菩提山城
菩提山城(ぼだいさんじょう)は、岐阜県不破郡垂井町の菩提山にあった日本の城(山城)。竹中重元が岩手弾正を滅ぼした後、竹中氏の居城として新たに築城したものとされ、麓に竹中氏陣屋が築かれるまで使用された。西美濃では最大級の山城である[1][2]。
菩提山城 (岐阜県) | |
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伐採された山頂が見えるのが城のあった菩提山 | |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 竹中重元 |
築城年 | 1559年(永禄2年) |
主な城主 | 竹中氏 |
廃城年 | 1600年(慶長5年) |
遺構 | 本曲輪・二の曲輪・三の曲輪・西の曲輪・台所曲輪・大手曲輪・出曲輪・腰曲輪・竪堀・堀切・土塁 |
指定文化財 | 垂井町指定史跡 |
再建造物 | なし |
位置 | 岐阜県不破郡垂井町岩手 |
概要
編集伊吹山系の東端にある菩提山(402メートル)山頂に築かれた東西150メートル・南北300メートルの山城で、竹中重元が同地の豪族であった岩手氏を滅ぼして新たに築城した。以後、重元・重治・重門の3代にわたり使用され、重門が麓の竹中氏陣屋に居を移したことで廃城となった。
歴史
編集- 1558年(永禄元年) - 竹中重元が岩手弾正を滅ぼし、6千貫の領主となる。
- 1559年(永禄2年) - 竹中重元が菩提山に菩提山城を築く。
- 1560年(永禄3年) - 重元が病没し、子の重治(半兵衛)が家督を継ぎ城主となる。
- 1565年(永禄7年) - 重治が16人の手勢で稲葉山城(岐阜城)を落とす。重治は、斎藤氏の滅亡後は織田信長・豊臣秀吉に仕える。
- 1579年(天正7年) - 重治が播磨三木城攻め(三木合戦)の陣中にて病没し、子の重門が家督を継ぎ城主となる。
- 1600年(慶長5年) - 重門は関ヶ原の戦いにて東軍につき、徳川家康に菩提山城を提供する。戦後、麓の竹中氏陣屋に居を移し、菩提山城は廃城となる。
アクセス
編集公共交通機関
編集車
編集- 関ヶ原ICから30分
- 大垣西ICから25分
脚注
編集- ^ “菩提山城跡 - 文化財マップ”. 垂井町文化財アーカイブ. 2017年1月5日閲覧。
- ^ “菩提山城跡”. 垂井町観光協会. 2017年1月20日閲覧。