箕子朝鮮
箕子朝鮮(きしちょうせん)は、中国の殷最後の王である帝辛(紂王)の親族である箕子が朝鮮に開いたとされる国家。先行する檀君朝鮮、後代の衛氏朝鮮とともにいわゆる古朝鮮の1つに数えられる[1][2]。歴史学的には漢代(前206年-後220年)に楽浪郡を始めとした朝鮮半島の領域(漢四郡)に移住した漢人たちによって造作された神話・伝承である。
箕子朝鮮 | |
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箕子朝鮮 | |
各種表記 | |
ハングル: | 기자조선 |
漢字: | 箕子朝鮮 |
発音: | キジャジョソン |
日本語読み: | きしちょうせん |
RR式: | Gija Joseon |
MR式: | Kicha Chosŏn |
朝鮮の歴史 | ||||||||||
考古学 | 朝鮮の旧石器時代 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC 無文土器時代 1500 BC-300 BC | |||||||||
伝説 | 檀君朝鮮 | |||||||||
古朝鮮 | 箕子朝鮮 | |||||||||
燕 | ||||||||||
辰国 | 衛氏朝鮮 | |||||||||
原三国 | 辰韓 | 弁韓 | 漢四郡 | |||||||
馬韓 | 帯方郡 | 楽浪郡 | 濊 貊 |
沃 沮 | ||||||
三国 | 伽耶 42- 562 |
百済 |
高句麗 | |||||||
新羅 | ||||||||||
南北国 | 唐熊津都督府・安東都護府 | |||||||||
統一新羅 鶏林州都督府 676-892 |
安東都護府 668-756 |
渤海 698-926 | ||||||||
後三国 | 新羅 -935 |
後 百済 892 -936 |
後高句麗 901-918 |
遼 | 女真 | |||||
統一 王朝 |
高麗 918- | 金 | ||||||||
元遼陽行省 (東寧・双城・耽羅) | ||||||||||
元朝 | ||||||||||
高麗 1356-1392 | ||||||||||
李氏朝鮮 1392-1897 | ||||||||||
大韓帝国 1897-1910 | ||||||||||
近代 | 日本統治時代の朝鮮 1910-1945 | |||||||||
現代 | 朝鮮人民共和国 1945 連合軍軍政期 1945-1948 | |||||||||
アメリカ占領区 | ソビエト占領区 | |||||||||
北朝鮮人民委員会 | ||||||||||
大韓民国 1948- |
朝鮮民主主義 人民共和国 1948- | |||||||||
Portal:朝鮮 |
歴史
編集『史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は中国の殷王朝28代文丁の子で、太師となるに及び、甥の帝辛(紂王)の暴政を諌めた賢人であった。殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。
「朝鮮」について記す『史記』等の中国史料は古朝鮮(実際に存在したとすれば)より遥か後世の文献であり、箕子朝鮮の実在や箕子が国を開いたことを確証するような同時代史料は存在しない。『史記』の記述から漢代までには箕子朝鮮の伝承が形成されていたことがわかり[2]、一説では前漢代に行われた武帝による朝鮮の征服とその後の漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡、玄菟郡)設置を契機にこの伝承が形成されたともいわれる[1]。このような史料的状況のため、その歴史や実像を知ることもほとんど不可能である。
現代の中国北京や遼西地方から「其」「㠱侯」という銘がある青銅器が発見されていることから、これを箕子朝鮮と結びつけて考える説もある[3][注釈 1]。これらの青銅器は西周初という箕子朝鮮に対応する時代のものであるから、何らかの関連性が存在する可能性を否定することはできないが、しかしこれらがそのまま箕子朝鮮の領域を示すものと判断することもできない[3]。
前4世紀から前3世紀にかけて、現代の北京周辺を拠点とした燕が勢力を拡大した時代、その東側に「朝鮮」という名前で呼ばれる勢力が存在したことは確かであるが、この「朝鮮」の王が箕子の末裔であるという事実も認められない[5]。
『史記』を中心とした古代の文献によれば、前漢成立間もない前2世紀初頭に燕の人、満(衛満)が政争からの安全を求めて徒党を引き連れて朝鮮にわたり国を建設したとされる(衛氏朝鮮)。伝説によれば衛満は朝鮮王準に仕えて信頼を得たが、漢から国を守るためと偽って逆に朝鮮王準を打ち倒し、敗れた準は韓の地に逃れて韓王を称するようになったという[5]。仮に朝鮮王準が箕子の末裔だとすれば、これが箕子朝鮮の滅亡となるが、それも詳らかではない。朝鮮王準が韓王となったとする説話は『史記』よりも後世に作られた『魏略』にのみ見られるもので、現代では韓氏が自分たちの出自を朝鮮王と関連付けるべく創作した神話であるとされる[6]。
このように箕子朝鮮はその建国から滅亡に至るまで伝説に包まれており、その実像は知れない。しかし、後世には箕子朝鮮の伝説は朝鮮半島に興った国々や、そこに住む人々の自意識に大きな影響を与えた。1392年に高麗に代わって朝鮮王朝(李氏朝鮮)が建設された際、国号を決めるにあたって新王朝は「朝鮮」と「和寧」という二つの国号案を明に提示し裁可を仰いだ[7]。これは当初より「朝鮮」が選択されることを前提とした提案であったが、明側としては洪武帝を箕子を朝鮮王に封じた偉大な周の武王に擬するものであり[8]、朝鮮側としては東方の夷狄の中にあって初めて「天命」を受けた檀君と「教化」を興した箕子の国である「朝鮮」という国号を採用することで、古朝鮮という古の権威を継承するものであった[9]。これは高麗が高句麗の後継であることに支配の正当性を求めていた(さらに高句麗を介して楽浪郡、古朝鮮にその権威の根源を設定していた)ことから、「朝鮮」という国号の採用によって高麗よりもより直接的に古朝鮮の権威と結びつくことを意図したものであった[8]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 1955年、遼寧省凌源市海島営子村の村民である唐永興と張懐仁によって、殷周時代の青銅器16点が発掘された。現在青銅器は、遼寧省博物館に所蔵されている。青銅器の特徴は、同時期の殷周の青銅器と酷似しており、この時期の中国東北部ではこのレベルの青銅器を鋳造できなかったことから、遼西周辺に殷人が移住したと考えられる[4]。1973年春、遼寧省カラチン左翼モンゴル族自治県北洞村で考古学者が発掘した青銅器の方鼎には「㠱侯」と銘文されていた。殷代の甲骨文字卜辞に「㠱侯、王其」の文字があることから、「㠱」とは「箕」のことであることがわかる。すなわち、「箕侯」の意味を持つ「{㠱侯」と方鼎に銘文されていた。また、河南省安陽市で出土した「父己」の方鼎と形状が酷似していることから、殷末から周初にかけての方鼎であることも確認された[4]
出典
編集参考文献
編集- 朝鮮史研究会編『朝鮮史研究入門』名古屋大学出版会、2011年6月。ISBN 978-4-634-54682-0。
- 田中俊明 著「第一章 古朝鮮から三国へ」、武田幸男 編『朝鮮史』山川出版社〈新版世界各国史2〉、2000年8月、13-34頁。ISBN 978-4-634-41320-7。
- 矢木毅「近世朝鮮時代の古朝鮮認識 (特集 東アジア史の中での韓國・朝鮮史)」『東洋史研究』第67巻第3号、東洋史研究会、2008年12月、402-433頁、doi:10.14989/152116、ISSN 03869059、NAID 40016449498。
関連項目
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