コンテンツにスキップ

「山梨半造」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
国旗の大きさを修正
タグ: モバイル編集 モバイルアプリ編集 iOSアプリ編集
m 略歴: リンク先変更
 
(17人の利用者による、間の20版が非表示)
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2016年3月}}
{{出典の明記|date=2016年3月}}
{{政治家
{{政治家
|人名 = 山梨 半造
|人名 = {{big|{{ruby-ja|山梨|やまなし}} {{ruby-ja|半造|はんぞう}}}}
|各国語表記 = やまなし はんぞう
|各国語表記 = <small>{{kyujitai|'''山梨 半&#xe0101;造&#xe0101;'''}}</small>
|画像 = Yamanashi Hanzo.jpg
|画像 = Yamanashi Hanzo.jpg
|国略称 = {{JPN1870}}
|国略称 = {{JPN1870}}
|生年月日 = [[1864年]][[4月6日]]<br />([[元治]]元年[[3月1日 (旧暦)|3月1日]])
|生年月日 = [[1864年]][[4月6日]]<br />([[元治]]元年[[3月1日 (旧暦)|3月1日]])
|出生地 = [[File:Flag of Japan (WFB 2000).svg|25px|border]] [[日本]][[相模国]][[大住郡]][[下島村]]<br />(現:[[神奈川県]][[平塚市]][[下島 (平塚市)|下島]])
|出生地 = [[日本]][[相模国]][[大住郡]][[下島村]]<br />(現:[[神奈川県]][[平塚市]][[下島 (平塚市)|下島]])
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1864|4|6|1944|7|2}}
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1864|4|6|1944|7|2}}
|死没地 = {{JPN1870}}[[神奈川県]][[鎌倉市]]
|死没地 = {{JPN1870}}[[神奈川県]][[鎌倉市]]
|出身校 = [[陸軍大学校]]卒業
|出身校 = [[陸軍大学校]]卒業
|前職 = [[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]
|前職 = [[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]
24行目: 24行目:
}}
}}


'''山梨 半造'''(やまなし はんぞう、[[元治]]元年[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]([[1864年]][[4月6日]]) - [[昭和]]19年([[1944年]])[[7月2日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]][[政治家]]である
'''山梨 半造'''(やまなし はんぞう、{{旧字体|'''山梨 半&#xe0101;造&#xe0101;'''}}、[[1864年]][[4月6日]]([[元治]]元年[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]) - [[1944年]]([[昭和]]19年)[[7月2日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]][[政治家]]。


[[陸軍大臣]](第15代)、[[朝鮮総督府|朝鮮総督]](第4代)を歴任した。最終階級は[[陸軍大将]]。[[栄典]]は[[正三位]][[勲一等旭日大綬章|勲一等]][[金鵄勲章|功二級]]。
[[陸軍大臣]](第15代)、[[朝鮮総督府|朝鮮総督]](第4代)を歴任した。最終階級は[[陸軍大将]]。[[日本の栄典|栄典]]は[[正三位]][[勲一等旭日大綬章|勲一等]][[金鵄勲章|功二級]]。


== 略歴 ==
== 略歴 ==
32行目: 32行目:
[[相模国]][[大住郡]][[下島村]](現在の[[神奈川県]][[平塚市]][[下島 (平塚市)|下島]])にて[[山梨安兵衛]]の二男として出生。[[耕余塾]]卒業後、[[1886年]]([[明治]]18年)6月、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](旧8期、士官生徒8期)を卒業、[[歩兵]][[少尉]]に任官し[[歩兵第5連隊]]付となる。[[1892年]](明治24年)12月、[[陸軍大学校]](8期)を卒業、[[恩賜の軍刀]]を拝受した。
[[相模国]][[大住郡]][[下島村]](現在の[[神奈川県]][[平塚市]][[下島 (平塚市)|下島]])にて[[山梨安兵衛]]の二男として出生。[[耕余塾]]卒業後、[[1886年]]([[明治]]18年)6月、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](旧8期、士官生徒8期)を卒業、[[歩兵]][[少尉]]に任官し[[歩兵第5連隊]]付となる。[[1892年]](明治24年)12月、[[陸軍大学校]](8期)を卒業、[[恩賜の軍刀]]を拝受した。


