藤原基隆

平安時代後期の公卿。藤原北家隆家流。藤原家範の長男。従三位・修理大夫、非参議

藤原 基隆(ふじわら の もとたか)は、平安時代後期の公卿藤原北家隆家流大膳大夫藤原家範の長男。官位従三位修理大夫

 
藤原基隆
時代 平安時代後期
生誕 承保2年(1075年
死没 天承2年3月21日1132年4月8日
別名 家政
官位 従三位修理大夫
主君 白河上皇堀河天皇鳥羽上皇
氏族 藤原北家中関白家
父母 父:藤原家範、母:藤原家子
兄弟 基隆大江家保宗隆、範経、範覚、行範
藤原知房の娘、藤原長忠の娘、藤原師実の娘
忠隆隆頼雅隆経隆藤原成通室、藤原信通室、美福門院女房少将局
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経歴

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承保2年(1075年)に藤原家範の子として誕生。白河院政期初頭の寛治2年(1088年従五位下叙爵、寛治4年(1090年左兵衛佐に任ぜられ、昇殿を聴される。寛治6年(1092年)従五位上に進み、寛治8年(1094年美作守を兼ねる。この頃より白河上皇院近臣として活躍を始めるが、乳母子として堀河天皇にも近侍した。三条大宮に邸を構え、しばしば白河院の行幸が行われている。

嘉保3年(1096年)に正五位下承徳2年(1098年従四位下康和2年(1100年)には従四位上次いで正四位下と急速に昇進を見せる。康和3年(1101年)に摂津守に任ぜられたのち、嘉承3年(1108年伊予守永久3年(1115年播磨守保安2年(1121年讃岐守、保安4年(1123年)伊予守と院分国受領を歴任。この間に、多くの仏寺・殿邸を造営。白河上皇の院別当にも補任され、地方官を務めながら蓄えた財力をもって上皇周辺の経済面を支える典型的な院司受領であった。この間、内蔵頭大膳大夫を兼帯。また、永久5年(1117年)に母・家子が[1]、保安4年(1123年)に父・家範が没している。

大治4年(1129年)に白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇の院司となった。大治5年(1130年従三位修理大夫に叙任されて公卿に列した。天承元年(1131年)12月に修理大夫を辞任し、翌天承2年(1132年)正月に出家。最終官位は前修理大夫従三位。同年3月21日薨去。享年58。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 殿暦永久5年2月2日条。

出典

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  • 上杉和彦「藤原基隆」『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年)
  • 橋本義彦「藤原基隆」『改訂新版・世界大百科事典』(平凡社、2007年)