グループ]]」)に加わり、フルシチョフ攻撃に走った。しかし、[[1957年]]6月、フルシチョフが権力闘争に勝利すると、ヴォロシーロフはフルシチョフ側に寝返った。
第二次世界大戦で使用された[[戦車]][[KV-2|KVシリーズ]]は、ヴォロシーロフにちなんで名付けられたものである。死後、ウクライナと[[極東]]の都市にウォロシーロフグラード(それぞれ現在は、[[ルハンスク]][[w:Luhansk]]、[[ウスリースク]]に改称)と命名された。また、モスクワのソ連軍機甲軍大学にも、ウォロシーロフの名称が冠された。


[[1960年]][[5月7日]]、ソ連最高会議はヴォロシーロフの「引退の要請」を受けて、これを承認し、後任の最高会議幹部会議長に[[レオニード・ブレジネフ]]を選出した。[[7月16日]]、党中央委員会はヴォロシーロフを党幹部会員から解任した。[[1961年]]10月の第22回党大会はヴォロシーロフを中央委員に選出しなかった。これにより、ヴォロシーロフは[[年金]]生活に入った。ヴォロシーロフ引退の直前の挿話として以下のようなことが残されている。ある日、中央委員会の夕食会に出席したヴォロシーロフは、他の出席者から無視された。この冷遇から自らの解任が既に決定されていると悟ったヴォロシーロフは、解任を先取りし、「引退」を表明したと言われる。
{{先代次代|[[最高会議幹部会議長|ソ連最高会議幹部会議長]]|[[1953年]]-[[1960年]]|[[ニコライ・シュヴェルニク]]|[[レオニード・ブレジネフ]]}}
[[Category:ソビエト連邦の政治家|うおろしろふ くりめんと]]
[[Category:ロシアの軍人|うおろしろふ くりめんと]]
{{生没年|うおろしろふ くりめんと|1881年|1969年}}


フルシチョフの失脚後、党第一書記(後に書記長)となったブレジネフによって、ヴォロシーロフは[[1966年]]に中央委員に返り咲いた。[[1968年]]には[[ソ連邦英雄]]の称号を受賞した(2回目)。
[[cs:Kliment Jefremovič Vorošilov]]

[[de:Kliment Jefremowitsch Woroschilow]]
1969年12月2日、ヴォロシーロフは[[モスクワ]]で死去した。遺体は[[クレムリンの壁墓所]]の中でも最高指導者経験者等の重要人物しか葬られないレーニン廟裏の革命元勲墓に埋葬され、格別の栄誉を受けた。
[[en:Kliment Voroshilov]]

[[es:Kliment Voroshilov]]
== 顕彰 ==
[[fr:Kliment Vorochilov]]
第二次世界大戦で使用された[[重戦車]]であるKVシリーズ([[KV-1]]、[[KV-2]]、[[KV-85]])は、ヴォロシーロフにちなんで名付けられたものである。[[1935年]]、ウクライナと[[極東ロシア|極東]]の都市が彼にちなみヴォロシロフグラードおよびヴォロシロフ(それぞれ1950年代後半に、[[ルハンシク|ルハーンスィク]]、[[ウスリースク]]に改称)と命名された。また、モスクワのソ連軍機甲軍大学にも、ヴォロシーロフの名称が冠された。
[[ko:클리멘트 보로실로프]]

[[he:קלימנט וורושילוב]]
== その他 ==
[[ka:ვოროშილოვი, კლიმენტ]]
*指揮官としての才能は無かったが、戦時経済の構築などの分野では優れていたと言われる。
[[pl:Kliment Woroszyłow]]
*妻は[[ユダヤ]]籍を持つ{{仮リンク|エカテリーナ・ヴォロシーロワ|label=ホルダ・ダヴィードヴナ・ホルプマン|ru|Ворошилова, Екатерина Давидовна}}(1887年~1959年)。ヴォロシーロフとの結婚前に[[正教会|正教]]に改宗の上で、エカチェリーナに改名している。1917年[[ボリシェビキ]]党員になり、レーニン博物館副館長職として勤務した。一方で自分たちは子をもうけず、[[ミハイル・フルンゼ|フルンゼ]]の息子チムールとピョートル,娘タチヤーナ、更に孫子のクリムとヴァロージャを育てた。
[[pt:Kliment Vorochilov]]
*日本でも良く知られている、1934年にグーセフにより作詞された[[ポーリュシカ・ポーレ]]では10番中7番の歌詞に、国防部門で重要な地位に就いたばかりのヴォロシーロフの名が登場する。
[[ro:Kliment Voroşilov]]

