鈴木健 (内野手)

日本の野球解説者、元プロ選手 (1970-)

鈴木 健(すずき けん、1970年1月13日 - )は、埼玉県越谷市[2]出身の元プロ野球選手内野手)、野球解説者。右投左打。

鈴木 健
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 埼玉県越谷市
生年月日 (1970-01-13) 1970年1月13日(54歳)
身長
体重
188 cm
95 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 三塁手一塁手二塁手[1]
プロ入り 1987年 ドラフト1位
初出場 1989年6月20日
最終出場 2007年10月4日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

TCP-ARTISTと業務提携している。

経歴

プロ入り前

中学校時代は「越谷リトルシニア」に所属し、浦和学院高等学校に進学[2]。当時の日本最多記録である高校通算本塁打83本を放った[3]。2年の時の1986年第68回全国選手権に四番打者、一塁手として出場。同期のエース谷口英功東洋大東芝)の好投もあって準々決勝に進み、高知商岡林洋一を打ち崩し完封勝ち。しかし準決勝では、水口栄二佐野重樹のいた松山商に大敗[4]。3年の時の1987年三塁手に回り、第69回全国選手権に連続出場。2回戦でエース伊良部秀輝を擁する尽誠学園高に敗退した[4]

1987年のドラフト会議で、西武ライオンズから1位指名を受けて入団[2]。当初は早稲田大学進学を示唆していたために、逸材ながらも他球団からはノーマークであったが、地元埼玉県出身の強打者として鳴り物入りでの入団だった。

西武時代

2年目の1989年6月20日のオリックス・ブレーブス戦で一軍初出場を果たした。同年は8試合の出場に終わったが、初安打を記録し、オフに米1A・サンノゼビーズに留学した[2]

1990年は、ファーム打率.364を記録し、一軍の試合には11試合出場した。

1991年は、打率.401を記録し2年連続でイースタン・リーグ首位打者を獲得[2]。一軍ではプロ初打点、そして9月23日の近鉄バファローズとの首位攻防戦で同点弾となるプロ初本塁打を放った。

1992年、69試合に出場し成績は打率.261、5本塁打、12打点。西武は黄金期を迎え、一塁に清原和博、三塁に石毛宏典指名打者にもオレステス・デストラーデら不動のレギュラーがおり、なかなか出場機会に恵まれなかったが、ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは、第6戦で3点本塁打を放っている。

1993年は、主砲のデストラーデが退団し、空席になった指名打者を新外国人や対左投手用選手との併用で勤めた。規定打席には届かなかったが、初めて100試合以上に出場し打率.270、13本塁打を記録した。2年連続の顔合わせとなったヤクルトスワローズとの日本シリーズでは、第5戦で満塁本塁打を放っている。

1994年も、新外国人選手等の併用であったが、102試合に出場し規定打席不足ながら打率.350、12本塁打をマークした。同年7月24日の対千葉ロッテマリーンズ戦では5-5の同点の延長10回一死一塁の打席で成本年秀から代打サヨナラ2点本塁打を放った[5]

1995年、三塁手のレギュラーだった石毛がFA退団し、三塁のポジションを獲得。打率.252と前年より大きく落とすも、プロ入り初の規定打席(リーグ19位)に到達した。チームは阪神淡路大震災から復興を目指し一致団結して戦うオリックスの快進撃を前になかなか波に乗れず、1989年以来の優勝を逃す3位でシーズンを終了した。

1996年は、守備が不安視され三塁には新外国人のスコット・クーパーが入るも、怪我で守備に就けない佐々木誠が指名打者に入ったことや、クーパーが攻守に精彩を欠いたことから、8月から再び三塁の守備に就きチームトップの打率.302(4位)、本塁打も左打者ではチームトップの21本塁打をマークした。

1997年、FAで読売ジャイアンツへ移籍した清原和博の後を継いで東尾修監督から4番に起用され、5月18日の対千葉ロッテマリーンズ戦では3回にマイク・フィアリーから、6回に竹清剛治から、8回に後藤利幸から3打席連続本塁打[6]、10月3日の対福岡ダイエーホークス戦では、1-1の同点の延長10回無死無走者の打席で吉武真太郎からサヨナラ本塁打を放ちリーグ優勝を決めた[7]。自身は打率.312(3位)、19本塁打、94打点と自己最高成績を残し、出塁率.431はリーグ最高記録で、最高出塁率タイトルを獲得。ベストナインも受賞した。

1998年は、プロ入り初の135試合フル出場を果たし、打率は3割を切ったが2年ぶりに本塁打が20本を超え、リーグ連覇に貢献した。

1999年、打点は上回ったが、ドミンゴ・マルティネスの退団によりマークがきつくなったことも影響し、前年より打率と本塁打は大幅に減少。以降西武での成績は低迷する。同年オフからは、プロゴルファー・尾崎将司が率いる「ジャンボ軍団」の自主トレに参加している。

