黒川通軌

日本陸軍の軍人

黒川 通軌(くろかわ みちのり、1843年2月12日天保14年1月14日) - 1903年3月6日[1])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将男爵

黒川通軌

経歴

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伊予小松藩士・黒川定之丞の長男として生れる[2]。小松藩権少属を経て、明治政府に出仕し、兵部省糾問少佑、糾問大佑、糾問権正、糾問正を歴任し、1872年陸軍省6等出仕・陸軍裁判所評事兼勤となる。陸軍裁判所長、軍馬局長などを歴任し、西南戦争では別働第4旅団長官代理として出征、さらに別働第2旅団参謀長を務めた。1878年11月、陸軍少将に昇進。

広島鎮台司令官、中部監軍部長心得などを歴任し、1885年5月、陸軍中将。名古屋鎮台司令官、第3師団長、第4師団長などを経て、1893年11月、東宮武官長兼東宮大夫に就任。1897年10月に休職した。1902年10月21日、予備役に編入[3]

1887年(明治20年)5月24日、勲功により男爵に叙され華族となった[2][4]。1903年(明治36年)3月6日没、61歳。

栄典

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家族・親族

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嗣子の黒川幹太郎貴族院議員を務めた。幹太郎の死後は養子の黒川秀雄(黒川通幸長男)が跡を継いだが、秀雄が1937年(昭和12年)に没したあと襲爵の手続きがなされなかった[2]下落合にあった黒川家下屋敷は1940年に精神科医高良武久が買い、森田療法の病院「高良興生院」を開業した[12]

脚注

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  1. ^ 黒川通軌”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2014年4月2日閲覧。。平成新修旧華族家系大成では3月8日没とする。
  2. ^ a b c d e 平成新修旧華族家系大成』上、p.559
  3. ^ 『官報』第5792号、明治35年10月23日。
  4. ^ 『官報』第1169号、明治20年5月25日。
  5. ^ 陸軍少将黒川通軌外六名勲二等ニ進叙」 アジア歴史資料センター Ref.A15110025500 
  6. ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
  7. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  8. ^ 『官報』第2971号「叙任及辞令」1893年5月27日。
  9. ^ 『官報』第4293号「叙任及辞令」1897年10月21日。
  10. ^ 黒川穣『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  11. ^ 朝長勘十郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  12. ^ 『誕生を待つ生命』高良美世子、 高良留美子 自然食通信社 2016, p403

参考文献

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外部リンク

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公職
先代
奥保鞏
  東宮武官長
1893年 - 1897年
次代
黒田久孝
軍職
先代
高島鞆之助
  第四師団長
1891年 - 1893年
次代
能久親王
先代
黒川通軌
名古屋鎮台司令官
  第三師団長
1888年 - 1891年
次代
桂太郎
先代
滋野清彦
  名古屋鎮台司令官
1885年 - 1888年
次代
黒川通軌
第三師団長
先代
曽我祐準
部長
  中部監軍部長心得
1883年 - 1885年
次代
(廃止)
先代
井田譲
  広島鎮台司令官
1881年 - 1883年
次代
野崎貞澄
先代
桐野利秋
  陸軍裁判
1873年 - 1880年
次代
堀尾晴義
先代
(新設→欠員)
  糺問
1871年 - 1872年
次代
谷干城
陸軍裁判長
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
黒川(通軌)家初代
1887年 - 1903年
次代
黒川幹太郎