河村岷雪
河村 岷雪(かわむら みんせつ、生没年不詳)は、江戸時代中期の書画[注釈 1]家。篆刻家の河村 茗谿[注釈 2]と同一人物説がある。
『百富士』
編集岷雪として、『百富士』(全四冊。1767年(明和4年))を版行する。旅路で写生した富士図、全101図を、一丁(見開き2ページ)づつ纏めた(例外3図あり)もので、各図に彼以外による狂歌・川柳・漢詩が一・二作添えられる。各冊ごとに、以下の副題が付く。
岷雪は、第四冊での跋文(ばつぶん:後書き。)にて、以下のように述べる。
予わかかりし昔 旅行の折々 ここかしこの名勝地にて士峯の風景を望み(略)見るままにうつしとめつ 懐にしてもてかへれり かくする事年久しく成りて 其数あまたつもりぬ (略)その業にとりてはおき 世のこのかみと聞えし人の画きたるをも模して 是かれとりあつめ百紙にあまりぬ 予画法につたなく 経営位置などやうのことは更なり すべて筆のたちとたどたどしく 人に見すべきものにもあらねど(略)年久しく月花のむしろに心しれる友人 これを聞伝えからのやまとの言の葉を選り ともに梓にちりばめ しづかなる窓のうちにながき翫にもせよと せちにすすめらるるにより 今更いなみがたく 人の嘲をもわすれて遂に剞劂(以下略)
明和丁亥(四年)の秋 河村岷雪 葛飾の黙ニ庵にしるす 類之河印(白文方印) 君沖(朱文方印)[3](読み易くするため、語句を区切った。「予」は小字である。反復符号は仮名に改めた。以下同じ。)
以上の内容から岷雪は、18世紀の江戸に住み、各地を旅し、職業書画家ではなく、『百富士』四冊中、自身で写生したもの以外に、古画の写し(「渡唐 雪舟筆」と「明洲津 探幽斎筆」)が混じることが分かる。
また、序文3本のうち、最初の「柳洲田謙」[注釈 3]によると、「予友人君錫風流雅到衆技兼善画」とあり、「君錫」という号も有ると分かる。
なお、朝岡興禎『古画備考』二十六、名画十四巻には、「河村君錫 黙二庵 始称山路道輔 後称神立愚鈍 学松花堂書画 坦斎話 明和頃ノ人」(訓読点を略した。「黙二庵」「坦斎話」は小字。)とあり、「松花堂」は『百富士』序文の二番目を書した人物と、同一の可能性がある[5]。
後世への影響
編集『百富士』は版を重ねた[6][7]ゆえ、後世の絵師の「手本」となった。
例えば、与謝蕪村の「富嶽列松図」(1778 - 83年(安永7 - 天明3年)、愛知県美術館蔵。重要文化財[注釈 4]。)に、第一冊「松間」の影響が見られる[7]。
また、葛飾北斎の『富嶽三十六景』(1831 - 34年(天保2-5年)頃。以下、「三十六景」とする。)・『富嶽百景』(初編:1834年(天保5年)。以下、『百景』とする。)等、複数図から『百富士』との関連が見いだせる。顕著な例は、第一冊「橋下」と、洋風版画「たかはしのふじ」(1805 - 1811年(文化2 - 8年))、及び『三十六景』「深川万年橋下」、『百景』二編「七橋一覧の不二」である[8][9][10]。
他に、第一冊末の「窗(=窓)中」と、『百景』二編「窗中の不二」も同様である[11][12]。そして、鳥居清長の「四季の富士 窗中」(洛東遺芳館蔵)[13]での援用[14]や、フェリックス・レガメも北斎経由で自作『おこま』(1883年)に取り入れている[15]。岷雪は職業書画家ではないので、『百富士』に奇抜な構図は殆ど無いが、僅かな例外が「松間」と「橋下」、「窗中」等である。
加えて、北斎が確実に訪れた記録がなく[16][17]、伝統的な名所でもない『三十六景』「常州牛堀」を描いたのは、『百富士』第四冊「牛堀 常洲」の影響だと考えられる[18][6][19]。
また、北斎個々の作品に限らず、『三十六景』の構成自体が『百富士』の影響を受けている、具体的には、第一冊の「江府」は勿論だが、第二冊「裏不二」[注釈 5]、第三冊「東海道」に、上述した第四冊「牛堀」など、取り上げる場所が重複していると指摘される[20][21]。
画像一覧
編集-
『百富士』第一冊「松間」
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『百富士』第一冊「橋下」
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北斎「たかはしのふじ」
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『冨嶽三十六景 深川万年橋下』
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『富嶽百景』第二編「七橋一覧の不二」
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『百富士』第一冊「窗中」
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『富嶽百景』第二編「窗中の不二」
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『百富士』第四冊「牛堀常洲」
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『富嶽三十六景』より「常州牛堀」
河村茗谿
編集岷雪と茗谿が同一人物ではと指摘したのは、静岡県立美術館の福士雄也である[24]。宗善寺(和歌山県 和歌山市和歌浦中)所蔵の『書画貼交屏風』(六曲一双)での貼り交ぜ書画56点の中に、「岷雪筆 茗(朱文方印)」の富嶽図が確認され[25]、中井敬所『続補日本印人伝』の「河村『茗』谿」の項で、「名は類之、あざ名は君錫、江戸に住す。篆苑・図書癖・玄圃積玉あり。」と、前半部は『百富士』序文・跋文及び、『古画備考』の記述に一致する[26]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 東京国立博物館 1973, pp. 219–220.