[[日清戦争]]に歩兵第4[[旅団]][[副官]]として出征し歩兵第5連隊[[中隊|中隊長]]、[[第2軍 (日本軍)|第2軍]]副官、占領地総督部副官を歴任し帰国した。[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]第4部員、兼陸大教官、[[ドイツ]]駐在、陸大教官などを経て[[日露戦争]]時には第2軍[[参謀]]として出征し同軍参謀副長、[[第3師団 (日本軍)|第3師団]]参謀長を歴任した。
[[日清戦争]]に歩兵第4[[旅団]][[副官]]として出征し歩兵第5連隊[[中隊|中隊長]]、[[第2軍 (日本軍)|第2軍]]副官、占領地総督部副官を歴任し帰国した。[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]第4部員、兼陸大教官、[[ドイツ帝国|ドイツ]]駐在、陸大教官などを経て[[日露戦争]]時には第2軍[[参謀]]として出征し同軍参謀副長、[[第3師団 (日本軍)|第3師団]]参謀長を歴任した。


[[オーストリア]]公使館付、[[在ドイツ日本国大使館|ドイツ大使館]]、陸大幹事、[[歩兵第51連隊]]長などを経て[[1911年]](明治44年)9月、陸軍[[少将]]に進級。歩兵第30[[旅団]]長、歩兵第1旅団長、参謀本部総務部長などを歴任し[[第一次世界大戦]]において独立[[第18師団 (日本軍)|第18師団]]参謀長として[[青島市|青島]]に出征、その軍功により[[功二級]]を賜る。[[教育総監部]]本部長などを経て[[1916年]]([[大正]]5年)5月、陸軍[[中将]]に昇進し陸軍[[次官]]、兼[[陸軍航空本部|航空局長官]]を歴任。
[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]公使館付、[[在ドイツ日本国大使館|ドイツ大使館]]、陸大幹事、[[歩兵第51連隊]]長などを経て[[1911年]](明治44年)9月、陸軍[[少将]]に進級。歩兵第30[[旅団]]長、歩兵第1旅団長、参謀本部総務部長などを歴任し[[第一次世界大戦]]において独立[[第18師団 (日本軍)|第18師団]]参謀長として[[青島市|青島]]に出征、その軍功により[[功二級]]を賜る。[[教育総監部]]本部長などを経て[[1916年]]([[大正]]5年)5月、陸軍[[中将]]に昇進し陸軍[[次官]]、兼[[陸軍航空本部|航空局長官]]を歴任。


[[1921年]](大正10年)10月、[[原内閣]]の陸軍大臣となり同年12月に陸軍大将に進級し[[高橋内閣]]・[[加藤友三郎内閣]]にも留任。[[1922年]](大正11年)8月と翌年4月の2度にわたり陸軍史上初の軍縮(「[[山梨軍縮]]」)を実行。
[[1921年]](大正10年)10月、[[原内閣]]の陸軍大臣となり同年12月に陸軍大将に進級し[[高橋内閣]]・[[加藤友三郎内閣]]にも留任。[[1922年]](大正11年)8月と翌年4月の2度にわたり陸軍史上初の軍縮(「[[山梨軍縮]]」)を実行。


[[軍事参議官]]を経て、[[関東大震災]]に伴い[[福田雅太郎]]司令官の後任として[[関東戒厳司令部|関東戒厳司令官]]に就任した。[[東京警備司令部|東京警備司令官]]、軍事参議官を経て[[1925年]](大正14年)5月、[[予備役]]編入され[[1927年]](昭和2年)12月に[[朝鮮総督府|朝鮮総督]]となった。その直後、[[立憲民政党]]により米穀商が[[京城府|京城]]に取引所を開設すために山梨の側近を通じて5万円(当時)を[[贈賄]]したとする[[朝鮮総督府疑獄]]が暴露され辞任。米穀商と側近は[[執行猶予]]つきの[[有罪]]、山梨本人は無罪となった
[[軍事参議官]]を経て、[[関東大震災]]に伴い[[福田雅太郎]]司令官の後任として[[関東戒厳司令部|関東戒厳司令官]]に就任した。[[東京警備司令部|東京警備司令官]]、軍事参議官を経て[[1925年]](大正14年)5月25日<ref>『官報』第3825号「叙任及辞令」1925年5月26日。</ref>、[[予備役]]編入される。
その後、[[陸軍機密費横領問題]]を通じ、[[田中義一]]とともに告発されるが、[[1926年]](昭和元年)[[12月27日]]に不起訴処分となる<ref>機密費事件は証拠不十分で不起訴に決定『東京朝日新聞』昭和元年12月28日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p380-381 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。


