水野長勝
石見守
水野 長勝(みずの ながかつ)は、戦国時代の武将。母・覚法院殿は徳川家康の母・伝通院殿の姉であり、長勝は家康の従兄弟にあたる[1][2]。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 天文元年(1532年) |
死没 | 慶長14年(1609年)11月3日 |
別名 | 国丸、藤助、新右衛門 |
戒名 | 浄圓 |
墓所 | 昌国寺(武蔵国男衾郡赤浜) |
官位 | 従五位下石見守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 織田信長、北条氏政(北条氏邦)、徳川家康 |
氏族 | 水野氏 |
父母 | 父:水野成清、母:於丈の方(水野忠政娘) |
子 |
貞正、女子(黒川正秀の妻) 養子:忠貞 |
生涯
編集水野成清の子として生まれる。
天文2年(1533年)3月、2歳のとき、父・成清が自害し、母と共に刈谷に逃れる[3]。母が松平家広と再婚し、以後、家広に養育された[3]。
成長後は、織田信長に仕えた[3]。尾張国石ヶ瀬川の戦いで戦功を挙げ、感状を与えられた[3]。信長の死後は北条氏政に仕え、北条氏邦に属した[3]。
後北条氏滅亡後の天正19年(1591年)7月、旗本に取り立てられた[1][3]。武蔵国男衾郡のうち、赤浜・能増2か村800石を賜り、赤浜村に陣屋を置いた[1][2][3]。
慶長7年(1602年)5月、伏見城の城番となり、奏者番を兼ねた[3]。このとき大和国宇智郡・葛下郡・式下郡のうちで2000石の加増を受けた[3]。
慶長9年(1604年)6月22日、従五位下石見守に叙任[3]。
昌国寺
編集天正年間(1573年 - 1592年)、赤浜に昌国寺(曹洞宗)を建てたと伝わる[4][5]。開山は曜室英旭[4]。慶長2年(1597年)5月、母・覚法院殿が亡くなり、昌国寺に葬る[2]。同4年(1599年)2月、昌国寺を菩提寺とする[2]。
脚注
編集参考文献
編集外部リンク
編集- 鉢形城歴史館|昌国寺(しょうこくじ) - 寄居町