藤沢秀行

日本の囲碁棋士 (1925-2009)

藤沢 秀行(ふじさわ ひでゆき、ふじさわ しゅうこう、1925年6月14日 - 2009年5月8日)は、日本の囲碁棋士。本名:「藤沢 (たもつ)」[注 1]。棋聖戦6連覇、史上最年長タイトル保持者などに輝いた、昭和を代表する棋士の1人。

 藤沢秀行  名誉棋聖
名前 藤沢秀行
生年月日 (1925-06-14) 1925年6月14日
没年月日 (2009-05-08) 2009年5月8日(83歳没)
プロ入り年 1940年
出身地 神奈川県横浜市
所属 日本棋院東京本院
師匠 福田正義
名誉称号 名誉棋聖
概要
タイトル獲得合計 23
通算成績 852勝649敗8持碁
七大タイトル
棋聖 6期 (1977-82)
名人 2期 (1962・70)
王座 5期 (1967-69・91-92)
天元 1期 (1975)
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年上の甥(姉の息子[1])に藤沢朋斎九段、子(五男)に藤沢一就八段、孫に藤沢里菜七段。また小島高穂九段は大甥(姉の孫[2])に当たる。経済学者の松井彰彦は甥。

太平洋戦争中に「秀行」と呼び名を変えたが、これは当時、山部俊郎とともに世話になっていた、頭山満の三男の頭山秀三の名前に由来する[3]。正しい名前の読み方は「ひでゆき」だが、生涯を通じて「しゅうこう」と呼ばれ続けた。

人物

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棋風・人柄

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棋風は豪放磊落であり、厚みの働きを最もよく知ると言われた。ポカ(うっかりミス)で好局を落とすことも多かったが、「異常感覚」とも称される鋭い着想を見せ、「華麗・秀行」とも呼ばれた。「序盤50手までなら日本一」とされ、序盤中盤の局後検討で結論がでない場合は「秀行(しゅうこう)先生に聞こう」というのが、かつての日本棋院での決まり文句だった。

盤上での活躍の一方、盤外では酒、ギャンブル、借金、女性関係など破天荒な生活でも有名であった。癌の手術以前はアルコール依存症の禁断症状と戦いながらの対局を重ねていた。こうした「最後の無頼派」とでも称すべき藤沢の人柄を愛する者は多く、政財界に多くの支持者を抱えるほか、日中韓の若手棋士からも非常に尊敬されている。

高利貸しから億単位の借金がありその大半を好きな競輪につぎ込んだ。政財界に藤沢のファンがおり、そのうちの一人である元法務大臣稲葉修が「せめて借金先は銀行へ」と替えさせ借金の保証人になったという。1976年に創設された棋聖戦(第1期の優勝賞金は1700万円、現在は4500万円)を六連覇し借金を返済した[4]

アルコール依存症であり七番勝負のときだけは禁断症状に苦しみながら酒を抜いた。平時から酒をよくたしなみ、午前中にウイスキーを一本あけ、酔うと卑猥な言葉を発し周囲を困らせ若手の一流棋士を捕まえては一局1000円で早碁を打った。泥酔状態でも並の棋士は歯が立たなかったという。

本妻(藤沢モト)との間に3子がいたほか、2人の女性との間にそれぞれ2子をもうけており、子は全部で7人いた[5]。正月になると4人の女性と子供たち全員が一斉に会し正月のあいさつを藤沢と本妻に対して行った。将棋棋士米長邦雄は「俺とえらい違いだ。恐れ入った」と頭を下げたという[4]。この勝負師を陰で支えた妻・モトは著書『勝負師の妻—囲碁棋士・藤沢秀行との五十年』で彼を襲った数々の難局について述べている。

の大家でもあり安芸宮島厳島神社の鎮座1400年に際し「磊磊」の文字を奉納している[4]。各地で個展を開いたほか、1992年には大相撲の貴闘力の化粧まわしに「気」の文字を揮毫。2007年にはニコニコ動画のコンテンツ「ニコニコニュース」の題字を手掛けた[6]