[[ru:Ворошилов, Климент Ефремович]]
== 著作物 ==
[[sk:Kliment Jefremovič Vorošilov]]
* 『スターリン作戦論』
[[sl:Kliment Jefremovič Vorošilov]]

[[fi:Kliment Vorošilov]]
== 脚注 ==
[[sv:Kliment Vorosjilov]]
{{reflist}}
[[tl:Kliment Vorošilov]]

[[zh:伏罗希洛夫]]
{{Commons|Kliment Voroshilov}}
{{先代次代|[[ソビエト連邦の国防相|ソビエト連邦陸海軍人民委員]]|[[1925年]] - [[1934年]]|[[ミハイル・フルンゼ]]|([[国防人民委員部]]に改編)}}
{{先代次代|[[ソビエト連邦の国防相|ソビエト連邦国防人民委員]]|[[1934年]] - [[1940年]]|-|[[セミョーン・チモシェンコ]]}}
{{先代次代|[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長]]|[[1953年]] - [[1960年]]|[[ニコライ・シュヴェルニク]]|[[レオニード・ブレジネフ]]}}
{{Normdaten}}

{{DEFAULTSORT:うおろしいろふ くりめんと}}
[[Category:クリメント・ヴォロシーロフ|*]]
[[Category:第二次世界大戦期のソビエト連邦の戦線司令官]]
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[[Category:1881年生]]
[[Category:1969年没]]

2024年6月12日 (水) 22:09時点における版

クリメント・ヴォロシーロフ
Климент Ворошилов
クリメント・ヴォロシーロフ(1937年)
生年月日 (1881-02-04) 1881年2月4日
出生地 ロシア帝国、ヴェルフニェー・エカテリーノスラフ県
没年月日 (1969-12-02) 1969年12月2日(88歳没)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
所属政党 ロシア社会民主労働党
ロシア共産党(ボリシェヴィキ派)
ソビエト連邦共産党
称号 ソ連邦英雄(2回)
社会主義労働英雄(1回)
レーニン勲章(8回)
赤旗勲章en)(6回)
第一級スヴォーロフ勲章en
大祖国戦争戦勝メダルen

在任期間 1953年3月15日 - 1960年5月7日

在任期間 1940年5月7日 - 1946年3月15日
人民委員会議議長 ヴャチェスラフ・モロトフ
ヨシフ・スターリン
在任期間 1946年3月19日 - 1953年3月15日
閣僚会議議長 ヨシフ・スターリン
ゲオルギー・マレンコフ

在任期間 1925年11月6日 - 1934年6月20日
1934年6月20日 - 1940年5月7日
人民委員会議議長 アレクセイ・ルイコフ
ヴャチェスラフ・モロトフ
ヨシフ・スターリン

在任期間 1925年11月6日 - 1934年6月20日
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クリメント・ヴォロシーロフ
Климент Ворошилов
所属組織 赤軍
軍歴 1917年1960年
最終階級 ソ連邦元帥
墓所 クレムリン城壁共同墓地
署名
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党の集会で女性党員たちと談笑する。(1935年)

クリメント・エフレモヴィチ・ヴォロシーロフロシア語: Климе́нт Ефре́мович Вороши́лов、ラテン文字転写の例:Kliment Yefremovich Voroshilov1881年2月4日 - 1969年12月2日)は、ソビエト連邦軍人政治家ソ連邦元帥ソ連国防大臣国家元首に当たる最高会議幹部会議長を歴任した。ソ連邦英雄(2度)、社会主義労働英雄(1度)。

生涯

生い立ち

1881年2月4日(ユリウス暦1月23日)、ロシア帝国時代のウクライナエカテリーノスラフ県ヴェルフニェー村(現在のルハーンシク州ルィスィチャーンシク)にて、ロシア人の鉄道労働者の家庭に生まれる[1]。工場で働いていたが、1896年、ストライキに参加したことで解雇され、ストライキを扇動したために逮捕されるも釈放。1905年ボリシェヴィキに入党し、ストックホルムで開かれたロシア社会民主労働党第4回大会に代表として出席する。このとき、ウラジーミル・レーニンヨシフ・スターリンと知り合う。1907年には、ロンドンの第5回大会にも出席し、ミハイル・フルンゼミハイル・カリーニンらとも知り合う。同年に逮捕され、アルハンゲリスク州に追放されるも1913年に恩赦となった。

