池田博忠
江戸時代後期の岡山藩家老。建部池田家(森寺池田家)12代
池田 博忠(いけだ ひろただ)は、江戸時代後期の岡山藩の家老。通称は弁之進、刑部。建部池田家(森寺池田家)12代当主。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 享和3年3月15日(1803年5月6日) |
死没 | 文久2年8月3日(1862年8月27日) |
別名 | 弁之進、刑部(通称) |
主君 | 池田斉政、斉敏、慶政 |
藩 | 備前岡山藩 |
氏族 | 池田氏(長政流) |
父母 | 父:池田博教、母:國子 (松平頼裕の娘) |
兄弟 | 方智、静(佐々光宣室)、博忠 |
妻 | 正室:佐喜(大久保頼郁の娘) |
子 | 鉄子 (土倉一善室)、博文、壽子 (菅道定室)、祐賢 |
略歴
編集10代当主池田博教の子として誕生。
文化3年(1806年)父博教が急死したとき4歳であったため。叔父池田方智が一時家督した。文政3年(1820年)2月養父方智の隠居により家督を継ぎ、岡山藩家老建部1万石の領主となる。学問を好み、歌人としても活躍した。
天保年間、建部中田の学問所の教員を改選して家中の教育を更に振興した。弘化元年(1844年)8月仕置家老となる。弘化2年(1845年)名を刑部と改める。嘉永5年(1852年)12月、幕府より備前児島洲の開墾を賞され、その責任者として時服を賜る。安政元年(1854年)下屋敷普請を担当した職人の賃金を藩が発行した銀札で支払い、翌日に銀札の切り下げ(安政の札潰れ)を行ったため非難を浴びた。
参考文献
編集- 黒正巌著「封建社会の統制と闘争」
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