ASジャミネイロ(エイエス・ジャミネイロ AS Jamineiro、旧 アフロスター・ジャミネイロ Afro Star Jamineiro)は、新潟県新潟市を拠点に活動している社会人サッカークラブ。チーム名の「ジャミネイロ」は、ジャミ[1]というニックネームの青年が、草サッカーの試合で同じミスを繰り返し連発し、チームは敗戦。試合後、一人泣き濡れる姿にチームメイトが感銘を受け、これは本格的にサッカーをやらねばと決意。せっかくなら南米(ブラジル)スタイルを目指そうと、いかにもブラジルっぽい響きのクルゼイロECと合わせ、「ジャミネイロ」と命名。北信越フットボールリーグ2部に所属する。

ASジャミネイロ
原語表記 ASジャミネイロ
愛称 ジャミネイロ
クラブカラー  
創設年 2003年
所属リーグ 北信越フットボールリーグ
所属ディビジョン 2部
ホームタウン 新潟県新潟市
ホームスタジアム
グランセナ新潟サッカースタジアム
聖籠スポーツセンター
代表者 浅妻信
監督 浅妻信
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

歴史

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アルビレックス新潟のJ1昇格に沸く2003年秋に、アルビレックス新潟のサポーターを中心とした草サッカー好きらが集まり結成。2004年から新潟県リーグ4部に登録。リーグ参戦初年度は大敗が続き1勝しかできず最下位であった。この成績をもって監督の篠崎徹は1シーズンで解任。翌年、クラブ発足時から部長、平成国際部長[2][3]を歴任してきた小野直樹が監督に就任した。2005年は最下位を脱したものの、わずか2勝に留まり責任を取る形で小野は辞任。2006年シーズンは、浅妻信がプレーイングマネージャーとして監督に就任した。浅妻はトレーニングの改善や選手補強に手腕を発揮しチームを4位に躍進させる。以後、2007年新潟県リーグ4部Aの2位となり3部Aに昇格。2008年には2部昇格。2009年に1部昇格と毎年昇格を重ねた。2010年には新潟県リーグ1部で優勝を決め、北信越サッカー県リーグ決勝大会(北信越チャレンジリーグ)に進出、2位の成績で北信越フットボールリーグへの昇格を果たした。しかし北信越の壁は高く、2011年はわずか2勝に終わり1年での降格となった。 県リーグ1部への出戻りシーズンとなった2012年は序盤2試合で勝ち点2と低調なスタートとなった。しかしもはや伝統と言えるポゼッションスタイルに新戦力も徐々にフィット。後半の失速・失点は相変わらずであったが、それをしのぐゲーム内容を見せ怒涛の4連勝で首位に立つ。最終節はまさかのラストプレーでミスから期待通りに失点。相変わらずの勝負弱さを露呈したが、得失点差で渋く優勝を手にした。ただし、あまりに渋い優勝のため、祝勝会は中止になった。

結成10年目となった2013年シーズンはかねてからの課題であった好ゲーム中での連続失点癖を改善するべく東京都国体選手の経験もあるGK勝部和気の補強に成功。すると飛躍的に守備が強化され、2013年シーズンの総失点数は同リーグ2位の実績を残す。ASジャミネイロ=守備に難点のあるチームと認識していた周囲のチームは、もはや守備のチームと化したASジャミネイロに度肝を抜かれる形となった。 内容に結果が付いてくる形でシーズンを戦い6勝2分6敗で4位となり、過去最高成績で北信越リーグ2部に残留した。

元々、アルビレックスのサポーターが中心となって結成されたチームであるが、その後、現役を引退し、新潟に戻ってきた元アルビレックス選手が所属するなど、アルビレックス新潟とサポーターを結ぶ立ち位置を持つチームであると同時に、古町のカフェなど、それまでサッカーに全く興味のない人をも巻き込んだサブカルチャーの香り漂うチームである。所属選手も、元Jリーガーから元アルビレオ新潟、元野球部、市議会議員、芸人、アルビレックスのコールリーダーまで多種多彩。

