陳郡
概要
編集秦代に成立した淮陽郡を前身とする。前漢および後漢の初期には、中央から派遣された郡守の統治する淮陽郡と諸侯の領地である淮陽国が繰り返し置かれた。88年(後漢の章和2年)、西平王劉羨が陳王となり、淮陽郡を食封としたため、淮陽郡は陳国と改められた[1]。後漢の陳国は、陳・陽夏・寧平・苦・柘・新平・扶楽・武平・長平の9県を管轄した[2]。
西晋が建国され、司馬肜が梁王となると、陳郡は梁国に編入された[3]。302年(永寧2年)に梁王司馬肜が死去すると、陳郡の称に戻された。東晋に入ると、陳郡は後趙・前燕・前秦といった五胡の諸国の支配を受けたため、東晋は合肥に陳郡を僑置することとなる。これについては次節に述べる。劉裕の北伐が成功すると、陳郡は東晋の支配に戻った。
南朝宋のとき、陳郡は豫州に属し、項・西華・穀陽・萇平の4県を管轄した[4]。北魏の勢力が伸長すると、陳郡の支配は南朝の手から失われた。
東魏のとき、陳郡は北揚州に属し、項・萇平・西華・襄邑の4県を管轄した[5]。北斉のとき、北揚州は信州と改称され、陳郡は信州に属した。北周のとき、信州は陳州と改称され、陳郡は陳州に属した。
僑置陳郡
編集六朝時代、陳郡の本貫の地が対立する王朝に奪われていたとき、本貫を離れた南方の土地に陳郡とその属県が置かれた。
南朝宋のとき、陳郡は南豫州に属し、項・西華・陽夏・穀陽・萇平の5県を管轄した[4]。