「菅野智之」の版間の差分
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2017年の[[2017 ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]前の代表合宿に叔父の原辰徳が訪れた際、辰徳は菅野に「原家のDNAを信じて頑張りなさい」とエールを送っている<ref>{{Cite web ja |url=https://www.zakzak.co.jp/smp/sports/baseball/news/20170303/bbl1703030830002-s1.htm |title=菅野好投に見る原家のDNA 「信じる者は救われる!」辰徳氏が送った難解エール |website=ZAKZAK |date=2017-03-03 |accessdate=2017-03-03}}</ref>。
父は[[東海大学付属相模高等学校・中等部|東海大相模高校]]、[[法政大学]]でプレーし、ドラフト候補に名を連ねたこともあるアマチュア野球選手だった<ref>{{Cite web ja |url=https://real-sports.jp/page/articles/400613330873484431/|title=特別扱いされなかった「超エリート」菅野智之の少年時代。変わったもの、変わらないもの|website=REAL SPORTS(リアルスポーツ)|date=2020-06-12|accessdate=2020-06-12}}</ref>。
菅野が小学生の時に所属していた地元の軟式野球チーム・東林ファルコンズの当時の監督は小学生の菅野について「1年生のころからポジションは基本的にピッチャーです。体も大きかったし、球も速かった。少年野球は変化球が禁止なので、基本的には球の速い子がエースになる。智之も、そういうタイプでした」「菅野のお父さんにもチームのコーチをお願いしていましたが、練習中はあくまでも一人の選手として指導してくれていました。もちろん、自宅に帰れば個人指導や練習を見たりはしていたんでしょうが、チーム内ではしっかりと「線」を引いてくれた。私たちも必要以上に彼の家のことは意識せず、他の子どもたちと同じように指導していました」と話し、チームの指導者、そしてチームメートは当然、少年時代の菅野が有名監督の孫で、スーパースターの甥っ子であることを知っていたが、菅野はチーム内で「特別扱い」されるようなことはなかった。小学6年生になると、菅野はチームで「エースで4番」を任されるようになる。ただ、決して「怪物」のような選手ではなかったというのが、当時の指導者の共通認識だった。監督は「先ほども言ったように、球は速いんです。ただ、細かなコントロールはまだなかったし、バッティングも当たれば飛びますが、空振り三振も多かった。体格に恵まれていたぶん、他の子どもたちと基礎体力やパワーはありましたが「技術」や「センス」が飛び抜けているという印象はなかったですね」と当時は評していたが、菅野が成長し、頭角を表していくのを見て「良い指導者やチームメートにも恵まれて、どんどん成長したという印象です。高校入学以降はプレーを直接見る機会は減りましたけど、3年生のころには『ドラフト候補』といわれるようになりましたからね。正直、『あのトモがここまでの選手になるなんて』という気持ちはありました」と今や日本を代表するエースにまで成長した菅野に対して評価を改めたという。その一方で、当時とほとんど変わらない面もあるといい「顔もあまり変わっていないんですが、マウンド上のしぐさや表情なんかはあのころのままです。打たれた時に見せる顔なんて、本当に小学生のころと同じで、テレビを見ながら笑ってしまうこともあります」「不思議な感覚ですね。見た目も別人なら『成長したな、別世界の人間になったな』と思いますけど、当時の面影や雰囲気はそのままなのに、巨人や侍ジャパンのユニフォームを着て、東京ドームで投げているわけですから」「トモの『血筋』は、確かに特別です。ただ、小学校、中学校までは地元の野球チーム、地元の中学校でプレーをした。いわゆる『普通の野球少年』と同じ環境で成長して、あれだけの選手になった。これからも、相模原の野球少年たちの憧れの存在でい続けてほしいですね」とインタビューに答えている<ref>{{Cite web ja |url=https://real-sports.jp/page/articles/400613330873484431/|title=特別扱いされなかった「超エリート」菅野智之の少年時代。変わったもの、変わらないもの|website=REAL SPORTS(リアルスポーツ)|date=2020-06-12|accessdate=2020-06-12}}</ref>。