若手育成

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門下に天野雅文高尾紳路森田道博三村智保倉橋正行金沢真らがいるが、この他にも合宿などで依田紀基結城聡坂井秀至ら多数の若手棋士を育てており、中国韓国棋士も含め藤沢を師と仰ぐ者は多い。来るものは誰でも拒まずに受け入れた研究会『秀行塾』は有名。

自分の門下生以外にも多くの若手棋士の育成に力を注いだ。昭和30年代には、阿佐ヶ谷の自宅で、茅野直彦、当時十代であった林海峰大竹英雄工藤紀夫高木祥一小島高穂ら十数人による月2回の研究会を行なっていた。これにはその後、さらに若い世代の安倍吉輝福井正明酒井猛石田章中村秀仁らが加わる。続いて1969年、不動産業のために代々木に事務所を開いたが、ここでも若手棋士が集まっての研究会が行われ、林海峰、曺薫鉉四谷にあった木谷道場石田芳夫加藤正夫武宮正樹小林光一趙治勲らが集まり、事務所を閉じる1978年まで続いた。

1980年からは、入段したばかりの依田紀基安田泰敏、院生の藤沢一就、小松英樹らで第三次研究会を始め、場所もよみうりランドの自宅に移した。この研究会はその後も弟子の森田、三村、高尾の他にも人数が増え、1984年からは年に2回の合宿を行うようになる。このメンバーは秀行軍団などとも呼ばれる。

1981年からは研究会のメンバーとともに訪中し、中国の棋士との手合や指導を行うようになる。これには聶衛平劉小光江鋳久曹大元、若手の馬暁春張文東らが参加した。この毎年1987年までと、それ以後の断続的な訪中は、中国の実力レベル向上に大きく寄与したと言われている。

「命がけで得た技術をなぜ他国に教える必要があるのか」という声もあるなか、中韓両国の若手棋士に惜しげもなく技術を伝授した[4]

1999年に行われた引退三番碁では、第1局(4月16日)で常昊、第2局(4月30日)で曺薫鉉、第3局(5月14日)で高尾紳路と、日中韓の棋士が対戦相手を務めた。引退碁が行われたのは本因坊秀哉以来。死後の2010年6月には北京市に「藤沢秀行記念室」が設立された[7]

家族・親族

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父の藤沢重五郎は相場師として名を挙げた人物で、賭博にも熱中したが囲碁でも三段の免状を持っていたとされ、田村保寿(のちの本因坊秀哉)と「鬼池田」と呼ばれた素人名人との対戦を企画するなどしている[8]。何人もの女性相手に、合計19人の子供をつくった。囲碁の他にも、剣道三段、将棋五段、柔道三段(起倒流柔術)。

妻の藤沢モトには、藤沢と暮らした人生を描いた著書が『勝負師の妻―囲碁棋士・藤沢秀行との五十年 』『大丈夫、死ぬまで生きる 碁打ち 藤沢秀行‐‐無頼の最期』の二冊ある。

三男の藤沢嘉浩はアマチュア囲碁強豪。四男の藤沢秀敏は将棋の奨励会に入会したが、初段になれず年齢制限で退会した[9]。五男のプロ棋士藤沢一就は新宿で囲碁教室を開催しており、15人のプロ棋士を輩出している[10]

一就の長女であり、秀行の孫にあたる藤沢里菜は、2010年4月に当時史上最年少となる11歳6か月で棋士となり、数々の女流タイトルを獲得している[11]

経歴

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主な戦績

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  • 棋聖 6期(歴代3位)6連覇(歴代2位)名誉棋聖
  • 名人 2期 
  • 王座 5期(歴代4位)3連覇
  • 天元 1期
囲碁七大タイトル獲得記録
順位 獲得回数 棋士名
1位 61期 二十六世本因坊文裕*
2位 42期 趙治勲名誉二冠*
3位 35期 小林光一名誉三冠*
4位 31期 加藤正夫名誉王座
5位 24期 張栩九段*
6位タイ 21期 二十三世本因坊栄寿 | 林海峰名誉天元*
8位 17期 大竹英雄名誉碁聖
9位タイ 14期 藤沢秀行名誉棋聖| 山下敬吾九段*
*は現役棋士
2024年4月30日時点