- ^ 日野原 2019, pp. 217.
- ^ 磯 1961, pp. 69–70.
- ^ 磯 1961, p. 71.
- ^ 磯 1961, p. 70.
- ^ a b 大久保 2005, p. 102.
- ^ a b 福士 2013, p. 13.
- ^ 磯 1961, pp. 74–75.
- ^ 大久保 2005, p. 100.
- ^ 日野原 2019, pp. 29, 218.
- ^ 磯 1961, pp. 81–83.
- ^ 大久保 2005, pp. 100–101.
- ^ 吉田 1963, p. 111.
- ^ 大久保 2005, p. 101.
- ^ 馬渕 2017, p. 49.
- ^ 柳田 1938, pp. 12, 33.
- ^ a b 永田 2009, pp. 4–14.
- ^ 磯 1961, p. 74.
- ^ 日野原 2019, p. 65.
- ^ 磯 1961, pp. 72–73.
- ^ 大久保 2005, pp. 100–102.
- ^ Régamey 1883.
- ^ 中田 1966, p. 19.
- ^ 福士 2013, pp. 14, 74.
- ^ 和歌山県立博物館 2013, pp. 57, 59, 91.
- ^ 中田 1966, p. 313.
参考文献
編集一次史料
編集- 河村岷雪『百富士』京都・西村市郎右衛門ほか書林、1767年。全四冊。
- 朝岡興禎 (1850年). “古画備考自筆本”. 東京藝術大学附属図書館所蔵. 国文学研究資料館. 2020年6月9日閲覧。
- 朝岡興禎; 小川実増補稿本. “古画備考26巻”. pp. 94-95. doi:10.11501/2591610. 2020年6月9日閲覧。
- 赤松宗旦『利根川図志』1855年。全六冊。
- Régamey, Félix; Takizawa, Bakïn (1883). Okoma:roman japonais illustré. Paris: E. Plan et cie
二次資料
編集- 中井敬所『日本印人伝』1915年。
- 磯博「河村岷雪の『百富士』と北斎の富嶽図」『美学論究』第1号、関西学院大学文学部美学研究室、1961年、67-84頁。
- 吉田暎二『日本版画美術全集3 春章-清長』講談社、1963年5月30日。
- 東京国立博物館 編『東京国立博物館100年史』1973年。
- 大久保純一『千変万化に描く-北斎 の富嶽三十六景』小学館、2005年9月20日。ISBN 4-09-607022-X。
- 永田生慈「北斎旅行考」『研究紀要』第2号、財団法人北斎館 北斎研究所、2009年、4-14頁。
- 和歌山県立博物館 編『桑山玉洲のアトリエ』2013年4月。
- 静岡県立美術館編『世界遺産登録 富士山の絵画展』2013年9月。
- 福士雄也『富士見のトポスとその変遷-「発見」される富士山』、6-15頁。
- 福士雄也『河村岷雪画 百富士』、74頁。
- 馬渕明子監修『北斎とジャポニスム』読売新聞東京本社・国立西洋美術館、2017年10月21日。
- 日野原健司『北斎 富嶽三十六景』岩波書店〈岩波文庫〉、2019年1月16日。ISBN 978-4-00-335811-5。