2000年は、4月1日の日本ハムファイターズとの開幕戦で5-5の同点の延長10回一死満塁の打席で下柳剛からサヨナラ安打を放つ[8]が、シーズンを通しては打撃不振で打順も4番を外れ下位に回り、辛うじて規定打席には達したものの100安打を割り、本塁打も1992年以来8年ぶりに2桁に届かなかった。

2001年は、前年同様不振で100安打に到達しなかった。本塁打も18本打ったものの打率.252とアベレージは低く、1994年以来7年ぶりに規定打席を割った。

2002年は東尾に代わり、伊原春樹が新監督に就任したが、打撃不振が続き一軍定着後ワーストの65試合の出場にとどまった。チームは3年ぶりにリーグ優勝を果たし、自身も巨人との日本シリーズにメンバー登録され、第1戦の7回に伊東勤の代打で登場するも三振に倒れ、出場はこの1試合に終わった。チームは4連敗で日本一を逃した。

オフに戦力外通告を受け、金銭トレードでヤクルトスワローズへ移籍した[9]

ヤクルト時代

ヤクルト初年度となる2003年は、レギュラーの岩村明憲が故障し、三塁のレギュラーとして起用された。春先から絶好調で、夏場まで首位打者争いする活躍を見せ、135試合の出場で打率.317(5位)、20本塁打、95打点でキャリアハイを更新し、リーグ最多の36二塁打を記録した。ベストナイン、カムバック賞を受賞した。

2004年、岩村の復帰に伴って一塁手へ転向した。129試合に出場して打率.289(29位)、15本塁打、65打点と結果を残し、オフにFA宣言してヤクルトに残留した。

2005年は、故障と後半戦のアダム・リグスの好調もあり、81試合の出場に留まり、打率.252 6本塁打 32打点と成績を落とした。

2006年は、開幕二軍スタートとなり、7月に昇格し、代打要員として起用されたが出場34試合で僅か4安打、1本塁打、打率.167で終了した。

2007年は持病の腰痛の悪化など故障により出場機会が減少し、9月20日現役引退を表明した。10月4日横浜ベイスターズ戦(神宮)が引退試合となり、8回裏の1アウトランナーなしの場面で宮本慎也の代打で出場。投手の横山道哉は全球ストレートを投げ、サードの村田修一はファウルフライをわざと捕らなかった。鈴木はファウルで粘って15球目にきれいなセンター前ヒットを放った[10]

同年11月30日自由契約公示された。

引退後

2008年からテレビ埼玉フジテレビTWO2020年以降)で野球解説者を務めている。

2008年4月から、ジャンボ軍団の一員であるプロゴルファー小山内護キャディーに就いている。

選手としての特徴など

高校時代は当時日本最多記録となる通算83本塁打を記録していたが[3]、這い上がるため本塁打を捨ててミートを心がけた[3]。1997年には優れた選球眼からリーグトップの四球数、出塁率を記録した[3]

容姿が金村義明と似ており、ファンに間違えられたり、メディアでもネタにされたりするほどであった(金村の項も参照)。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1989 西武 8 8 8 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 4 0 .125 .125 .125 .250
1990 11 28 27 2 7 1 0 0 8 0 0 0 0 0 1 0 0 7 1 .259 .286 .296 .582
1991 39 68 63 5 18 7 0 1 28 10 1 0 0 0 5 0 0 15 2 .286 .338 .444 .783
1992 69 104 92 10 24 3 1 5 44 19 0 0 0 2 9 2 1 24 1 .261 .327 .478 .805
1993 119 400 352 35 95 12 1 13 148 51 0 2 0 4 42 4 2 62 13 .270 .348 .420 .768
1994 102 306 266 41 93 21 1 12 152 49 3 3 0 2 36 2 2 44 4 .350 .428 .571 1.000
1995 124 467 416 39 105 10 0 12 151 42 0 2 1 2 45 1 3 63 10 .252 .328 .363 .691
1996 109 407 354 47 107 17 1 21 189 60 1 1 0 4 47 4 2 48 8 .302 .383 .534 .917
1997 133 576 471 72 147 34 3 19 244 94 2 2 0 4 90 8 11 76 9 .312 .431 .518 .949
1998 135 580 488 65 134 23 1 22 225 65 1 2 0 8 80 4 4 58 16 .275 .376 .461 .837
1999 133 555 468 48 122 30 2 13 195 81 3 1 0 7 77 1 2 50 11 .261 .363 .417 .779
2000 119 443 386 36 96 17 0 6 131 52 0 1 1 5 47 2 4 40 14 .249 .333 .339 .672
2001 115 405 361 47 91 29 0 18 174 51 1 0 0 1 42 1 1 49 14 .252 .331 .482 .813
2002 65 190 172 21 41 9 1 5 67 27 0 2 0 3 14 3 1 31 4 .238 .295 .390 .684
2003 ヤクルト 135 549 482 67 153 36 0 20 249 95 2 5 1 4 56 2 6 84 8 .317 .392 .517 .909
2004 129 517 470 41 136 21 0 15 202 65 1 1 0 2 40 0 5 100 15 .289 .350 .430 .780
2005 81 305 274 25 69 12 0 6 99 32 0 1 0 3 25 1 3 42 12 .252 .318 .361 .679
2006 34 27 24 1 4 1 0 1 8 2 0 0 0 0 3 0 0 6 1 .167 .259 .333 .593
2007 26 33 27 0 3 1 0 0 4 2 0 0 0 0 5 1 1 9 1 .111 .273 .148 .421
通算:19年 1686 5968 5201 602 1446 284 11 189 2319 797 15 23 3 51 664 36 48 812 144 .278 .362 .446 .808
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績



