万 脩萬 脩、ばん しゅう、? - 26年)は、後漢の武将。字は君游(くんゆう)。扶風茂陵県(陝西省興平市)の人(『後漢書』列伝11・本伝)[1]光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第26位に序せられる(『後漢書』列伝12)。

万脩(萬脩)
後漢
槐里侯
出生 不詳
司隷扶風茂陵県
死去 26年建武2年)
君游
別名 雲台二十八将第26位
爵位 造義侯〔後漢〕→槐里侯〔後漢〕
官位 信都令〔更始〕→偏将軍〔劉秀〕→右将軍〔後漢〕
主君 更始帝光武帝
兄弟 弟:鄧寛
萬普
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略歴

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劉玄が皇帝(更始帝)となり王莽を降した頃、信都郡信都県の令となった。

更始2年(24年)、薊県から逃れてきた劉秀を信都太守の任光・都尉の李忠とともに迎え入れた。偏将軍を拝命し、造義侯に封ぜられた。王郎の本拠の邯鄲を破ると右将軍に任ぜられ、河北平定に功あった。

建武元年(25年)、大司馬呉漢に率いられた十一将の一人として、更始帝配下の朱鮪の守る洛陽を囲む[2]

建武2年(26年)、造義侯に代えて槐里侯に封ぜられ、堅鐔と共に南陽平定に参加したが、にて周囲から孤絶し、病んで陣没した。

壬辰倭乱の時に明朝の援軍として李氏朝鮮に派兵され、朝鮮氏族江華万氏の始祖となった万世徳は、万修の子孫である[要出典]

脚注

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  1. ^ 『後漢書』巻21、任李萬邳劉耿列伝第11、萬脩伝。
  2. ^ 後漢書岑彭伝より

参考文献

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  • 范曄著、『後漢書』。
    • 中央研究院・歴史語言研究所「漢籍電子文献資料庫」。
    • 岩波書店『後漢書〈第3冊〉列伝(1) 巻一〜巻十二』2002/5/29 范曄(著), 吉川忠夫(著)