[[1927年]](昭和2年)12月10日に[[朝鮮総督府|朝鮮総督]]となった。その直後、[[立憲民政党]]により米穀商が[[京城府|京城]]に取引所を開設するために山梨の側近を通じて5万円(当時)を[[贈賄]]したとする[[朝鮮総督府疑獄]]が暴露され辞任。米穀商と側近は[[執行猶予]]つきの有罪、山梨本人は無罪となった。
[[1934年]](昭和9年)4月に退役。[[1944年]](昭和19年)、神奈川県鎌倉市の自宅にて死去。享年81。

[[1934年]](昭和9年)4月に退役。[[1944年]](昭和19年)、神奈川県鎌倉市の自宅にて死去。享年81。墓所は東京都[[杉並区]][[永福]]の[[築地本願寺和田堀廟所]]


== 栄典 ==
== 栄典 ==
49行目: 52行目:
* [[1901年]](明治34年)[[3月11日]] - [[従六位]]<ref>『官報』第5304号「叙任及辞令」1901年3月12日。</ref>
* [[1901年]](明治34年)[[3月11日]] - [[従六位]]<ref>『官報』第5304号「叙任及辞令」1901年3月12日。</ref>
* [[1904年]](明治37年)[[11月8日]] - [[正六位]]<ref>『官報』第6422号「叙任及辞令」1904年11月25日。</ref>
* [[1904年]](明治37年)[[11月8日]] - [[正六位]]<ref>『官報』第6422号「叙任及辞令」1904年11月25日。</ref>
* [[1907年]](明治40年)[[12月27日]] - [[従五位]]<ref>『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。</ref>
* [[1911年]](明治44年)[[10月20日]] - [[正五位]]<ref>『官報』第8502号「叙任及辞令」1911年10月21日。</ref>
* [[1911年]](明治44年)[[10月20日]] - [[正五位]]<ref>『官報』第8502号「叙任及辞令」1911年10月21日。</ref>
* [[1916年]](大正5年)[[6月10日]] - [[従四位]]<ref>『官報』第1158号「叙任及辞令」1916年6月12日。</ref>
* [[1916年]](大正5年)[[6月10日]] - [[従四位]]<ref>『官報』第1158号「叙任及辞令」1916年6月12日。</ref>
* [[1921年]](大正10年)[[6月10日]] - [[正四位]]<ref>『官報』第658号「叙任及辞令」1921年6月11日。</ref>
* [[1923年]](大正12年)[[6月1日]] - [[従三位]]<ref>『官報』第3259号「叙任及辞令」1923年6月12日。</ref>
* [[1923年]](大正12年)[[6月1日]] - [[従三位]]<ref>『官報』第3259号「叙任及辞令」1923年6月12日。</ref>
* [[1925年]](大正14年)[[6月24日]] - [[正三位]]<ref>『官報』第3888号「叙任及辞令」1925年8月8日。</ref>
* [[1925年]](大正14年)[[6月24日]] - [[正三位]]<ref>『官報』第3888号「叙任及辞令」1925年8月8日。</ref>