第1期名人位

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1952年頃より日本棋院理事を務め、1960年には渉外担当理事となる。日本棋院の財政基盤改善策として名人戦創設を図る。読売新聞との契約をまとめ、1961年から第1期旧名人戦が開始、最高位タイトルを持っていた秀行も13人のリーグ戦に参加する。翌年8月の最終局まで9勝2敗のトップを走っていたが、最終局で橋本昌二に敗れて9勝3敗となり、呉清源 - 坂田栄男戦の勝者とプレーオフとなると思われた。しかし呉-坂田戦は呉の白番ジゴ勝ち(コミ5目で)となり、当時の規定でジゴ勝ちは正規の勝ちより下位とされていたため、藤沢の第1期名人位が決まった。

エピソード

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  • 本拠地である阿佐ヶ谷を中心に中央線沿線に何軒かの碁会所を運営していた(門下生任せを含む)。
  • 首相杯日本棋院第一位決定戦旧名人戦早碁選手権天元戦棋聖戦で第1期の優勝を果たしており、「初物食いの秀行」といわれた。
  • 多額の借金を抱えていた時期の第2期棋聖戦では加藤正夫に1勝3敗と追い込まれ、第5局開始前には「負けたら首を吊るため」と枝振りのよい木を探しながら対局場に向かったと述懐している。この碁で藤沢は一手に2時間57分という記録的な大長考を払った末、加藤の大石を殺し気迫の勝利を収めた(後述)。
  • 将棋棋士米長邦雄とは長い付き合いがあり、共著で出版もしている。
  • 同じく将棋棋士の芹沢博文は「弟分」と呼ぶ仲で、飲み仲間でもあった。二人が酒の席で「囲碁・将棋の全てを100としたら、自分たちにはそのうちどのくらいをわかっているか」を紙に書いて見せ合ったことがある。藤沢は酔って気が大きくなってちょっと多めに「6」と書いた。芹沢は「4か5」と書いていた。藤沢は芹沢がわからないということがちゃんとわかっている男だと認め、デキるやつだったと回想している[15]
  • 女性関係も派手で、愛人の家に入り浸って自宅に3年もの間帰らなかったこともあった。用事ができて帰らなければならなくなった際、自宅への行き方がわからず妻を電話で呼び出して案内させたという。
  • 米長邦雄の妻が藤沢の妻モトを訪ね、「うちの主人は週に5日帰ってこないのですが」と相談したところ、モトは「うちは3年、帰りませんでした」と答えたという[16]
  • 本妻以外の女性との間にも子供がおり、認知もしている。
  • 酒好きでほぼ毎日飲酒をしていた。しかし決して強いわけではなく、特に83年の胃癌の手術後は少量でも酔いが回るのが早くなったという。また、酔うと女性器の俗称を連呼する悪癖があり、ある時には女性棋士が集まり検討をしている部屋に入り込みこの癖を見せたこともあった。鄧小平と面会した際には、あろうことかベロンベロンに酔っぱらっており、「中国語ではおまんこのことを何というのだ」と執拗に絡み、面会は中断された。
  • また、開高健のエッセイ『開口閉口』に出てくる、「門口で『やい、クロ饅子、でてこい!』と叫ぶ『疾風怒濤のロマン派』」とは藤沢の事である。
  • ライバルであった坂田栄男とは性格的にも馬が合わなかったようで、1963年の第2期名人戦第6局での封じ手をめぐる応酬など、敵対関係を物語るエピソードも多い。藤沢が日本棋院から除名処分を受けた際には、坂田は藤沢を激しく非難した。しかし、2009年の藤沢の死去に際し、坂田は「対戦成績は私の方が良かったが、才能は私よりあったと思う」(毎日新聞)と語り、没後に催された「偲ぶ会」にも車椅子で出席した。また将棋棋士河口俊彦の著書には、あるとき日本棋院で藤沢に会った際、「今日は坂田に2万円借りた。坂田に金を借りるようじゃ俺もおしまいだな」と呟いたというエピソードが書かれている。なお、坂田は藤沢の死去から僅か1年後の2010年に、後を追うように亡くなっている。
  • 碁を嗜む企業の役員や著名人からの人気も高く、藤沢が開催した書の展示会などにはたくさんの花や祝電が届き、直接会場に駆けつけ挨拶を交わす人も多かった。また、藤沢が贔屓にしていた碁の打てる銀座の会員制クラブ(2010年閉店)では、藤沢の私設後援会『藤沢会』の会員を対象に月に1回、藤沢とその弟子のプロ棋士が講習会を開いていた。
  • 競輪が好きで、後楽園競輪で250万円を取り、それを花月園競輪で480万円にしたこともある。亡くなる前年には競輪場で転倒して骨折している。年2回の若手育成合宿は湯河原で行われるのが恒例だったが、その日程は小田原競輪の開催日程に合わせて組まれるのが常だったという[17]
  • 京王閣競輪場で250万円の車券を1点買いしたが惜しくも外れ、観戦していた決勝線付近の金網を強く握りすぎて菱形にひしゃげてしまい、「秀行引き寄せの金網」として京王閣競輪場の名所になった[16][注 2]
  • 棋聖戦6連覇の間に、借金のために自宅を競売にかけられたが、「最善手を求めて命を削っているから、借金も女も怖くない」と語った[16]
  • 戒名は自身が生前に決めていた「無明居士(むみょうこじ)」。
  • 亡くなって3年以上たった、2012年の週刊碁11月5日号(10月29日発売)に「尊敬する棋士、好きな棋士ベスト10」・第2位を獲得した[18]