ロシア革命と内戦

1917年ロシア革命が勃発すると、ルガンスク会議議長に選出される。同年11月、チェーカーの仕事に移ったフェリックス・ジェルジンスキーに代わって、ソビエト臨時政府であるペトログラードソビエト(Petrograd Soviet)委員となる。ロシア革命におけるヴォロシーロフは、内政問題に携わるウクライナ人による臨時政府および政治将校の一員であった。

1918年、第1ルガンスク社会主義パルチザン支隊を編成。この後、程なくして第5ウクライナ軍司令官に任命されたが、ドイツ軍とクラスノフのコサック軍に敗れる。その後、第10軍を編成し、ツァーリツィン(のちのスターリングラード)防衛を組織化する。この間に、スターリンと緊密な関係を築くことになった。ヴォロシーロフは、軍事会議でスターリンを擁護することで知られていた。しかしながら、スターリンがツァーリツィンから去ると、ヴォロシーロフはレフ・トロツキーによって罷免された(トロツキーは、「ヴォロシーロフとは、フィクションである」と評した(Ворошилов есть фикция)。

ロシア内戦およびポーランド・ソビエト戦争でのヴォロシーロフは、南部前線における指揮官として採用された。スターリンとともに政治将校として勤務していたヴォロシーロフは、主に南ロシアの農民から成る第一騎兵軍の士気に対する責任を負った[2]。コーマロウの戦争(Battle of Komarów)での大敗や、騎兵隊の階級内での残忍な反ユダヤ主義的暴力の規則的な勃発は、政治将校としてのヴォロシーロフの努力では防ぐことができなかった[3]

大粛清

その後、ウクライナ・ソビエト共和国内務人民委員に任命。1921年クロンシュタットの反乱の鎮圧に参加し、党中央委員に選出される。1921年~1924年まで北カフカーズ軍管区司令官を務める。1925年、ミハイル・フルンゼが死去し、後任の陸海軍人民委員、ソ連軍事革命評議会議長に就任し、翌1926年には政治局員となった。

スターリンの確かなおべっか使いとして、1930年代大粛清ではいわばスターリンの執行者として中心的な役割を果たす。スターリンによってそうするよう求められると、ヴォロシーロフ自身の軍の同僚と部下たちの多くを告発した。また、ヴォロシーロフの軍における威勢の強大化は、元帥のミハイル・トゥハチェフスキーの粛清と表裏一体であった。ヴォロシーロフは、ミハイル・オストロフスキーロシア語版のような追放された元ソビエト将校・外交官がソ連に自発的に戻るよう親書を書いたりさえしており、彼らを「当局から懲罰を科される危機にはない」と安心させた(実際には懲罰が科された)[3]。結局、オストロフスキーは1938年に逮捕されて懲役15年の判決を受け、1952年にノリリスクで獄死した。

国防人民委員と解任

1934年、国防人民委員(国防相)に就任し、翌1935年にはソ連邦元帥の称号を得た。1939年11月から1940年1月まで冬戦争(第1次ソ・芬戦争)でソ連軍を指揮するが、フィンランド軍の粘り強い抵抗の前に非常な苦戦を強いられ、多くの死傷者を出した。この責任を取る形で40年3月、国防人民委員を解任された。この頃、夕食会の席上でスターリンから失策を痛罵され、思わず「(苦戦の原因は)あなたの粛清だ! 多数の優秀な将校がいなくなったからだ!」と激しく反駁したという逸話が残っている(これは衆人環視のなかで彼が怒りを爆発させたほとんど唯一の事例であり、かつ独裁体制を樹立したあとでスターリンに直言したものが政治的に生き残った数少ない例のひとつでもある)[4]。冬戦争の醜態から、ニキータ・フルシチョフはヴォロシーロフに対して低い評価をつけており、後年「赤軍の大きな溜壺」biggest bag of shit in the army)と酷評している。

独ソ戦

1941年独ソ戦(大祖国戦争)が開始されるとヴォロシーロフは、国家防衛委員会および大本営のメンバーとなり、スターリンを補佐した。また、北西方面軍司令官に任命され、各地戦線に派遣された。しかし元帥とは言えキャリアからするとヴォロシーロフは政治将校にすぎず、結局、ドイツ軍によるレニングラード包囲を許す結果をもたらし、北西方面軍司令官を解任された。この失態にもかかわらず、ヴォロシーロフはスターリンの年来の昔なじみという立場から、独ソ戦当初に敗北したという不名誉は不問に付された。

