意富比神社
意富比神社(おおひじんじゃ)は、千葉県船橋市にある神社。式内社で、旧社格は県社。通称は船橋大神宮(ふなばしだいじんぐう)。延喜式では葛餝郡意富比神社の名称で登場する。
意富比神社 | |
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拝殿 | |
所在地 | 千葉県船橋市宮本5丁目2-1 |
位置 | 北緯35度41分46.4秒 東経139度59分34.7秒 / 北緯35.696222度 東経139.992972度座標: 北緯35度41分46.4秒 東経139度59分34.7秒 / 北緯35.696222度 東経139.992972度 |
主祭神 | 天照皇大御神 |
社格等 | 式内社(小)・県社 |
創建 | 景行天皇40年[1] |
本殿の様式 | 神明造 |
別名 | 船橋大神宮 |
例祭 | 10月20日 |
地図 |
祭神
編集社名の由来
編集社名となっている「意富比(おおひ、旧仮名遣:おほひ)」の由来については諸説ある。主なものを以下に示す。
歴史
編集社伝では、景行天皇40年、日本武尊の東征の折に当地で東国平定の成就を祈願したのに始まると伝える。当時、当地の住民は日照りに苦しんでおり、日本武尊があわせて祈雨を念じると、雨が降り出したとも伝える。元々同社では地方の太陽神である「意富比神(大日神)」が祀られ、特に周辺(東京湾)の漁民の信仰を集めていた。国史の初見は『日本三代実録』の貞観5年(863年)5月26日条で、延喜式神名帳では小社に列している。
後にこの一帯が伊勢神宮に寄進されて御厨(夏見御厨。船橋御厨ともいう)となり、その守護として伊勢神宮の祭神である天照大神を祀る神明社が現在の夏見台の日枝神社に建立されたが、御厨の衰退とともに神明社も廃れ、意富比神社に合祀された。その後、天照皇大神に対する信仰の方が強くなり、次第に意富比神社の社名は忘れられ、もっぱら船橋神明・船橋大神宮と呼ばれるようになった。戦国時代までは、この地域で、勢力を保っていた千葉氏系の豪族富氏が宮司をつとめていた。現在でも千葉姓に改名し、同族が宮司をつとめている。
同神宮には中世の文書が多数保持されていたが、明治維新時に起きた戊辰戦争の船橋の戦いで社殿と共に焼失してしまい、現存しているのは、千葉満胤の書状や「船橋御厨六ケ郷田数之事」という応長年間の文書など数点のみである。明治6年に本殿、明治22年には、拝殿を再建された。明治5年(1872年)に県社に列格し、延喜式神名帳に記される意富比神社の名に復した。
朝廷・将軍家などから崇敬を受け、平将門、源頼朝、徳川家康などが社領の寄進や社殿の造営・改修をおこなった。神宮の境内にある常盤神社には家康の歯を納めた家康木造が安置されている。近代では明治天皇、大正天皇、昭和天皇などの歴代天皇も参拝に訪れている。
階級俸禄
編集境内
編集摂末社
編集- 常盤神社(摂社)
- 外宮(摂社)
- 祭神は豊受姫大神。
- 八雲神社(摂社)
- 天之御柱宮(末社)
- 護国の英霊を祀る。
- 大鳥神社(摂社)
- 祭神は日本武尊。
- 祭神は共に須佐之男命で神輿に祀られている。
- 船玉神社(末社)
- 浅間神社(末社)
- 祭神は木花佐久夜毘売命。境内北部の高台に鎮座している。
文化財
編集県指定文化財
編集市指定文化財
編集- 神楽(市指定無形民俗文化財)
行事
編集船橋大神宮の奉納相撲(10月20日)
編集秋の例祭として行われる奉納相撲の歴史は古く、1590年(天正18年)に行われた徳川家康の上覧相撲に起源を持つ。当時、家康は下総で時々鷹狩りを催し、宿舎として船橋に離館が設けられていた。(現在の船橋市本町4丁目に船橋御殿があり、「御殿地」と呼ばれていた。跡地は船橋東照宮である)ある日、家康が相撲に戯れていた子供の姿を見てこれを賞し、信仰深かった船橋大神宮に奉納したものが起源と言われ、その後幕府自ら勧進元となった、由緒ある素人相撲である。
