甘粕重太郎
日本陸軍の軍人
甘粕 重太郎(あまかす しげたろう、1886年〈明治19年〉1月11日[1][2] - 1958年〈昭和33年〉3月26日[1][2])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
甘粕 重太郎 | |
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生誕 |
1886年1月11日 山形県米沢市 |
死没 | 1958年3月26日(72歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1905年 - 1942年 |
最終階級 | 中将 |
指揮 |
駐蒙軍司令官 第33師団長 歩兵第15連隊長 |
戦闘 |
上海事変 第二次世界大戦 |
経歴
編集山形県[1][2][3]米沢市[要出典]出身。仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業[1][4]。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第32連隊付となる[1][4]。中央幼年学校生徒隊付などを経て、1917年11月、陸軍大学校(第29期)を卒業した[1]。
歩兵第32連隊中隊長、参謀本部員、歩兵第40連隊大隊長、陸軍歩兵学校教官、第7師団参謀などを歴任[1]。1930年8月、陸軍大佐に昇進し京城帝国大学の配属将校となる[1][3]。留守第11師団参謀長を経て、歩兵第15連隊長となり、第一次上海事変により動員されるが満州に転用され、馬占山軍の攻撃に従事[1][2][3]。教育総監部庶務課長を経て、1935年8月、陸軍少将に進級[1][3]。
歩兵第9旅団長、陸士幹事、陸軍予科士官学校長を歴任し、1938年7月、陸軍中将となり陸軍戸山学校長を兼務した[1][2][3]。1939年3月、新設の第33師団長に親補され、中国戦線で活動[1][2][3]。1941年1月、駐蒙軍司令官となり、参謀本部付を経て1942年4月、予備役に編入された[1][2][3]。