生駒利豊
生駒 利豊(いこま としとよ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。小折城主。生駒家長の四男。生駒家第5代。通称は因幡守。号に露月。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 天正3年(1575年) |
死没 | 寛文10年4月26日(1670年6月13日) |
改名 | (蜂須賀)五郎八、(豊臣)宗直、長知、露月 |
別名 | 大炊佐、隼人正、因幡守(通称) |
戒名 | 覚海院殿空山露月居士 |
墓所 | 久昌寺、宝頂山墓地 |
官位 | 従五位下・隼人正 |
主君 | 蜂須賀家政→豊臣秀次→豊臣秀吉→織田信雄→徳川家康→松平忠吉→徳川義直 |
藩 | 尾張藩士 |
氏族 | 生駒氏 |
父母 | 父:生駒家長、母:神野民部少輔娘 |
兄弟 | 平蔵、善長、利豊、慈光院(蜂須賀家政室)、他 |
妻 | 正室:津田藤右衛門娘、継室:遠山友政娘 |
子 | 肥田忠重室、利勝(養嗣子)、他 |
来歴
編集幼い時より豊臣秀次の近くに仕え、小田原征伐に16歳で従軍した。秀次が自刃したのちは豊臣秀吉に仕えた。年代は不明であるが、豊臣姓を下賜されている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、福島正則の陣に属して戦う。慶長6年(1601年)、松平忠吉の家臣となった。慶長12年(1607年)、松平忠吉が夭折すると次に襲封した徳川義直の家臣となった。
寛文10年(1670年)、96歳で没する。墓所は愛知県江南市の宝頂山墓地にあり、珍しい石廟型の墓である。法名は覚海院殿空山露月居士。男子無く断絶、外孫(娘の子)の生駒利勝が家督を継いだ。
参考文献
編集- 『日本人名大辞典』講談社
- 江南市役所公式HP・宝頂山墓地[リンク切れ]
- 加藤国光『尾張群書系図部集』八木書店 - 誤植・誤記多数有り、注意。