銀座母娘殺し事件
銀座母娘殺し事件(ぎんざおやこころしじけん)とは、1956年(昭和31年)1月18日に日本の東京都中央区銀座で発生した強盗殺人事件。
事件の概要
編集1956年1月18日午後1時頃、東京・銀座の第二東京弁護士会副会長磯部常治[1](当時61歳。帝銀事件で平沢貞通の弁護人を担当)の自宅で妻(当時52歳)の絞殺体と大学4年生の次女(当時22歳)の刺殺体を帰宅した三女が発見し警察に急報した。
築地署員が駆けつけ捜査を開始したところ、同家は1階から3階にかけて物色された痕で荒らされており妻はネクタイで絞殺されており、階下にいた次女は鋭利な刃物で胸や肩など8か所にわたり刺されており、現金、六法全書、衣類などが盗み出されていることから怨恨ではなく金目当ての強盗とみて付近の聞き込み捜査を始めた。
その2日後の1月20日に窃盗などで前科2犯の男B(当時27歳)が逃亡先の名古屋で警察に自首し現行犯逮捕された。
事件の動機
編集Bは中華飯店で知り合った女性と結婚しようと考えた。だが、自分の給料では結婚など出来ず、以前出前に行った副会長宅への強盗を計画した。犯行当日、表玄関から侵入したところ副会長に発見されたが、何とかごまかし、副会長は、葬儀に出かけるところだったので、改めて来るようにとBに伝えて外出した。
その後、Bは副会長宅に戻り2階にいた妻をネクタイで絞殺し、金品を盗みだして玄関から出ようとしたところにちょうど帰宅した次女と鉢合わせ。このためBは台所にあった包丁で次女を刺し殺した。
Bは犯行後の良心の呵責に耐えかね警察に自首した。
事件の影響
編集この事件で妻子を失った磯部は、「自分自身が犯罪被害者となったが、私は死刑廃止を支持する。囚人にも親や兄弟がいる。」と発言し、死刑廃止を堅持した。
判決
編集1956年(昭和31年)3月3日に東京地方裁判所(安村裁判長係)で、強盗殺人罪と別件の詐欺罪に問われた被告人Bの初公判が事件発生から46日ぶりに開かれ、磯部は証人として出廷、同じ弁護士会の大竹武七郎が国選弁護人を担当した[2]。第2回公判は同月29日に開かれた[3]。
同年5月22日の公判で論告求刑が行われ、検事の竹内はBに死刑を求刑、Bも自ら死刑を望む旨を述べた一方、弁護人の大竹は事件については全く弁解の余地はないとしながらも自首を認定するよう求めた[4]。判決は6月21日に予定されていたが、同日の公判で安村はBが犯行時、精神に異常があったかどうか調べたいとして、職権で総武病院院長・竹山恒寿に精神鑑定を依頼した[5]。同年11月20日、東京地裁はBに死刑を言い渡した[6]。Bは控訴せず、同年12月5日に死刑が確定し、1960年7月17日に宮城刑務所で死刑が執行された[7]。当時、最高裁や高裁まで上訴せず第一審の判決だけで死刑が確定することは異例とされた[8]。
脚注
編集- ^ 姜建強 (2015年5月29日). “好文嚴選:日本人對死刑的追問(下)” [好文厳選:日本人が死刑の問いに答える(下)] (中国語). 風傳媒. 2019年12月8日閲覧。
- ^ 『読売新聞』1956年3月3日東京朝刊第14版7頁「きょう初公判 母娘殺し 磯部弁護士は証人に」(読売新聞東京本社)
- ^ 『朝日新聞』1956年3月3日東京夕刊第3版3頁「銀座母娘殺し 初公判開く」(朝日新聞東京本社)
- ^ 『朝日新聞』1956年5月23日東京夕刊第12版7頁「“どうか死刑に”とB 銀座母娘殺し 検事も死刑求刑」(朝日新聞東京本社)
- ^ 『朝日新聞』1956年6月21日東京夕刊第3版3頁「銀座の母娘殺し判決延期」Bを精神鑑定へ(朝日新聞東京本社)
- ^ 『朝日新聞』1956年11月20日東京夕刊第3版3頁「東銀座の母娘殺し Bに死刑の判決 頭たれ“すみません”」(朝日新聞東京本社)
- ^ 森川哲郎『獄中三十二年 : 「死刑囚」平沢と共に生きて』(現代史出版会、1980年)p.88
- ^ 『読売新聞』1956年12月4日東京朝刊第14版7頁「銀座の母娘殺し B 死刑きょう確定? “一審の判決に感謝“ 異例 控訴ことわる」「“念仏”となえ送る 磯部弁護士の話し」(読売新聞東京本社)