渡辺漸
渡辺 漸(わたなべ すすむ、1903年10月30日[1][2] - 1984年4月2日[3])は日本の病理医、医学者。登山家。広島大学病理学第二講座初代教授、第4代医学部長。広島大学原爆放射能医学研究所初代所長。広島大学名誉教授。「雪山讃歌」作詞者の一人。東京都出身[2]。
経歴・人物
編集1921年(大正10年)静岡県立静岡中学校[4]卒業。1922年(大正11年)第三高等学校 (旧制)入学[2]。浪人中に西堀栄三郎と知り合い、揃って合格したところに今西錦司が落ちてきて、三人一緒になり、のちに高橋健治、桑原武夫、四手井綱彦らが加わり三高山岳部(のちの京都大学山岳部)が出発した[2]。
1925年(大正14年)、東京帝国大学医学部進学[2]、東大ではスキー部に所属。同年秋、日本山岳会に入会した[2]。1926年(大正15年)1月[注釈 1]、京都帝国大学山岳部の鹿沢温泉スキー合宿の折、西堀、四手井、酒戸弥二郎とともに「雪山讃歌」を作詞。
1929年(昭和4年)、東京帝国大学医学部卒業[2]。病理学教室副手[3]。1932年(昭和7年)、3年間の『山岳』編集を終えて日本山岳会理事を退任[2]。1935年(昭和10年)、南千島茶々岳遠征隊長[2]。1938年(昭和13年)、結婚[2]。東京帝国大学伝染病研究所病理部を経て[3]、1941年(昭和16年)、平壌医学専門学校に教授として赴任[3]。終戦後、引き揚げた[3]。
1947年(昭和22年)6月、広島医学専門学校に講師として着任[3]。1948年(昭和23年)9月、広島県立医科大学教授[3]。教室の研究のテーマは造血系病理で、リンパ球の生成機序に関する実験的研究、白血球の組織化学的研究などが行われていた[3]。1953年(昭和28年)8月、広島県立医科大学は広島大学医学部へ移管。
研究成果を1954年(昭和29年)の第5回国際血液学会(パリ)や第6回同学会(ボストン)で発表、さらに1957年(昭和32年)日本病理学会総会では「白血病の発現並に進展に関する病理解剖学的研究」[5]として宿題演説を行った[3]。
1954年(昭和29年)、原爆症調査研究協議会委員、同年5月、放射線影響調査研究協議会委員、同年5月、放射線影響調査研究別委員会委員、1957年(昭和32年)、原子爆弾被爆者医療審議会委員などを歴任[3]、被爆者援護についても多大の貢献をした。
1958年(昭和33年)、広島大学医学部長[3]。1959年(昭和34年)、日本細胞生物学会第10代会長[6]。1960年(昭和35年)、白血病に関する研究業績によって第2回中国科学賞[3]。1961年(昭和36年)、広島大学原爆放射能医学研究所の初代所長を兼任、同年7月には研究所専任となった[3]。1967年(昭和42年)4月、広島大学を定年退官、同年5月、名誉教授[3]。
1968年(昭和43年)8月、国立がんセンター研究所病理部長[3]。1976年(昭和51年)4月、国際血液学会会頭[3]。11月、国立がんセンター退職[3]。
栄典
編集著書
編集- 『冬のチャチャヌプリ』 東京大学運動会スキー山岳部 2014.5
共著
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 資料によって、1927(昭和2年)1月とするものがある。