チーム成績・歴代監督

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リーグ戦

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年度 所属 試合 勝点 得点 失点 順位 監督
2004 新潟県4部A 10 4 1 1 8 10位 篠崎徹
2005 新潟県4部B 9 8 2 2 5 14 14 0 8位 小野直樹
2006 新潟県4部B 4位 浅妻信
2007 新潟県4部A 2位
2008 新潟県3部A 9 21 7 0 2 22 17 +5 優勝
2009 新潟県2部 9 22 7 1 1 33 9 +24 2位
2010 新潟県1部 7 16 5 1 1 29 6 +23 優勝
2011 北信越2部 14 7 2 1 11 15 45 -30 8位
2012 新潟県1部 7 14 4 2 1 19 11 +8 優勝
2013 北信越2部 14 20 6 2 6 27 22 +5 4位
2014 14 21 6 3 5 26 28 -2 3位
2015 14 15 4 3 7 26 34 -8 5位
2016 14 15 4 3 7 17 35 -18 5位
2017 14 8 2 2 10 18 43 -25 7位
2018 新潟県1部 9 10 3 1 5 22 28 -6 6位
2019 9 19 6 1 2 31 14 +17 3位
2020 優勝
2021 北信越2部 14 14 4 2 8 24 30 -6 7位 浅妻信
2022 新潟県1部 9 優勝
2023 北信越2部 13 14 3 4 7 18 40 -22 7位 浅妻信
  • 出場1回
年月日 時期 会場 スコア 対戦相手
17 2010年10月31日 2回戦 新潟聖籠スポーツセンター 3-1 龍野FC (兵庫)
2010年11月1日 準々決勝 サンスポーツランドしばた 0-2 アンソメット岩手・八幡平 (岩手)

タイトル

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リーグ戦

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所属選手・スタッフ

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2023年

スタッフ

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役職 名前 前職 備考
代表   浅妻信 ASジャミネイロ 選手 ASジャミネイロ創設者
代表兼監督
監督
ヘッドコーチ   長島敦久 新潟蹴友会 選手
コーチ   角直也 ASジャミネイロ 選手
  阿部孝亨 ASジャミネイロ 選手
  朴成仁 ASジャミネイロ 選手
  神田修吉
フィジカルコーチ   山上泰明 ASジャミネイロ 選手

選手

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Pos No. 選手名 前所属 備考
GK 1   太田和輝 新潟経営大学
12   平田瑛士 NIIGATA J.S.C
47   内山将 加茂暁星高校
DF 2   小嶋健 新潟江南高校
5   桾澤海 グランセナ新潟FC
16   深澤秀文 専修大学
23   堀川空 日本文理高校
24   岡田祐緒 日本文理高校
26   齋藤駿佑 新潟向陽高校
MF 4   大野伊吹 新潟西高校
7   原田拓 '05加茂FC
10   伊藤史紀 新潟経営大学
14   須田航 十日町FC
18   柏倉優 新潟経営大学
19   諸橋誇雲 日本文理高校
22   佐々木広海 新潟西高校
25   佐々木蓮太郎 '05加茂FC
28   宮村達也 東京学館新潟高校
31   田中優 新潟経営大学
36   神山瑛央 '09経大FC
40   熊谷清太 巻高校
FW 8   五百澤洸介 新潟経営大学
9   長谷川翔太 高志高校
11   渡辺大河 新潟工業高校
13   真保瑠輝 新潟明訓高校
17   小澤敦哉 東京学館新潟高校
30   小林陽翔 巻高校
46   加藤風人 新潟経営大学

歴代所属選手

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ユニフォーム

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ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st)
FP(2nd)
GK(1st)
GK(2nd) グレー グレー グレー
 
 
 