神宮の素人相撲は、強者が集まることで知られ、今でも東葛出身力士の育成に貢献している。また、少し前までは、漁師をはじめとする熱狂的な見物客が集うことでも有名で、判定に不服を持った観客が物を投げたり、行司をボコボコにし、万祝を着た若者衆と衝突するような光景も見られ、大いに盛り上がったという。
写真
編集-
奥宮(現・常盤神社)
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戦没慰霊碑
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鳥居
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土俵
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大神宮下交差点
交通
編集最寄り駅
関連神社
編集恵富比神社には、以下の分社が存在する。
米ヶ崎町 恵富比神社
- 千葉県船橋市米ヶ崎町332
- (祭神)天照皇大神
- (境内社)天満宮、稲荷大明神、道祖神、熊野大明神
- 鎌倉時代は米ヶ崎城が建っていた。
東町 意富比神社
- 千葉県船橋市東町802
- (祭神)天照皇大神
- (境内社)出羽三山大明神、天満宮、道祖神
注釈
編集注釈
編集- ^ この説は、従来の諸説に批判と考証を加えた説として発表され、注目された。この説を裏付けるかのように、市内では古くから天道念仏が盛んで、大神宮にも神仏分離令が発される以前に使用されていた大日如来像を表した懸仏が所蔵されている。
- ^ 奈良時代に入り、神祇や祭祀に関する制度が整備され、律令国家から手厚い保護をうけるようになる。また、この時から神(神社)に官位を授ける風習(社格)が生まれた。本社は、記録によると貞観16年には四位という位を授けられている。このことは事実上、下総国国司に任じられた五位より上位に位置していた事を意味し、当時本社が重要な神社として位置づけられていたこと示している。しかし、なぜそのような上位の位を授けられたのかについては明確な理由はわかっていない。ただ一般的には、本地域の住民の強い崇拝を受けていた本社に高い位を授けることによって、大和王権の影響力を高めようとしたのではないかと考えられている。
出典
編集- ^ 江戸名所図会 1927, p. 371.
参考文献
編集古文書
編集本社が登場する文書
- 日本三代実録(延喜元年・901年に成立した史書)-船橋について書かれた最古の文書
- 延喜式神名帳(延長5年・927年に成立した史書)
- 吾妻鏡(寛永3年・1626年に成立した史書
- 神鳳鈔(正徳3年・1713年)
- 後北条氏朱印状(弘治3年・1557年に書かれた文書)
- 北条氏康書状(永禄15年・1569年2月25日に書かれた文書)
- 千葉胤富書状(永禄12年・1569年に書かれた文書)
本社が所蔵の文書(別所で保管)
- 船橋御厨六ケ郷田数之事(応長元年・1311年に作成した文書,1847年に穂積重年が模写したものが現存)
- 北条家制札写(永禄7年・1564年1月6日)
- 上杉家制札写(永禄9年・1566年3月)
- 里見氏(正木憲時)禁制写(元亀3年・1572年1月16日)
- 里見義康禁制写(天正18年・1590年4月7日)
- 万栄判物(永禄3年・1560年6月16日)
書籍
編集- 船橋市郷土資料館, 絵はがき写真に残された明治~大正~昭和-, 平成17年3月23日
- 『船橋市史』(船橋市役所、1998年)
- 郷土出版社,祝市制施行70周年~船橋の100年~, 平成19年2月5日
- 斎藤幸雄「巻之七 揺光之部 意富日神社」『江戸名所図会』 4巻、有朋堂書店、1927年、365-375頁。NDLJP:1174161/187。