;勲章等
;勲章等
* [[1915年]](大正4年)[[11月7日]] - [[金鵄勲章|功二級金鵄章]]・[[旭日章|旭日重光章]]・[[従軍記章#大正三四年(大正三年乃至九年戦役)従軍記章|大正三四年従軍記章]]<ref>『官報』第1067号「叙任及辞令」1916224日。</ref>
* [[1901年]](明治34年)[[11月30日]] - [[瑞宝章|勲五等瑞宝章]]<ref>『官報』第5525号「叙任及辞令」1901122日。</ref>
* [[1905年]](明治38年)[[5月30日]] - [[瑞宝章|勲四等瑞宝章]]<ref>『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。</ref>
* [[1915年]](大正4年)
** [[2月26日]] - [[瑞宝章|勲二等瑞宝章]]<ref>『官報』第770号「敍任及辞令」1915年2月27日。</ref>
** [[11月7日]] - [[金鵄勲章|功二級金鵄勲章]]・[[旭日章|旭日重光章]]・[[従軍記章#大正三四年(大正三年乃至九年戦役)従軍記章|大正三四年従軍記章]]<ref>『官報』第1067号「叙任及辞令」1916年2月24日。</ref>
* [[1920年]](大正9年)[[11月1日]] - [[勲一等旭日大綬章]]・[[従軍記章#大正三四年(大正三年乃至九年戦役)従軍記章|大正三年乃至九年戦役従軍記章]]<ref>『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。</ref>
* [[1920年]](大正9年)[[11月1日]] - [[勲一等旭日大綬章]]・[[従軍記章#大正三四年(大正三年乃至九年戦役)従軍記章|大正三年乃至九年戦役従軍記章]]<ref>『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。</ref>
* [[1921年]](大正10年)[[7月1日]] - [[記念章#第一回国勢調査記念章|第一回国勢調査記念章]]<ref>『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。</ref>
* [[1921年]](大正10年)[[7月1日]] - [[記念章#第一回国勢調査記念章|第一回国勢調査記念章]]<ref>『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。</ref>
68行目: 77行目:


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Hanzō Yamanashi}}
* {{Kotobank}}
* {{Kotobank}}


102行目: 112行目:
{{陸軍大臣}}
{{陸軍大臣}}
{{Normdaten}}
{{Normdaten}}

{{DEFAULTSORT:やまなし はんそう}}
{{DEFAULTSORT:やまなし はんそう}}
[[Category:大日本帝国陸軍大将]]
[[Category:大日本帝国陸軍大将]]
[[Category:19世紀の軍人]]
[[Category:20世紀の軍人]]
[[Category:大正時代の閣僚]]
[[Category:大正時代の閣僚]]
[[Category:日本の陸軍大臣]]
[[Category:日本の陸軍大臣]]
111行目: 124行目:
[[Category:日独戦争の人物]]
[[Category:日独戦争の人物]]
[[Category:第一次世界大戦期の日本の軍人]]
[[Category:第一次世界大戦期の日本の軍人]]
[[Category:勲一等旭日大綬章受章者]]
[[Category:功二級金鵄勲章受章者]]
[[Category:陸軍大学校の教員]]
[[Category:陸軍大学校出身の人物]]
[[Category:陸軍士官学校 (日本)出身の人物]]
[[Category:相模国の人物]]
[[Category:相模国の人物]]
[[Category:神奈川県出身の人物]]
[[Category:神奈川県出身の人物]]
[[Category:勲一等旭日大綬章受章者]]
[[Category:1864年生]]
[[Category:1864年生]]
[[Category:1944年没]]
[[Category:1944年没]]

2024年6月8日 (土) 12:15時点における最新版

山梨やまなし 半造はんぞう
山梨 半󠄁造󠄁
生年月日 1864年4月6日
元治元年3月1日
出生地 日本相模国大住郡下島村
(現:神奈川県平塚市下島
没年月日 (1944-07-02) 1944年7月2日(80歳没)
死没地 日本の旗 日本神奈川県鎌倉市
出身校 陸軍大学校卒業
前職 陸軍軍人
称号 陸軍大将
正三位
勲一等旭日大綬章
功二級金鵄勲章
親族 山梨安兵衛(父)
田村怡与造(義父)
本間雅晴(義弟)

第4代 朝鮮総督
在任期間 1927年12月10日 - 1929年8月17日

日本における郵船商船規則の旗 第15代 陸軍大臣
内閣 原内閣
高橋内閣
加藤友三郎内閣
在任期間 1921年6月9日 - 1923年9月2日
テンプレートを表示

山梨 半造(やまなし はんぞう、旧字体山梨 半󠄁造󠄁1864年4月6日元治元年3月1日) - 1944年昭和19年)7月2日)は、日本陸軍軍人政治家

陸軍大臣(第15代)、朝鮮総督(第4代)を歴任した。最終階級は陸軍大将栄典正三位勲一等功二級

略歴

[編集]
山梨半造による碑文が書かれた尼港殉難者記念碑

相模国大住郡下島村(現在の神奈川県平塚市下島)にて山梨安兵衛の二男として出生。耕余塾卒業後、1886年明治18年)6月、陸軍士官学校(旧8期、士官生徒8期)を卒業、歩兵少尉に任官し歩兵第5連隊付となる。1892年(明治24年)12月、陸軍大学校(8期)を卒業、恩賜の軍刀を拝受した。