東海大相模高校監督の門馬敬治は自身の恩師である原貢から「孫(智之)がいくから頼むぞ」と頼まれ、門馬は菅野が長く野球をやるための、人生の土台を3年間でつくる。つくらせたい、という覚悟で高校生の菅野を指導していた。門馬は当時の菅野の実力に関して、「投手としては、スライダーが抜群に良かった。ストレートもスライダー系で、少し曲がるような、カット気味の球でしたが、いいボールを投げていました」と評し、指導では「智之によく言ってたのは「逃げるな」です。2年春の[[春季関東地区高等学校野球大会|関東大会]]、[[埼玉県立鷲宮高等学校|鷲宮]](埼玉)戦で打たれて、2対7で負けたときも言いました。智之はスライダーを投げれば抑えられるんです。でも、1ランク、2ランク上の投手にするためには、直球とわかっていても空振りが取れる、打ち取れる投手にならないといけない。だから、「この試合は直球だけ」と投げさせたこともあります。当然、打たれます。でも、最初から切り札を出すような投手にはさせたくなかった。最後の最後、押し迫った一番の場面でスライダーを投げ込むために、その前の球を磨いていく」と教えた。また菅野に背番号「1」をつけさせた。これについて門馬は「背番号「1」を背負うということは、私は、何でも1番じゃないといけないと思っています。練習に取り組む姿勢、練習量。その1番をすべて集約したのが、背番号「1」です」「野球は投手の1球から始まります。そして、投手の支配率が高い。ならば、1番をつける人間が、全責任を負う。酷かもしれないけど、それくらいみんなが注目をする、仲間も頼る、それが背番号「1」の資格じゃないか、ということも智之には言いました」と話している。ただ、門馬は菅野に対して後悔していることがあると明かし、菅野が高校3年生の時の夏の[[全国高等学校野球選手権神奈川大会|神奈川大会]]で疲労困憊の菅野に頼りすぎたと語り、「智之が3年生だった2007年の夏は、2年生投手の調子が良くなくて、智之に頼らざるを得ない試合が続きました。5回戦の[[神奈川県立川崎北高等学校|川崎北]]との試合も競り合いになり、結局、智之を途中から出して170球くらい投げさせてしまいました。準決勝では[[横浜中学校・高等学校|横浜]]に勝ちました。夏の[[横浜スタジアム]]でのゲームは肉体的疲労はもちろん、精神的な疲労も重なります。その夜は眠れませんでした。決勝で智之を投げさせるか、投げさせないか。悩んでいるうちに、朝になりました。(当時)選手の状態、疲労、ゲーム展開、相手の状態、色んなものが見えなくなっていました。決勝は8対10で負けました。新聞で読んだ智之のコメントが忘れられません。「早く試合が終わらないかなと思っていた」「よく覚えてない」。私の、指導者としての資質が問われるひと言でした」「夏の神奈川大会。7試合を投げきる投手なんていません。わかっています。他の投手も育ててきました。それなのに、自分の思い、欲、いろんな考えが、頭のなかで入り交じり、「智之を投げさせるのが最善」だと思ってしまいました。私の思いが強すぎた。思いが強ければ、目標に到達できる、獲得できる、達成できるとか言いますが、強すぎてはだめなんだ、と。何でも過ぎてしまうと、そこに、無理が出ます。今でも悔いが残ります。智之に申し訳ない。一生、ずっと心に刺さったままの1試合です」と当時の事を明かしている。また、門馬は菅野の件で反省をし、この年以降は、誰か1人に頼るチームは作らないように心がけるようになった<ref>{{Cite web ja |url=https://diamond.jp/articles/-/344926|title=名将の血を継ぐ巨人軍エース・菅野智之に、監督が詫びたい高校時代の1試合|website=ダイヤモンド・オンライン|date=2024-06-28|accessdate=2024-06-28}}</ref>。
子供の頃の憧れの選手には[[上原浩治]]を挙げ、「テレビで見ていてほんとにすごいと思ったし、僕もあんな投手になりたいと思っていましたよ」と答えている<ref>{{Cite web ja |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202005040000241.html |title=巨人菅野「あんな投手になりたいと」憧れは先輩上原 |website=日刊スポーツ |date=2020-05-04 |accessdate=2021-07-02}}</ref>。
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