浅野忠敬
浅野 忠敬(あさの ただひろ、享和元年12月8日(1802年1月11日) - 安政7年1月1日(1860年1月23日))は、江戸時代末期(幕末)の安芸国広島藩筆頭家老。三原浅野家第10代当主。第9代当主浅野忠順の養子。藤堂監物信任の次男として伊勢国津に生まれた。母は三原家第8代当主浅野忠正の娘。幼名は挺二郎。通称は甲斐。子に浅野忠英(敬五)、秀子(池田政昭室)。
人物
編集文化11年(1814年)、14歳の時に家督を継ぎ三原3万石領主、広島藩家老となった。
文化13年(1816年)、広島の自邸内に講学所(のちに朝陽舘)を設け、江戸より湯浅正平を招聘し、藩士に儒学を学ばせた。また、文政3年(1820年)7月、三原城に明善堂を設置し、備中国内から西山孝恂を招聘し初代教頭とした。文政8年(1825年)8月、安芸国賀茂郡下市村より石井儀右衛門(号・豊州)を招聘し、2代目教頭とした。
文政11年(1828年)6月、三原城北隅櫓の石垣孕出の補修にあたり、図面を添付して老中青山忠裕に申請をし、文政13年(1830年)4月に老中連署の奉書により許可を得た。天保3年(1832年)5月に江戸へ行き、7月1日に江戸城に登城し、将軍徳川家斉に拝謁し、礼を述べている。
忠敬は囲碁を好み、天保6年(1835年)頃より、囲碁に強く漢詩を能くした備中国賀茂郡下野村宝泉寺10世教甫(号・葆真(ほしん)、または竹原(ちくげん))と親交した。また、この年にまだ7歳であった安田栄斎(のちの本因坊秀策)を教甫に師事させ、自ら禄を与えた。栄斎はのちに江戸へ修行に行き、十四世本因坊秀和の跡目となった。
天保7年(1836年)7月、饒津神社(当時は二葉御社)の社殿造営に石燈籠2基を献備した。また天保12年(1841年)、広島の自邸を修繕改築した。
天保14年(1843年)9月、43歳にして老齢を理由に順養子(養父の実子)の忠に譲り隠居した。安政7年(1860年)、広島にて61歳で没す。
参考文献
編集- 日本人名辞典(講談社)