有名局

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1978(昭和53)年、藤沢は棋聖戦で、本因坊・十段・碁聖の三冠を保持する加藤正夫の挑戦を受けた。第4局まで1勝3敗となり、カド番に追い込まれた第5局。黒の藤沢は高中国流の布石を採用した。

模様に白が△と打ち込んできた瞬間、黒の藤沢は▲の鉄柱に打ち、この白を皆殺しにすることを決意する。

                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     

白が1にツケてきた時、藤沢は2時間57分の考慮で黒2にトンだ。この一世一代の大長考で以下の攻め合いの変化を読み切り、加藤の大石を撲殺。この勝利で流れをつかみ、以下3連勝で逆転の防衛に成功した。高尾紳路と藤沢里菜は、「日本棋院100周年 棋士が選んだこの一手」に、この黒2のトビを選んでいる。

                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     

著書

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  • 『藤沢秀行囲碁学校』(全6冊)平凡社、1971年
  • 『丈和』(日本囲碁大系10)筑摩書房、1976年
  • 『芸の探求シリーズ1 華麗 藤沢秀行』日本棋院、1977年
  • 『秀行創作詰碁傑作集』日本棋院、1980年
  • 『藤沢秀行 上・下』(現代囲碁大系26.27)講談社、1980年
  • 『藤沢秀行名誉棋聖への道 : 棋聖戦1-5期激闘譜 』読売新聞社、1981年
  • 『秀行 飛天の譜 藤沢秀行タイトル戦全集 上下巻』日本棋院、1982年
  • 『棋聖秀行の碁』全5巻、四星社、1982年
  • 『わたしならこう打つ 秀行囲碁道場 上・下』日本棋院 1982年
  • 囲碁発陽論』(解説)平凡社(東洋文庫412)、1982年
  • 『基本手筋事典 上・下』日本棋院、1982年
  • 『藤沢秀行 (現代囲碁名勝負シリーズ) 』講談社、1987年
  • 『秀行の世界』全6冊、誠文堂新光社、1992年
  • 藤沢秀行全集』(全12冊)日本棋院 1994年
  • 『藤沢秀行の碁の急所この一手 (NHK囲碁シリーズ) 』1995年
  • 『秀行百名局』誠文堂新光社、2009年

