柴田衛守

幕末から大正期の剣客

柴田 衛守(しばた えもり、1849年12月5日(嘉永2年10月21日[1])- 1925年大正14年)9月10日[注 1])は、幕末から大正期の剣客鞍馬流剣術第15代宗家警視庁撃剣世話掛大日本武徳会剣道範士。鞍馬流中興の祖といわれる。警視庁には47年間勤務し剣道主席師範を務めた。明治21年6月時点の階級警部補[2]

しばた えもり

柴田 衛守
生誕 1849年嘉永2年)10月21日
江戸四ツ谷仲殿町
死没 1925年大正14年)9月10日
国籍 日本の旗 日本
別名 政貞
肩書き 鞍馬流剣術第15代宗家
警視庁撃剣世話掛
大日本武徳会剣道範士
親戚 柴田鐵雄(孫)
テンプレートを表示

経歴

編集

生い立ち

編集

三河以来の直参旗本柴田家の長男として、江戸四ツ谷仲殿町に生まれる。幕府槍術指南役である父政雄から本心鏡知流槍術を学ぶ。8歳で鞍馬流剣術第14代・金子助三郎に入門、その息子熊一郎の指南も受ける。18歳で鞍馬流免許皆伝。その後、元講武所剣術教授方・間宮鉄次郎忠也派一刀流剣術を学び、後に免許を与えられる。柔術捕縄術も修めた。

明治維新後

編集

1873年(明治6年)6月、2代目斎藤弥九郎神道無念流)主催の官許撃剣揮槍会に出場。

1877年(明治10年)、西南戦争陸軍看護長として従軍。

1879年(明治12年)、埼玉県から上京してきた高野佐三郎山岡鉄舟の道場を紹介する。

1879年(明治12年)12月、警視庁四谷警察署撃剣世話掛に就任。四谷箪笥町に道場を開き、勝海舟に「習成館」と命名される。その後習成館は四谷区内を数度移転する。

1882年(明治15年)11月25-26日、第1回向ヶ岡弥生社撃剣大会で、巡査除川喜十郎(旧和歌山藩士、田宮流)、巡査間宮永吉と対戦。

1883年(明治16年)11月4日、第2回向ヶ岡弥生社撃剣大会、槍術の部、剣術の部に出場。槍術の部では宮内省奥政明と、剣術の部では埼玉県巡査幡生輝馬(旧川越藩士、北辰一刀流)と対戦。

1884年(明治17年)11月8日、第3回向ヶ岡弥生社撃剣大会で、千葉県警部金田武司に勝利。

1886年(明治19年)頃、警視流木太刀形に鞍馬流の「変化」が採用される。

1894年(明治27年)7月7日付の読売新聞に衛守を讃える記事が掲載される。この頃、日本と清国の緊張が高まったことにより入門者が増える。

1904年(明治37年)8月31日、門人橘周太(陸軍少佐)が日露戦争で戦死。

1908年(明治41年)11月4日、長男心一郎(日本橋警察署武術教師、習成館の跡継ぎ)が病死。次男勧が急遽早稲田大学を中退して習成館を後継し、その後警視庁に出仕。

1911年(明治44年)、大日本帝国剣道形制定の委員を務める。

1915年(大正4年)8月、大日本武徳会から範士号を授与される。

1918年(大正7年)、習成館を西信濃町に移転。

1924年(大正13年)4月26日、孫鐵雄が誕生。

1925年(大正14年)9月10日、死去。享年76。

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 『剣道事典 技術と文化の歴史』353頁では9月11日。

出典

編集
  1. ^ 『剣道事典 技術と文化の歴史』353頁。
  2. ^ 『警視庁武道九十年史』23頁、警視庁警務部教養課

参考文献

編集

外部リンク

編集