戦後

フルシチョフケッコネン(右)と

終戦後の1945年から1947年までハンガリーに駐留し、ハンガリー第二共和国の成立と同国の共産化を指揮した。

1952年、党幹部会(政治局を改称)員となる。1953年スターリンが死去したことにより、ソ連に大きな変化がもたらされる。ヴォロシーロフは、首相となったゲオルギー・マレンコフとソ連共産党書記局の主導権を握ったフルシチョフによって国家元首である最高会議幹部会議長に選出された。この三者は、スターリンの死の直後にラヴレンチー・ベリヤの逮捕を共謀していた。1956年、第20回党大会でフルシチョフがスターリン批判を開始すると、ヴォロシーロフは、一時的にマレンコフ、ヴャチェスラフ・モロトフラーザリ・カガノーヴィチら、旧スターリン派(いわゆる「反党グループ」)に加わり、フルシチョフ攻撃に走った。しかし、1957年6月、フルシチョフが権力闘争に勝利すると、ヴォロシーロフはフルシチョフ側に寝返った。

1960年5月7日、ソ連最高会議はヴォロシーロフの「引退の要請」を受けて、これを承認し、後任の最高会議幹部会議長にレオニード・ブレジネフを選出した。7月16日、党中央委員会はヴォロシーロフを党幹部会員から解任した。1961年10月の第22回党大会はヴォロシーロフを中央委員に選出しなかった。これにより、ヴォロシーロフは年金生活に入った。ヴォロシーロフ引退の直前の挿話として以下のようなことが残されている。ある日、中央委員会の夕食会に出席したヴォロシーロフは、他の出席者から無視された。この冷遇から自らの解任が既に決定されていると悟ったヴォロシーロフは、解任を先取りし、「引退」を表明したと言われる。

フルシチョフの失脚後、党第一書記(後に書記長)となったブレジネフによって、ヴォロシーロフは1966年に中央委員に返り咲いた。1968年にはソ連邦英雄の称号を受賞した(2回目)。

1969年12月2日、ヴォロシーロフはモスクワで死去した。遺体はクレムリンの壁墓所の中でも最高指導者経験者等の重要人物しか葬られないレーニン廟裏の革命元勲墓に埋葬され、格別の栄誉を受けた。

顕彰

第二次世界大戦で使用された重戦車であるKVシリーズ(KV-1KV-2KV-85)は、ヴォロシーロフにちなんで名付けられたものである。1935年、ウクライナと極東の都市が彼にちなみヴォロシロフグラードおよびヴォロシロフ(それぞれ1950年代後半に、ルハーンスィクウスリースクに改称)と命名された。また、モスクワのソ連軍機甲軍大学にも、ヴォロシーロフの名称が冠された。

その他

  • 指揮官としての才能は無かったが、戦時経済の構築などの分野では優れていたと言われる。
  • 妻はユダヤ籍を持つホルダ・ダヴィードヴナ・ホルプマンロシア語版(1887年~1959年)。ヴォロシーロフとの結婚前に正教に改宗の上で、エカチェリーナに改名している。1917年ボリシェビキ党員になり、レーニン博物館副館長職として勤務した。一方で自分たちは子をもうけず、フルンゼの息子チムールとピョートル,娘タチヤーナ、更に孫子のクリムとヴァロージャを育てた。
  • 日本でも良く知られている、1934年にグーセフにより作詞されたポーリュシカ・ポーレでは10番中7番の歌詞に、国防部門で重要な地位に就いたばかりのヴォロシーロフの名が登場する。

著作物

  • 『スターリン作戦論』

脚注

  1. ^ "クリメント・ヴォロシーロフ". Герои страны ("Heroes of the Country") (ロシア語). ウィキデータを編集
  2. ^ Brown, Stephen. "Communists and the Red Cavalry: The Political Education of the Konarmiia in the Russian Civil War, 1918-20" The Slavonic and East European Review, Vol. 73, No. 1 (Jan., 1995), p. 88
  3. ^ a b Barmine, Alexander, One Who Survived, New York: G.P. Putnam (1945), footnote, p. 21
  4. ^ サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち 上』染谷徹 訳、白水社、2010年、584頁。ISBN 9784560080450 
先代
ミハイル・フルンゼ
ソビエト連邦陸海軍人民委員
1925年 - 1934年
次代
国防人民委員部に改編)
先代
-
ソビエト連邦国防人民委員
1934年 - 1940年
次代
セミョーン・チモシェンコ
先代
ニコライ・シュヴェルニク
ソビエト連邦最高会議幹部会議長
1953年 - 1960年
次代
レオニード・ブレジネフ