ほか、極めて多数の(100冊を軽く超える)棋書を書き下ろしている(その多くは棋士にして囲碁ライターである小西泰三の構成による)。

ほかに本人の壮絶な生きかたを記したエッセイとして

  • 『八方破れ人生―天才勝負師の戦陣訓』 (1971年)サンケイドラマブックス
  • 『芸の詩 棋聖秀行囲碁放談』日本棋院 1978年
  • 『碁打ち一代』読売新聞社 1981年
  • 『耐えて勝つ!』講談社 1986年
  • 『勝負と芸~わが囲碁の道』岩波新書 1990年
  • 『人生の大局の読み方 (フロムフォーティズ) 』ごま書房 1992
    • 『人生の大局をどう読むか』 三笠知的生きかた文庫
  • 『碁打秀行~私の履歴書』日本経済新聞社 1993年、のち角川文庫 1999年
  • 『人生、意気に感ず』ひらく 1998年
  • 『野垂れ死に』新潮新書 2005年

などがある。将棋の米長邦雄永世棋聖との対談集として

  • 『勝負の極北~なぜ戦いつづけるのか』
  • 『戦いはこれからだ~人間的魅力の研究』祥伝社ノン・ポシェット文庫

また

  • 藤沢モト『勝負師の妻~囲碁棋士・藤沢秀行との五十年』角川oneテーマ21

は夫人(正妻)による著書。 (本人の碁でなく)本人と妻の生きかたに焦点を当てたNHKによるテレビ番組が、DVD化されている。

棋士が技術伝授でないビデオに出演するのは極めて異例のことである。

参考文献

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  • 小西泰三「波瀾万丈 裸の秀行」(『棋道』1994年5-12月号)

脚注

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注釈

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  1. ^ 「秀行」という名前は、少年時代から心酔していた本因坊秀甫に由来するという。『野垂れ死に』 (新潮新書)より
  2. ^ 芹沢博文著『人生、くそ度胸』には「京王閣・秀行ガマンの金網」との表記も

出典

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  1. ^ 『棋聖秀行の碁(3)』(四星社)P.88
  2. ^ 『棋聖秀行の碁(3)』(四星社)P.88
  3. ^ 『碁打ち一代』(読売新聞社)P.72~P.77
  4. ^ a b c d 2015年8月18日東京中日スポーツ「怪物伝説 藤沢秀行名誉棋聖」より
  5. ^ 藤沢モト『勝負師の妻――囲碁棋士・藤沢秀行との五十年』(角川書店、2003年)92-95、126頁、藤沢モト『大丈夫、死ぬまで生きる 碁打ち藤沢秀行――無頼の最期』(角川書店、2012年)195、274頁
  6. ^ 名誉棋聖 藤沢秀行さんご逝去‐ニコニコインフォ”. blog.nicovideo.jp. 2019年1月11日閲覧。
  7. ^ 『碁ワールド』2010年7月号
  8. ^ 『本因坊自伝 Kindle版』本因坊秀哉著
  9. ^ https://web.archive.org/web/20220828025706/https://kakaku.com/tv/search/keyword=%E8%97%A4%E6%B2%A2%E7%A7%80%E6%95%8F/
  10. ^ 新宿こども囲碁教室 教室案内”. 新宿こども囲碁教室. 2019年1月11日閲覧。[リンク切れ]
  11. ^ 囲碁の日本棋院”. 囲碁の日本棋院. 2019年1月11日閲覧。
  12. ^ 田村龍騎兵『碁界うらおもて』(ルック社)P.59
  13. ^ 「97年秋の叙勲受章者勲三等以上の一覧」『読売新聞』1997年11月3日朝刊
  14. ^ 藤沢秀行が囲碁殿堂入り(第17回囲碁殿堂表彰)”. 日本棋院 (2020年11月25日). 2020年12月11日閲覧。
  15. ^ 『野垂れ死に』p86 - p87
  16. ^ a b c 読売新聞2009年5月9日『編集手帳』
  17. ^ 競馬最強の法則』(KKベストセラーズ)2010年6月号・pp.134 - 135
  18. ^ http://www.nihonkiin.or.jp/publishing/2012/10/1151029.html

外部リンク

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