日清戦争に歩兵第4旅団副官として出征し歩兵第5連隊中隊長第2軍副官、占領地総督部副官を歴任し帰国した。参謀本部第4部員、兼陸大教官、ドイツ駐在、陸大教官などを経て日露戦争時には第2軍参謀として出征し同軍参謀副長、第3師団参謀長を歴任した。

オーストリア公使館付、ドイツ大使館、陸大幹事、歩兵第51連隊長などを経て1911年(明治44年)9月、陸軍少将に進級。歩兵第30旅団長、歩兵第1旅団長、参謀本部総務部長などを歴任し第一次世界大戦において独立第18師団参謀長として青島に出征、その軍功により功二級を賜る。教育総監部本部長などを経て1916年大正5年)5月、陸軍中将に昇進し陸軍次官、兼航空局長官を歴任。

1921年(大正10年)10月、原内閣の陸軍大臣となり同年12月に陸軍大将に進級し高橋内閣加藤友三郎内閣にも留任。1922年(大正11年)8月と翌年4月の2度にわたり陸軍史上初の軍縮(「山梨軍縮」)を実行。

軍事参議官を経て、関東大震災に伴い福田雅太郎司令官の後任として関東戒厳司令官に就任した。東京警備司令官、軍事参議官を経て1925年(大正14年)5月25日[1]予備役編入される。 その後、陸軍機密費横領問題を通じ、田中義一とともに告発されるが、1926年(昭和元年)12月27日に不起訴処分となる[2]

1927年(昭和2年)12月10日に朝鮮総督となった。その直後、立憲民政党により米穀商が京城に取引所を開設するために山梨の側近を通じて5万円(当時)を贈賄したとする朝鮮総督府疑獄が暴露され辞任。米穀商と側近は執行猶予つきの有罪、山梨本人は無罪となった。

1934年(昭和9年)4月に退役。1944年(昭和19年)、神奈川県鎌倉市の自宅にて死去。享年81。墓所は東京都杉並区永福築地本願寺和田堀廟所

栄典

[編集]
位階
勲章等

家族親族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 『官報』第3825号「叙任及辞令」1925年5月26日。
  2. ^ 機密費事件は証拠不十分で不起訴に決定『東京朝日新聞』昭和元年12月28日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p380-381 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  3. ^ 『官報』第1034号「叙任」1886年12月9日。
  4. ^ 『官報』第2571号「叙任及辞令」1892年1月28日。
  5. ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
  6. ^ 『官報』第5304号「叙任及辞令」1901年3月12日。
  7. ^ 『官報』第6422号「叙任及辞令」1904年11月25日。
  8. ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
  9. ^ 『官報』第8502号「叙任及辞令」1911年10月21日。
  10. ^ 『官報』第1158号「叙任及辞令」1916年6月12日。
  11. ^ 『官報』第658号「叙任及辞令」1921年6月11日。
  12. ^ 『官報』第3259号「叙任及辞令」1923年6月12日。
  13. ^ 『官報』第3888号「叙任及辞令」1925年8月8日。
  14. ^ 『官報』第5525号「叙任及辞令」1901年12月2日。
  15. ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
  16. ^ 『官報』第770号「敍任及辞令」1915年2月27日。
  17. ^ 『官報』第1067号「叙任及辞令」1916年2月24日。
  18. ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
  19. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。

外部リンク

[編集]
公職
先代
田中義一
陸軍大臣
第27 - 29代:1921年6月9日 - 1923年9月2日
次代
田中義一
先代
宇垣一成
朝鮮総督
第4代:1927年12月10日 - 1929年8月17日
次代
斎藤実
軍職
先代
福田雅太郎
関東戒厳司令官
第2代:1923年9月20日 - 同11月16日
次代
廃止
先代
新設
東京警備司令官
初代:1923年11月16日 - 1924年8月20日
次代
菊池慎之助