柳生俊順
柳生 俊順(やぎゅう としむね)は、大和柳生藩の第12代藩主。
時代 | 江戸時代後期 - 末期(幕末) |
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生誕 | 天保7年(1836年) |
死没 | 文久2年7月24日(1862年8月19日) |
戒名 | 陽徳院殿剛厳宗建大居士 |
墓所 |
東京都練馬区桜台の広徳寺 奈良県奈良市柳生町の芳徳寺 |
官位 | 従五位下、対馬守、但馬守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 大和柳生藩主 |
氏族 | 武田氏→柳生氏 |
父母 | 父:武田信之、養父:柳生俊能 |
兄弟 | 俊順、俊益、柳沢光邦 |
妻 | 正室:木下俊敦の娘 |
子 |
綏子 養子:俊益 |
生涯
編集高家旗本の武田信之の次男。嘉永3年(1850年)11月5日、先代藩主の柳生俊能が死去すると、その養嗣子となって跡を継いだ。嘉永4年12月16日、従五位下・対馬守に叙任する。後に但馬守に改める。半蔵口御門番を務めた。文久2年(1862年)7月24日、27歳で死去した(幕府には閏8月3日死去と届けられた)。跡を弟で養嗣子の俊益が継いだ。