一塁 二塁 三塁




































1989 西武 - - 1 0 0 0 0 .---
1990 - - 10 4 7 1 1 .917
1991 4 10 4 0 1 1.000 - 8 8 6 0 0 1.000
1992 6 18 0 0 2 1.000 - 16 8 16 3 1 .889
1993 - - 16 8 30 0 2 1.000
1994 3 17 0 0 0 1.000 2 0 1 0 0 1.000 25 23 45 3 1 .958
1995 56 438 23 1 32 .998 - 70 32 92 4 3 .969
1996 - - 39 26 61 3 5 .967
1997 26 63 5 0 7 1.000 - 129 85 219 11 14 .965
1998 4 5 1 0 1 1.000 - 134 98 234 14 17 .960
1999 31 158 10 0 13 1.000 - 110 62 155 8 9 .964
2000 65 390 26 0 28 1.000 - 57 29 85 3 10 .974
2001 22 141 8 0 14 1.000 2 2 0 0 1 1.000 37 26 56 3 7 .965
2002 10 69 3 1 4 .986 - 26 15 35 0 1 1.000
2003 ヤクルト 34 300 23 1 29 .997 - 98 69 156 12 9 .949
2004 126 1087 85 4 88 .997 - 2 0 0 0 0 .---
2005 61 472 38 1 40 .998 - 2 2 2 1 0 .800
2007[11] 4 31 2 0 0 1.000 - -
通算 452 3199 228 8 258 .998 4 2 1 0 1 1.000 780 495 1199 66 80 .963

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 8 (1988年 - 2002年)
  • 9 (2003年 - 2007年)

出演

テレビ

ラジオ

映画


脚注

  1. ^ Ken Suzuki Japanese League Statistics & History”. Baseball-Reference.com. 2015年3月25日閲覧。
  2. ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、293ページ
  3. ^ a b c d 『日本プロ野球偉人伝 vol.13 1997→99編』ベースボール・マガジン社、2014年、93頁。ISBN 978-4-583-62103-6 
  4. ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  5. ^ 「10回、代打・鈴木サヨナラ弾 清原も15、16号連発 2位に2.5差」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1994年(平成6年)7月25日付朝刊、14面(スポーツ面)。
  6. ^ 「西武スイスイ5連勝 鈴木健3連発 潮崎プロ初完封」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1997年(平成9年)5月19日付朝刊、15面(スポーツ面)。
  7. ^ 「1発サヨナラ レオ新時代 今季10度目、鈴木健決めた 松井が同点弾」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1997年(平成9年)10月4日付朝刊、20 - 21面(スポーツ面)。
  8. ^ 「「松坂エースだ」 プレッシャーの中の投手戦でも淡々と…ゲーム壊さず 3失点も監督評価」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2000年(平成12年)4月2日付朝刊、20面(スポーツ面)。
  9. ^ 「金銭で鈴木健獲得」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2002年(平成14年)11月13日付朝刊、22面(スポーツ面)。
  10. ^ 久保田龍雄 (2018年9月28日). “さらば!村田修一 「ミスター引退試合」数々の名シーンを振り返る! 〈dot.〉”. AERA dot. (アエラドット). 2021年4月8日閲覧。
  11. ^ 東京ヤクルトスワローズ 個人守備成績(セントラル・リーグ)”. NPB.jp 日本野球機構. 2017年6月15日閲覧。
  12. ^ 地方ラジオ局にて放送。放送局はこちらを参照。
  13. ^ “劇場公開作品|オールイン エンタテインメント”. オールイン エンタテインメント. https://web.archive.org/web/20130502032725/http://all-in-ent.com/theater/ 2017年5月9日閲覧。 

関連項目

外部リンク