 
 
FP 1st
 
 
 
 
 
FP 2nd
 
 
 
 
GK 1st
 
 
 
 
GK 2nd

結成初年度に当たる2004年は秋口までオリジナルTシャツでの参戦であったが秋口にようやくアスレタの1stユニフォームが届く。しかし県リーグ等の正規のリーグレギュレーションを理解しないまま作ったユニフォームであったため「緑-白のストライプ」という[4]禁断のカラーであった。

2008年よりセカンドユニを導入。横縞ストライプという当時としては珍しいデザインだが、このユニフォームは2005年まで新潟県1部リーグに所属していたFC JEROSのユニフォームを譲り受けたものであった。

2011年より諸問題をクリアすべく現在のメインカラーとなっているジャミネイログリーンの配色にチェンジ。

2014年よりJOMA(ホマ)が正式にユニフォームサプライヤーとなり、北信越2部にしてユニフォーム提供を受ける事になった。胸スポンサーは東京のプロモーション事務所である「エイヤード」が、背中スポンサーには「かるべ鍼灸接骨院」とフットサル専門店の「QUARTO」が入った。またチームエンブレムも刷新されている。

 
ジャミネイロ新ユニフォーム発表会

チームカラー

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  • ジャミネイログリーン

スポンサー

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  • エイヤード
  • かるべ鍼灸接骨院

院長の苅部俊男(かるべ としお)はジャミネイロのスポーツトレーナー兼メディカルスタッフでもある。その治療スタイルから「アミバ」と呼ばれ、地域住民に親しまれている。少林寺拳法全国大会に三度出場。

  • QUARTO

店長は新潟サッカー界の貴公子として名高い堀川貴康(ほりかわ たかやす)。法人化前のアルビレオ新潟に在籍していた。現在はジャミネイロに在籍している。 クアルト自体はフットサルショップでフットサルチーム「cabella NIIGATA F3」をサポートしているがチームメンバー同士の交流が深い事もあり、サッカーチームとしてはASジャミネイロをサポートしている。

サポーター

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チーム結成初年度よりウルトラJB[5]と呼ばれる熱狂的サポーターが応援に駆け付け、熱いサポートを送ってきた。JBとは「ジャミネイロ・ボーイ」の略。サポーターグループとして有名なURAWA BOYSと異なり単数形である。理由は「一人だから」とのこと。近年は出没回数も減ってきてはいるものの、クラブ史上最高の大一番となった北信越チャレンジリーグの最終戦では、ガラガラのバックスタンド芝生席を自由自在に走り回るなど、アウェイ長野の地で熱狂的なサポートを披露。見事チームを地域リーグ昇格に導いた。でも、その段階でもやっぱり単数であった。

