高崎藩
概要
編集交通の要所でもあり、有力な譜代大名が封じられた。井伊家、酒井家、戸田松平家、藤井松平家、安藤家、間部家、大河内松平家が藩主となった。また、飛び地領として銚子に5000石ほどあり、飯沼陣屋を設置して知行した。
歴代藩主
編集井伊家
編集譜代 12万石
酒井家
編集譜代 5万石
戸田松平家
編集譜代 5万石
藤井松平家
編集譜代 5万石
安藤家
編集譜代 5万6千石
大河内松平家
編集譜代 5万2千石→6万2千石→7万2千石
間部家
編集譜代 5万石
大河内松平家
編集譜代 7万2千石→8万2千石
幕末の領地
編集高崎五万石騒動
編集明治2年(1869年)10月に発生した一揆。古領の農民は「八公二民」という重い年貢が課せられており、明治2年の凶作を契機に騒動へと発展。佐藤三喜蔵・高井喜三郎・小島文次郎の3人が主導者となった。このとき用いられた傘連判状や旗は、高崎市の文化財に指定されている[1][2][3]。
脚注
編集- ^ “小島家五万石騒動関係文書”. 高崎市. 2016年12月22日閲覧。
- ^ “五万石騒動の旗”. 高崎市. 2016年12月22日閲覧。
- ^ 高崎市立中央図書館 (2016年12月3日). “高崎五万石騒動についての文献を知りたい。”. レファレンス協同データベース. 2016年12月22日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集先代 (上野国) |
行政区の変遷 1590年 - 1871年 (高崎藩→高崎県) |
次代 群馬県(第1次) |