渋沢市郎
渋沢 市郎(しぶさわ いちろう、1847年11月22日〈弘化4年10月15日〉[1] - 1917年〈大正6年〉1月19日[2])は、日本の政治家、実業家、養蚕家[3]、篤農家[4]。深谷銀行取締役[1]。族籍は埼玉県平民[1]。幼名は須永才三郎[5]。子爵・渋沢栄一の妹婿で従弟。
渋沢市郎 しぶさわ いちろう | |
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生年月日 | 1847年11月22日 |
出生地 |
日本 上野国新田郡成塚村 (現群馬県太田市) |
没年月日 | 1917年1月19日(69歳没) |
配偶者 | 渋沢貞 |
子女 |
長男・渋沢元治 次男・渋沢治太郎(八基村長) |
親族 |
兄・須永伝蔵(仙石原村長) 義兄・渋沢栄一(貴族院議員) |
八基村会議員 |
人物
編集幕領上野国新田郡成塚村(後・群馬県新田郡強戸村、現・太田市)に生まれた。須永惣次郎の二男[1]。母は渋沢宗助(2代目)の娘で渋沢市郎右衛門(先代の市郎)の妹。兄は須永伝蔵。渋沢栄一が東京に移り、別に一家を創立したため、その妹婿となり渋沢市郎右衛門家(中ノ家)を承継した[5]。1892年、選ばれて八基村会議員となり1899年、名誉村長に推薦された[5]。1905年、職を辞し県会議員に当選した[5]。満期後信用組合を組織して経営した[5]。1911年、再び県会議員に当選した[5]。住所は埼玉県大里郡八基村[1]。
家族・親族
編集- 渋沢家
系図
編集渋沢只右衛門 | 渋沢宗助 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渋沢えい | 渋沢市郎右衛門 | ○ | 須永惣次郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渋沢栄一 | 吉岡なか | 渋沢貞 | 渋沢市郎 | 須永伝蔵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
穂積歌子 | 穂積陳重 | 渋沢元治 | 渋沢治太郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渋沢孝子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渋沢享三 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
登場作品
編集脚注
編集- ^ a b c d e 『人事興信録 第4版』し56頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月25日閲覧。
- ^ 渋沢栄一詳細年譜 大正6年(1917) - 渋沢栄一記念財団
- ^ 『大日本蚕業家名鑑 正』大日本蚕業家名鑑(養蚕家)埼玉県64頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年6月17日閲覧。
- ^ a b 『大日本篤農家名鑑』296頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月25日閲覧。
- ^ a b c d e f 『八基村郷土誌』100-101頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月25日閲覧。
- ^ “澁澤治太郞 (第8版)実親子関係がある採録者表示: 澁澤治太郞 (第8版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 2021年3月7日閲覧。
- ^ “閨閥学-偉人たちの家系図・子孫・経歴- 婚姻により構築される一族の繋がり 渋沢家(渋沢栄一・渋沢正雄・渋沢武之助の家系図・子孫)”. 2023年1月3日閲覧。
参考文献
編集- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 鈴木徳三郎編『八基村郷土誌』栗田宗次、1913年。
- 扶桑社編『大日本蚕業家名鑑 正』扶桑社、1913年 - 1917年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。