白川文造
白川 文造(しらかわ ぶんぞう、1936年(昭和11年)9月11日[1] - )は、日本の実業家、テレビドラマのプロデューサー。ビーエスフジ(BSフジ)社長、鹿児島テレビ放送副社長を務めた。
しらかわ ぶんぞう 白川 文造 | |
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生誕 |
1936年9月11日(88歳) 日本 香川県観音寺市 |
出身校 | 東京大学文学部西洋史学科 |
職業 | 実業家、プロデューサー |
来歴・人物
編集香川県観音寺市出身。香川県立観音寺第一高等学校、東京大学文学部西洋史学科卒業。
1962年(昭和37年)東京大学卒業後、フジテレビジョン入社。編成局に勤務し、『鉄腕アトム』 『鉄人28号』 『夜のヒットスタジオ』 『北の国から』 など数多くのヒット番組の編成・企画・プロデュースに携わる[2]。
1981年(昭和56年)10月9日、『北の国から』の第1話が放映される。初回視聴率16.4%、最終回は21.0%を獲得した。視聴者からの反響は絶大で、以後20年間で8本のスペシャルが放送される国民的ドラマとなった[3]。
1992年(平成4年)6月、取締役に選任され、1995年(平成7年)6月、鹿児島テレビ放送副社長に転じる。
1998年(平成10年)12月、ビーエスフジ社長に就任[4]。
2006年(平成18年)12月、香川県観音寺市の依頼により旧1市2町合併記念事業の一つとして、新観音寺市を全国に紹介する 『わが青春の観音寺』 のテレビ番組を制作。本市出身の直木賞作家芦原すなおの小説「青春デンデケデケデケ」の追想など、さまざまな青春物語が、ドキュメンタリー形式で描かれている[5]。
略歴
編集- 1962年(昭和37年)3月
東京大学文学部西洋史学科卒業
- 1962年(昭和37年)4月
フジテレビジョン入社 編成局編成部勤務、1986年(昭和61年)まで数多くのTV番組編成、企画、プロデュースを担当
- 1980年(昭和55年)6月
編成部副部長。第2の開局の編成及び企画全般を担当
- 1986年(昭和61年)6月
総合開発室長。新規事業及び、ニューメディア部門担当
- 1992年(平成4年)6月
同社 取締役
- 1993年(平成5年)6月
ネットワーク(フジテレビ系列)の担当取締役兼ねてニューメディア部門も担当
- 1995年(平成7年)6月
同社 取締役退任、鹿児島テレビ放送 副社長
- 1998年(平成10年)6月
鹿児島テレビ放送 副社長退任、同社 顧問に就任
- 1998年(平成10年)12月
ビーエスフジ 代表取締役社長
- 1999年(平成11年)6月
フジテレビジョン 取締役
- 2003年(平成15年)6月
ビーエスフジ 代表取締役会長、フジテレビジョン 取締役退任
- 2005年(平成17年)~
ビーエスフジ 取締役相談役
編成部時代の主な担当作品
編集- 1963年(昭和38年)
『鉄腕アトム』 『三匹の侍』
- 1964年(昭和39年)
『新春ポピュラー歌手かくし芸大会』
- 1966年(昭和41年)
『若者たち』 『ママとあそぼう! ピンポンパン』
- 1967年(昭和42年)
『テレビ グランドスペシャル』
- 1968年(昭和43年)
『ゲゲゲの鬼太郎』 『男はつらいよ』
- 1969年(昭和44年)
『スター千一夜』(この1年間のみ制作部所属)
- 1970年(昭和45年)
『水曜劇場』 『おんぶにだっこ』
- 1971年(昭和46年)
『ママとあそぼう! ピンポンパン』第2期 『おらんだ左近事件帖』
- 1972年(昭和47年)
『水曜劇場』 『下町かあさん』 『かあさんの四季』
- 1973年(昭和48年)
『ぶらり信兵衛・道場破り』
- 1974年(昭和49年)
『6羽のかもめ』
- 1981年(昭和56年)
『北の国から』[6]
脚注
編集- ^ 『香川県人物・人材情報リスト 2002』(日外アソシエーツ)(2002年) 169頁
- ^ 『みんなの県政THEかがわ<かがわ羅針盤>』 2014年8月16日閲覧
- ^ 『第10回「フジテレビ物語(中編)」』 2016年12月3日閲覧
- ^ 「BSフジ発足 転換社債発行へ」『日経産業新聞』1998年12月15日 3頁
- ^ 『観音寺市 市長の部屋』 2014年8月16日閲覧
- ^ 『BUNZO's note ~昭和のテレビ編成マンの昔話~』 2014年8月16日閲覧
参考文献
編集- 『燧 第32号』(観一高同窓会東京支部)(2007年) 91頁~113頁