田北鎮周
田北 鎮周(たきた しげかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文12年(1543年) |
死没 | 天正6年11月12日(1578年12月10日)[1] |
改名 | 弥十郎(幼名)→平介→鎮周 |
戒名 | 真法院殿海林宗暦神儀大禅定門 |
墓所 | 大分県直入町の真宝院 |
官位 | 刑部少輔、相模守 |
主君 | 大友義鎮(宗麟) |
氏族 | 田北氏 |
父母 | 父:田北親員、養父:田北鑑重(紹鉄) |
兄弟 | 鑑敦、鑑生、紹鉄、鑑益、鎮周 |
子 |
鎮述、田北統員室、志賀親次室[2]、雪江(稲津重政室) 婿養子:統員(吉弘鎮信の次男) |
経歴
編集田北氏は豊後国大友氏の庶流で直入郡田北村を本貫とする。早くから本家筋の大友義鎮(宗麟)に仕え、その偏諱を賜って鎮周と名乗る。武勇に優れ、1560年代には毛利氏との戦いで、永禄11年(1568年)には立花鑑載の反乱鎮圧や、小早川隆景率いる毛利軍との戦いで武功を挙げている。
天正6年(1578年)、耳川の戦いでは前哨戦である土持親成攻めでまたも武功を挙げるなど活躍する。その後も大友軍の先鋒として山田有信が守る日向国高城に攻め寄せたが、このとき大友軍は既に主君・宗麟がキリスト教に傾倒し、他の武将も戦意が低いなどの問題があった。このため、鎮周は味方を鼓舞するため無謀にも敵軍に突撃し、それに釣られる形で大友軍が出撃し陣形が伸びきったところを島津軍に突かれ大敗した。(耳川の戦い)享年36。これ以降、大友氏は没落することになる。
その後の田北氏
編集鎮周の跡は吉弘氏から婿養子に入った鎮生(しげなり、のち統員に改名)が継承した(実子の鎮述(しげのぶ、日差城主)は早世していたものと思われる)。鎮周の戦死後の天正8年(1580年)、田北氏の惣領であった紹鉄が反乱を起こし討伐されると、統員が田北氏の家督を継承し、のち豊薩合戦の際に佐伯惟定と共に島津軍と抗戦した。その後、主君の大友吉統が改易されると、統員は浪人して清成作平と改名し、寛永9年(1632年)には肥後国に移住して細川忠利に仕えたとされ、名を吉弘紹傳に改めた[3]。統員の子・統生(むねなり)の家系は日差村の大庄屋として続いたともいわれている。
脚注
編集- ^ 田北学『編年大友史料 : 併大分県古文書全集 第32 (諸家系図篇 1)』1971年、183頁。doi:10.11501/9769719 。
- ^ 宗麟の姪女、生年は永禄9年(1566年)。洗礼名はマダレイナ。宗麟の長女ジュスタ(清田鎮忠夫人)と先夫・一条兼定の女・マダレイナ(ジュスタの連れ子として鎮忠の養女となる)とは別人。 西の高山右近―ドン・パウロ志賀親次③宣教師文書にみるドン・パウロ志賀親次とその一族① 宣教師文書にみるドン・パウロ志賀親次とその一族③
- ^ 『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上』P.116 には茂吉、掃部助、法名紹傳だけで記述されている。『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.426 吉弘氏系図 によると、始は田北平介と称す、子に吉弘治右衛門、池部彦允(彦左衛門、治右衛門。池部彦左衛門の養子)、吉弘傳左衛門、女子一名。