エピソード

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  • 元々は、なんとなく格好いいという理由だけで、ジャミネイロの前に「AS」を付けた。「アフロスター・ジャミネイロ」で登録したのは、登録用紙にカナをふる必要があったためであくまで「洒落」であったが、代表が公式の場であまりにも多くの人に「アフロさん」と呼ばれるのを嫌って、「エイエス」を宣言した。
  • 2004年、2005年のシーズンはジャミネイロに負けたチームはすべて翌年解散。「このチームに負けたら終わり」というある意味「デスノート」的なチームであった。実際、この年まで1勝するごとに大宴会を開いていたという。
  • 初代監督の篠崎徹は、チーム名を決めるときの飲み会にたまたま同席していて、「選手じゃないけど黙っていると結構いい男だし」という理由だけで酒の力を借りた勢いで就任。その後東京に転勤になり初年度はわずか1試合、しかもベンチに入らず観客席でビールを飲みながら観戦という体たらく。ところがその試合が初年度唯一の勝利試合だったため、シーズン終了後実績を理由に続投を訴えたが、満場一致で解任された。
  • 初年度はシーズン前に発注したユニフォームがなかなか届かず、結局、シーズンのほとんどをTシャツ[6]で戦った。雨の日のゲームは悲惨だった。
  • 初年度なかなか勝てない成績に業を煮やし、夏季キャンプを実施。これぞ穴場としか言いようのない山中で強化合宿を行ったが、宿舎の用意してくれたバスが年季の入った、そして運転手も怪しさ抜群で、どう見てもビートたけしのお笑いウルトラクイズに登場するようなウルトラバスであった。実際、路肩のない細い山道を走る際は車内で絶叫が起き、特に運転手が道を誤り、途中で大胆にも切り返しを行ったときが絶叫のピークを記録した。ちなみに初日午前中以外は豪雨となり、チーム強化には全く結びつかない合宿だった。
  • 門戸を大きく開いたチームの象徴的なエピソードであるが、チーム創設時、一般応募で45歳の素人のアルビレックスサポーター[7]が入ってきた。4部リーグは交代が7人制だったため、とりあえずFWとして先発させ、ボールタッチしたら交代しようという配慮の下で試合出場を果たしたが、なかなかボールに触れず苦戦は明らかであった。そんな中、味方の絶妙なスルーパスが炸裂。ベンチから歓声が上がったが、その瞬間突如彼が姿を現し、そのボールをカット。あっという間にチャンスを潰した。その後、交代を命じられたが、スター選手のように両手を頭の上で叩きながら退場していった。
  • 3部優勝を飾った2007年シーズンはシーズンイン直前の段階で正GKがアキレス腱損傷。控えキーパーがいなかったためGKはタニマチ会員[8]から選手に強制的に登録させられたパンサー会員であった。しかし会員改めパンサー選手はサッカー経験ゼロのど素人にもかかわらず全試合フル出場と2部リーグ昇格に貢献しシーズン終了後見事MVPに選ばれた。
  • 北信越リーグでは惨敗する試合が多かった。しかし決して全てが通用していなかったわけではなく、チャンスメイクやボールポゼッションでは対戦相手とほぼ互角に渡り合うシーンも多くみられた。シーズン中盤以降は歯車が狂い始め、ひとたび失点するとわずか数分の間に2点3点と立て続けに失点する「ジャミネイロタイム」を連発。大量失点での負け試合が恒例となってしまった。

脚注

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  1. ^ チーム結成の経緯から、初代主将に任命されたが、権限は全くなく、文字通り名前だけの主将であった
  2. ^ 各選手の保険手続き、当日の水くみ等の諸雑務を行っていた。当初はただの「部長」であったが、敗戦続きの責任を取り部長を降りた。しかし直後に「平成国際部長」としてあっさり復活している。
  3. ^ 水は県内の「穴場」と呼ばれる場所で試合当日わざわざ汲み上げるほどの凝りよう。「ANabaWater(穴場の水)」としてクラブオフィシャルグッズ化する案もあったが衛生問題、手間などでとん挫。
  4. ^ 白は通常セカンドユニフォームカラーに含まれる事が多い。その為「セカンドを選択した対戦相手と色が被る」という理由から上位リーグではコミッショナー会議で難色を示されることが多く、ファーストユニでこの色を採用することは通常ありえない。
  5. ^ オフィシャルブログのコラム:ウルトラJBより 選手、スタッフからは尊敬の念を込め「さん」付けで呼ばれる
  6. ^ 2004年シーズン秋口の映像:主将生まれたての小鹿より
  7. ^ ダンディというニックネームで呼ばれ、合宿にも参加した。練習のフル参加は難しかったが、かなり立派なキャンプ用テントを持参し、そこでしばし休憩していた。そのテントはチームメイトからダンディハウスと呼ばれていたが、昼食に行っている間に集中豪雨に遭い、戻ってきたらダンディハウスは水没していた
  8. ^ 選手登録の意思はないが部費だけ払いメンバーとみなす制度。

外部リンク

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